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栗橋町(くりはしまち)
 埼玉県北東部に位置していた町。町名は利根川を船で渡るとき両岸に杭を打ち、その間に張った綱を伝って渡る「転船(くりふね)」から「繰り橋(くりはし)」になったのだという。その由来からも多くの河川が周辺を流れており、歴史は川と共に歩んで来た。また奥州(東北)への交通の要衝でもあり、自動車や鉄道共に今も通行量盛んである。平成二十二年三月二十三日をもって鷲宮町・菖蒲町と共に久喜市に合併をした。

 中世期には下総国下河辺荘といい、鎌倉時代には幕府奉公衆壱岐希広が高柳郷の地頭職に任じられたりしたが、下河辺荘全体が将軍家の直轄領となった後に執権北条氏の領地化された事もあって、当地に土着するという事はなかった。
 室町期になると古河公方の影響を強く受けていたと考えられるが、町の大部分は湿地で古河に近い事もあってか、ここに城館を築かれる事は少なかったようである。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
高柳氏館 栗橋陣屋 佐間小草原遺跡
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 高柳氏館 読み たかやなぎしやかた
所在地 埼玉県久喜市佐間
字陣屋敷添
所在地地図
別名   コード 11_09_007_00100
築城年 平安末期 主な城主 高柳三郎行元
廃城年 不詳 形態
   
歴史
秀郷流大河戸氏の一族
 当地の高柳氏は藤原秀郷の後裔であり、大河戸下総権守重行の子である三郎行元が、地名を取り高柳と号したのが始まりであると言われる。
 行元は兄弟で平家について源頼朝と戦ったが、養和元年(1181)に兄弟共に頼朝に赦免されて仕える事となった。その後行元は文治元年(1185)平家追討使源範頼に従って豊後国へ渡って戦い、建久元年(1190)には頼朝上洛に供奉している。後に元久二年(1205)には畠山重忠謀殺の首謀者である稲毛重成を討っている。
奥州へ移住
 鎌倉期には陸奥国山村(宮城県仙台市青葉区芋沢)に所領を与えられ大河戸一族は次第に山村へ移住していった、のちに高柳行元より六代孫にあたる三郎左衛門隆行は、元の苗字である大河戸を名乗り、京都六波羅攻めに参戦している。
 執権北条氏滅亡後も陸奥国には北条氏に関わる者達が多くいた為に津軽にて反乱が起き、隆行は北畠顕家の命により一族を率いて反乱の鎮圧に赴いている。陸奥国においても南朝・北朝で分かれ争い合っていた時代で、山村に住んでいた大河戸氏一族は南朝方に付いていたようである。
大河戸氏の末裔朴沢氏
 南北朝期から室町期に至る期間、大河戸氏についての動向は不明である。大河戸隆行には三人の子がおり、長男広隆は大河戸氏、次男隆信は山村氏、三男経家は朴沢(ほおざわ)氏を名乗った。その中で大河戸隆行の三男経家の家系である朴沢氏以外、南北朝の争いの中で没落してしまった可能性があり、戦国期に至るまでにその行動が見られなくなる。
 室町期になって北田川中流域や広瀬川上・中流域に勢力を伸ばした結城七郎の末裔と伝わる国分氏がおり、戦国期において朴沢氏は国分氏の支配下に入る事になった。その国分氏も戦国末期になり米沢の伊達氏から養子をもらい臣従したが、天正十五年(1587)に国分領内にて内乱が起きた。当主国分盛重はその責を負い国分氏の名跡を伊達政宗より取り上げられ、国分氏は滅亡した。
 この事もあって国分氏の家臣たちは、そのまま伊達氏の家臣団に組み込まれたという。朴沢氏もまたこの時から伊達氏の家臣になったようで、以後近世を通じて仙台藩伊達氏の家臣として家名を残す事ができた。
 そして今日でも残る『朴沢文書』はこの朴沢氏によって伝えられ、当時の国分領内における動向などがわかるようになった。
遺構  定福院一帯が中世期の館跡であったと伝わる。西の八幡神社にかけて一体感が感じられ、明確な遺構がないが中世期の館跡があったような雰囲気を出している。

城名 栗橋陣屋 読み くりはしじんや
所在地 埼玉県久喜市
栗橋北二丁目
所在地地図
別名 御陣屋 コード 11_09_007_00200
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 明治二年 形態 陣屋
   
歴史
江戸期の関所
 陣屋の存在自体は江戸期で、栗橋宿と共に栗橋関所が置かれた。池田家所蔵絵図によると現在の八坂神社付近が関所番士屋敷跡であったようで、八坂神社の一角にそれを示す碑が建てられている。
遺構  自然堤防上に位置していた事から中世の城館を思わすところがあるが、それについての史料は現在見つかっていない。

城名 佐間小草原遺跡 読み さまこくさばらいせき
所在地 埼玉県久喜市
佐間字小草原
所在地地図
別名   コード 11_09_007_00300
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館?
   
歴史
発掘された謎の遺構
 昭和四十四年の土地改良工事などにより当地より板碑三七点が出土した。後の平成十七年に再調査がなされた所溝跡などが見つかり、単なる墓地ではなかった可能性が高まった。
 発掘により発見された遺構なので、伝承および歴史などは伝わっていない。
遺構  現在、当地は農地などになっており、遺構があった感じをみせない風景が広がっている。

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<<主要参考文献>>
栗橋町史 第三巻 資料編
 原始・古代・中世
栗橋町 (2008)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
久喜市史 通史編 上巻 久喜市 (1992)
仙台市史 特別編7 城館 仙台市 (2006)