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菖蒲町(しょうぶまち)
 埼玉県の東部に位置していた町で、西側には大宮台地があり、東は加須低地がある。近年まで水田が広がる地域であったが、圏央道が町の南部を通過するため、急速に開発が進んできている。そして平成二十二年三月二十三日に久喜市と合併し、現在は久喜市内になっている。

 中世には太田庄に属し、河川に囲まれた氾濫原ゆえに鎌倉幕府より開発を進められた。室町中期になると古河公方足利氏と関東管領上杉氏との争乱の場となり、古河公方方の軍事拠点として菖蒲城が築城される。
 江戸期になると菖蒲領となり、町内九千石の内、旗本内藤氏が五千石知行する事となった。 
当ページ収録城館跡一覧 早見表
菖蒲城 菖蒲陣屋 小林氏館 栢間氏館
内藤氏陣屋 鳩井氏館 福田氏館 大蔵氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 菖蒲城 読み しょうぶじょう
 
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
新堀字菖蒲
所在地地図
別名 新堀城 コード 11_08_009_00100
築城年 康正二年
(1456)
主な城主 金田式部則綱
廃城年 天正十八年
(1590)
形態 ふけ城
   
備考  金田氏の本姓は佐々木氏であり、近江六角佐々木氏の末裔にあたるという。佐々木秀義より十二代孫の氏頼の長子満高が初めて金田姓を名乗ったという。その一族が室町幕府成立にあたり鎌倉府奉公衆となって関東に来たとも考えられる。
 応永二十六年(1419)頃、金田友綱が須賀(宮代町)に住んでいたが、後に除堀(久喜市)へ移り住み、結城太蔵兵衛や騎西尾田正達といった者たちを討ち取り、頭角を現してきた。
 友綱の子則綱は古河公方初代足利成氏の家臣となり、康正二年(1456)に成氏の命により当地に城を築き「菖蒲城」と名づけた。そして佐々木に姓を戻した。
 則綱より氏綱・顕綱・定綱と代々古河公方家に仕えて、五代目頼綱の代になると古河公方家は相模の北条氏に破れ、それと同じくして佐々木(金田)氏も北条氏に降伏したという。「佐々木家系図」によればこの時武州笠羽田(川越市笠幡?)に五〇〇貫拝領したとある。
 六代目の源四郎秀綱は成田下総守氏長に属したが、天正十八年(1590)に忍城の開城と共に菖蒲城は廃城となった。
 佐々木氏の子孫は現在、大塚氏を名乗っているという。

 当地は北・西・南に深い湿地帯となっていて、この地形を利用して対上杉氏に備えていたのであろう。土塁や空堀などが分かっていたというが、近年になり県道の設置と農地整理によって遺構は見る影もなくなってしまった。
 現在では城跡の名残である高さ40cm程の微高地に石碑が建ち、県道ぎわには近世にこの辺りを治めた内藤氏の陣屋門が置かれている。また、初夏の季節になるとその名の通りあやめの花が周辺を彩る。

城名 菖蒲陣屋 読み しょうぶじんや
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
菖蒲字陣屋(字宮本)
所在地地図
別名   コード 11_08_009_00200
築城年 不詳 主な城主 佐々木氏?
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
備考  地名に「陣屋」を残すのみで、そこに居住した人物については明らかになっていない。一説によれば菖蒲城主佐々木氏の一族が住んだとも言われているが、詳しくは分かってない。

 所在地は市街地になっており、めぼしい遺構を見つける事はできなかった。道路にいくつかの用水路があるが、これが水堀の名残であるのかも知れない。

城名 小林氏館 読み おばやししやかた
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
小林字京手?
所在地地図
別名   コード 11_08_009_00300
築城年 戦国期? 主な城主 小林周防守
廃城年 戦国末期? 形態
   
備考  小林氏の出自ははっきり分かっていない。「新編武蔵風土記稿」によると小田原北条氏分国の頃は小林周防守が領せしとあり、村内妙福寺にある鬼簿には小林周防守らの名が見られる。また、「成田家分限帳」にも小林監物や小林図書らの名前が見られるという。

 小林地区の中央部にある妙福寺には館跡の遺構らしき跡は見受けられない。この周辺には古くからの家が多く、中世からの村がそこにあった事をうかがわせる。

城名 栢間氏館 読み かやましやかた
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
下栢間字在家
所在地地図
別名   コード 11_08_009_00400
築城年 平安末期 主な城主 栢間六郎弘光
廃城年 不詳 形態
   
備考  栢間氏は野与党出身の武士で、野与基永の孫である弘光が栢間六郎を名乗った事から始まる。
 鎌倉期になると幕府の御家人として活躍しており、仁治二年(1241)に弘光の孫である左衛門尉季村が多賀谷兵衛尉と共に武蔵野開田の奉行となったり、季村の子である左近将監季直は暦仁元年(1238)、将軍藤原頼経の上洛の時に供奉したという。

城名 内藤氏陣屋 読み ないとうしじんや
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
下栢間字陣屋
所在地地図
別名 下栢間陣屋
内藤陣屋
コード 11_08_009_00500
築城年 天正十八年
(1590)
主な城主 内藤四郎左衛門尉正成
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
備考  内藤家は徳川氏譜代の臣で、四郎左衛門尉正成の代に家康が関東に入国の際三河国幡豆郡より当地に五千石を賜り、陣屋を築き住みついた。
 この正成が病に倒れた時に、徳川秀忠より、医師久志本左京亮常衡が差遣されたが、治療の甲斐なく慶長七年(1602)四月一二日に死去した。
 後に三代忠俊の代に改易の憂き目に遭うが、初代正成の長子の系統がその後を継ぎ以後この旗本内藤家が江戸詰めになった時にも陣屋が置かれ、家人が留守を守ったという。

 陣屋跡地は現在栢間小学校敷地付近となっており、解説板がある以外陣屋の面影を示す物は発見できなかった。同陣屋で使用されていた門は菖蒲城へと移築されている。

城名 鳩井氏館 読み はといしやかた
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
上栢間字沼尻
所在地地図
別名 栢間城 コード 11_08_009_00600
築城年 不詳 主な城主 鳩井将監
鴨田筑後
廃城年 戦国末期? 形態
   
備考  『新編武蔵風土記稿』栢間村の項に「古城跡」とあり、そこに鳩井将監なる人物が住んでいたと記されるのみである。康暦三年(1381)以前には鳩井氏がこの地に館を構えたようである(鳩谷氏館参照)
 そして正法院の熊野社にある永禄十三年(元亀元年:1570)の棟札に、「大檀那鳩井息女鍋殿」と載せている事から、この頃までは当地に所在していたようである。
 その後、没落した鳩井氏の代わりに、忍成田氏の家人である鴨田筑後という人物が住むようになったという。
 
 栢間赤堀の流れる流域にその館跡があるようだが、その所在地ははっきり分かっていない。旧家も周辺にあるので、その一部とも考えられる。

城名 福田氏館 読み ふくだしやかた  
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
栢間?
別名   コード 11_08_009_00700
築城年 戦国末期 主な城主 福田幸十郎
福田治部左衛門
廃城年 不詳 形態
   
備考  福田氏は戦国末期、当地に所領を受けていた武士であり、その存在は「成田氏長印判状(天正四年:1576)」により明らかにされ、福田幸十郎に二〇貫文余の所領を受けていたとされている。また、「成田家分限帳(天正十年:1582)」には福田治部左衛門なる人物が十貫五〇〇文で知行を受けていた事などが書かれている。

 福田氏に関する事は古文書のみで、その居館地などは現時点では分かっていない。
 「清久村郷土史(久喜市)」にある福田氏と同族であると思われるが、栢間の地に所領を得ていたと記録が残るのは戦国末期であり、それ以前から当地に住んでいたのか?あるいは菖蒲町町内のいずこからかの分家(移住)かも検討する必要がありそうである。
 上栢間地内に「字陣屋」があるので、以後調べる必要がある。

城名 大蔵氏館 読み おおくらしやかた  
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町
三箇字大蔵
所在地地図
別名   コード 11_08_009_00800
築城年 平安末期 主な城主 大蔵九郎大夫経長
廃城年 不詳 形態
   
備考  大蔵氏は野与党出身の武士で、「武蔵武士」によると「道智頼意の弟経長が比企郡大蔵に居住して大蔵九郎大夫と称す」とあるが、野与党(平氏)出身の武士が単身で源義賢の領地に所領を得たというのが不自然に思え、むしろ野与党武士が多い元荒川流域に野与党大蔵氏が所領を持っていた方が自然であると言える。

 現地は閑静な集落であり、字大蔵に館跡を思わせるような地形は発見されていない。

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<<主要参考文献>>
菖蒲町の歴史と文化財 通史編 菖蒲町 (2006)
菖蒲町の歴史と文化財 資料編 菖蒲町 (2006)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)