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幸手市(さってし)
 埼玉県東部に位置する市。中世期までは下総国の西端で、かって利根川が乱流していた頃の名残を示す川が市内を流れている。

 中世期には下総国下河辺荘の一部として、市内を鎌倉街道中道が縦断していた。後に田宮荘として一色氏関連の史料で「幸手村」の名が現れてくる。江戸期に入り武蔵国に編入され、幸手は宿場町として栄える事となった。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
幸手城 天神島城 巻島氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 幸手城 読み さってじょう
所在地 埼玉県幸手市中一丁目 所在地地図
別名   コード 11_09_006_00100
築城年 室町期 主な城主 一色直朝
一色義直
廃城年 戦国末期 形態 平城
   
歴史
幸手城と一色氏
 旧利根川の自然堤防上に築かれた城で、初代古河公方足利成氏が関東管領上杉氏に対して築いた城とされている。文明三年(1471)に上杉方である太田資忠(太田道灌の弟)と長尾景信(長尾景春の父)らによって攻め落とされている事から、この頃には幸手城はあったものと思われる。
一色公深とその故郷
愛知県西尾市安休寺の傍らにある一色氏発祥の石碑  城主である一色氏は足利氏の一族で、弘長三年(1263)に尾張守であった足利泰氏(尊氏より五代前)と桜井判官俊光の娘との間に生まれた公深が一色氏の祖である。庶子であったため公深は母方の桜井氏によって養育され、長じると幡豆郡吉良庄の地頭職であった祖父桜井判官俊光よりその職を譲り受け、吉良庄一色(現在の愛知県西尾市一色町一色付近)に居を構えて一色氏と名乗った。
 公深は一族である今川国氏(戦国大名今川氏の祖)の娘を娶り、太郎頼行と次郎範氏の二子を得ている。元応元年(1319)に公深は太郎頼行に吉良庄の地頭職を譲り、次郎範氏と共に父の遺領である当下総国下河辺郡田宮庄に移っている。
 なお、長男の太郎頼行はしばらく吉良庄の地頭職をしていたが延元元年に足利尊氏が九州に逃れる際、一色一族を引き連れて尊氏の下に赴き、九州にて奮戦したという。こうして一色氏は一色の地を去り、一色氏の居館の有力候補地である愛知県西尾市一色町一色の安休寺には「一色氏發祥之地(写真)」と書かれた石碑が置かれている。
関東における一色氏
一色範氏の子である直氏が関東一色氏の開祖といい、『竜燈山伝燈記」という史料によれば応永六年(1399)に関東管領上杉氏により下総国下河辺荘・田宮荘・文間荘を与えられ、田宮荘幸手村を本拠として定めたという。
 古河公方足利氏にとって一色氏は家臣団の中で筆頭格であったが、戦国末期になってくると小田原後北条氏の影響が及んできて政治的立場は次第に低下してきた。しかし、古河公方家中における礼儀の場には必ず一色一族が出席したという。
 その後の幸手一色氏は資料がなく動向が不明であるが、古河公方足利氏家臣として従っていたのであろう。後に天正十八年(1590)に北条氏に替わり徳川家康が関東を支配した際、義直は幸手領内に五一六〇石の知行を受けた。

江戸時代の一色氏とその後
 義直の後を子の照直が継いだが慶長一二年(1607)に子が無いまま病死。そのため義直の娘が産んだ孫の直氏を養子とし、家督を継いだ。やがて一色氏は下総国相馬郡野崎村(千葉県野田市)に移住し、元禄十一年(1698)一色義与の代に三河国設楽郡長篠村(愛知県南設楽郡鳳来町)に知行替えする事となり、関東から離れていった。
遺構
 遺構は既に江戸期に破壊されていたようで、城の北東にあったという天神社、南東であったという稲荷社、そして幸手駅構内を結ぶ範囲が城であったと思われる。

城名 天神島城 読み てんじんしまじょう
所在地 埼玉県幸手市天神島 所在地地図
別名   コード 11_09_006_00200
築城年 不詳 主な城主 一色宮内少輔直高
廃城年 戦国末期? 形態 平城
   
歴史
幸手城の支城
 一色氏による築城と伝える。天文二十三年(1554)に北条氏康が足利晴氏攻略の際に、当城も攻略されて落城。城主一色直高は芦原に潜み、姓を芦葉と改めたという。(当ページ「芦葉氏屋敷」参照)
 以後城は廃されたものと思われる。
遺構
 天神宮周辺が城跡であるとされ、近くの家には「内手の家」という名前がある。また、倉松川沿いの土手より、かっての堀や土塁を今も見ることができる。

城名 巻島氏屋敷 読み まきしましやしき
所在地 埼玉県幸手市権現堂
字御屋敷
所在地地図
別名   コード 11_09_006_00300
築城年 戦国末期 主な城主 巻島主水助
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
桃井氏の一族槇島氏
 「槙嶋氏系図」によると巻島氏は元々桃井氏の出身で、山城国槙嶋村(京都府宇治市)に住んでいた。光基の代より姓を槙嶋と称した。
 七代目の昭光の弟昭人が戦功により西大輪村(北葛飾郡鷲宮町)に所領を得て、昭久の弟久次の子兵庫が天神島城城主一色宮内(直高)に仕えた。しかし、天正二十三年(に天神島城落城後、高野(北葛飾郡杉戸町)に移り没した。
 兵庫の子槙嶋豊後も一色氏に仕え、高野にて没したが、弟の五郎兵衛は当地権現川岸に住み、孫の五郎兵衛の代に豊臣秀吉より感状を賜り、姓を「巻島」へと改めた。後に子孫はこの地に住み続けたという。
遺構
 現地は宅地化が進んでおり、遺構はほぼ見ることができない。一角にある若宮八幡宮はかって屋敷がそこにあった事を示すかの様に建っている。

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<<主要参考文献>>
幸手市史 通史編T
自然・原始古代中世近世
幸手市 (2003)
幸手一色氏
 −系図から伝承まで−
幸手市 (2001)
幸手町歴史散歩 幸手町(市) (1981)
一色町誌 愛知県一色町 (1970)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)

幸手市城館まがい地一覧 早見表
平野館 船川氏屋敷 織部屋敷 梅林寺氏屋敷
秋間氏屋敷 出井氏屋敷 吉羽氏屋敷 芦葉氏屋敷

城名 平野館 読み ひらのやかた
所在地 埼玉県幸手市平野 所在地地図
別名   コード 11_09_006_10100
築城年 鎌倉期 主な城主 下河辺行平?
廃城年 不詳 形態
   
備考
 源頼朝の重臣であった下河辺行平が住んだといわれるが長い年月が過ぎ、また所領が広かったために場所が明確ではなく、所在地は今も確認はされていない。当地も行平の館があったという伝承地の一つである。

 一角に水路に囲まれた微高地(ほぼ住地)がいくつかあるが、これのいずれが行平の館かは不明である。

城名 船川氏屋敷 読み ふなかわしやしき
所在地 埼玉県幸手市平須賀 所在地地図
別名   コード 11_09_006_10200
築城年 天慶年中?
(938〜946)
主な城主 船川孫右衛門尉亮長
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考
 船川氏は幸手で最も古くから住んでいたとされ、天慶年中(938〜946)に平将門討伐のために熊野(和歌山県)から従軍してきた船川孫右衛門尉が、そのまま当地に住む事となって以来続いているという。以後五十代に続くまで名主になり、多くの古文書などを伝えてきた。

 現在、平須賀宝聖寺周辺に集落が集まっており、一角には塚などが残されている。

城名 織部屋敷 読み おりべやしき
所在地 埼玉県幸手市上高野
字織部
所在地地図
別名   コード 11_09_006_10300
築城年 戦国末期? 主な城主 浜野織部
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考
 江戸初期にこの周辺を開拓した浜野織部の屋敷があったと言われる場所。いつの頃から住み始めたかは伝えていないが、織部の墓石には慶安四年(1651)没とあるので、江戸初期にはこの地に住んでいたと思われる。

 かっての水田地帯は周辺に民家が立ち並び、当時の風情が失われつつある。

城名 梅林寺氏屋敷 読み ばいりんじしやしき
所在地 埼玉県幸手市上高野
字菩薩
所在地地図
別名   コード 11_09_006_10400
築城年 慶長五年?
(1600)
主な城主 梅林寺氏
廃城年 不詳 形態 平城
   
備考
 かって小田原北条氏に仕えた修験者梅林寺氏が慶長五年(1600)にこの地に住んだと言われる。上高野小学校付近はかって明神山菩薩院梅林寺という京都三宝院の末寺があり、梅林寺氏も修験者としてそのまま住み続けたようである。

 上高野小学校北に上高野神社があり、鳥居脇の解説板には梅林寺氏が神職も兼ねて居た事が書かれている。

城名 秋間氏屋敷 読み あきましやしき
所在地 埼玉県幸手市中五丁目 所在地地図
別名   コード 11_09_006_10500
築城年 江戸初期 主な城主 秋間正左衛門
秋間魯斉
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考
 秋間氏の祖は下野足利の長尾顕長の家臣秋間弾正で、弾正の次男正左衛門が田宮庄幸手宿牛村に居を構えたのが始まりと伝えられている。
 六代目である魯斉は若い時に足に腫れ物ができ、長年苦しんだのを機に医師を目指した。以後代々医師となり、今も「牛村病院」として子孫の方が今も治療を続けられている。

 牛村川(別名天神川)が今も水堀を成し、見る影もない幸手城の代わりに古城らしい風情を漂わせている。

城名 出井氏屋敷 読み でいしやしき
所在地 埼玉県幸手市中川崎 所在地地図
別名   コード 11_09_006_10600
築城年 戦国末期 主な城主 出井氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考
 出井氏は織田信長家臣柴田勝家の子孫といい、勝家の居城越前北の庄城が豊臣秀吉により落城する際に落ち延び、この地にやってきて江戸時代には代々名主になったといわれる。

 安楽院と香取神社周辺には旧家が多く、その多くは大阪方の落ち人の子孫であるといわれる。

城名 吉羽氏屋敷 読み よしばしやしき
 
所在地 埼玉県幸手市外国府間 所在地地図
別名   コード 11_09_006_10700
築城年 天正十八年?
(1590)
主な城主 吉羽氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考
 

城名 芦葉氏屋敷 読み あしばしやしき
 
所在地 埼玉県幸手市中島 所在地地図
別名   コード 11_09_006_10800
築城年 天文二十三年頃
(1554)
主な城主 一色宮内少輔直高
(芦葉次郎満朝)
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考
 幸手城主一色氏の一族である一色宮内少輔直高が当地芦原に隠れ住んだとされる。その時に姓を「芦葉」と改め、この地に土着した。以後、江戸期を通じて下総国中島村の名主を代々務め、明治時代には東京へ移住していったという。
 芦葉家の墓所には天正五年(1577)に没した初代「芦葉次郎満朝」の名が見られる。