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久喜市(くきし)
 埼玉県北東部に位置し、都心部に向かう鉄道が二路線ある事から、急速に発展した街である。平成二十二年三月二十三日に菖蒲町・鷲宮町・栗橋町が新たに久喜市に編入された。

 中世においては市の東側を利根川が流れ、武蔵国の東端部に位置していた。鎌倉時代の名門清久氏が住み、また古河公方足利政氏の隠棲先に選ばれるなど立地的に当時も好条件だった事が伺われる。
 江戸期に入るとこの周辺は奥州伊達藩の鷹狩場となっていたが、中期頃より米津氏や旗本領となっている。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
足利政氏館 清久氏館 関根氏屋敷 館山
米津氏陣屋 太田氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 足利政氏館 読み あしかがまさうじやかた
所在地 埼玉県久喜市本町7丁目
(旧:久喜市久喜本馬場)
所在地地図
別名   コード 11_08_006_00100
築城年 永正十五年
(1518)
主な城主 足利左馬頭政氏
廃城年 不詳 形態
   
備考  当地は古河公方二代目である足利政氏の隠棲先として知られている。
 政氏は寛正六年(1465)に古河公方足利成氏の長子として生まれ、長享三年(1489)頃には古河公方の家督を継いだ。この頃、文明十八年(1486)に起こった太田道灌殺害に絡み、関東管領山内上杉家と扇谷上杉家の両家は対立していた。最初政氏は扇谷方を支援していたが、明応五年(1496)には山内方と手を結んだ。政氏の弟四郎顕実を山内上杉顕定の養子にする事によって関東は一旦静穏な時を迎えた。
 しかし、永正三年(1506)に政氏は嫡子である高基と対立してしまい、結果的に政氏は古河公方家を出奔する事となり、高基が古河公方家を継ぐ形になった。政氏は各地を転々とし、同十四年(1517)に岩槻にて出家し「道長」と号した。当地はこの頃より政氏が住んだのではないかと言われている。
 同十七年(1520)にようやく子高基と和解し、享禄四年(1531)に六十六歳で死去するまで当地に住み続けたという。

 現在館跡は甘棠院となっており、境内の西側の保存状態はかなり良い。中門辺りで土橋や空堀を見る事ができる。

城名 清久氏館 読み きよくしやかた
所在地 埼玉県久喜市
上清久字白幡
所在地地図
別名 清久城
白幡城
コード 11_08_006_00200
築城年 平安末期 主な城主 清久次郎秀行
廃城年 不詳 形態
   
備考  清久氏は藤原秀郷の裔で、下野国の小山氏と同族である。下総権守重行(行方)が埼玉郡大河土厨を本拠とした事により姓を大河戸と改め、その二子である次郎秀行が当地清久に住し「清久」を姓とした事から始まる。
 治承五年(1181)に大河戸太郎広行・清久次郎秀行・高柳三郎行元・葛浜四郎行平の四兄弟は、三浦介義澄に介されて源頼朝に仕え、頼朝より「勇士の相がある」という評を受ける。
 この秀行の子孫に承久の乱(1221)に宇治橋に出陣し、多くの手柄を立てた清久左衛門尉や、太平記に見られる清久右衛門二郎らがいる。
 『清久村郷土史』によると元弘三年(1333)に執権北条氏が滅亡した時、清久氏も滅んだとされており、清久氏の家臣であった瀬田・藤本・小河原の各氏は皆帰農したという。

 現在の白幡山常徳院から白幡権現社に至る周辺が館跡と言われているが、明確な遺構は見られない。周囲の水田地に比べて若干ではあるが高い地形になっており、当時居館をおくには充分な地形であったと思われる。

城名 関根氏屋敷 読み せきねしやしき
所在地 埼玉県久喜市
北青柳字関根前
所在地地図
別名   コード 11_08_006_00300
築城年 室町期 主な城主 関根重隆
関根重延
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考  関根氏は清和源氏足利氏の出で、鎌倉幕府に仕えた廣澤三郎重義の子孫が野州那須郡関根村(現在の栃木県那須塩原市関根)に所領を得て関根氏を号したとされる。
 その後の動向を明らかにした資料はないが、足利氏の台頭と共に支族である関根氏も武蔵国へ進出して行ったものと思われる。
 当屋敷は古河公方足利政氏に仕えた関根重隆と、その子である重延のものと伝える。

 現在、その屋敷跡とされる場所は市立江面第一小学校敷地となっており、小学校敷地が若干高まりになり、それを囲むように水路が流れる。屋敷跡を示す碑や案内板等は見当たらない。

城名 館山 読み たてやま
所在地 埼玉県久喜市
北中曽根字森下
所在地地図
別名   コード 11_08_006_00400
築城年 平安末期? 主な城主 福田二郎頼遠?
福田賢物頼基
福田五郎左衛門頼則
廃城年 不詳 形態 館?
   
備考  当館山についての詳しい資料は乏しく、詳細があまり明らかになっていない。
 『清久村郷土史』によると清和源氏大和守頼親の子である福田二郎なる人物が、東国に下ってきて菖蒲城を築き、その別館として当中曽根地区に館を築いたとしている。近距離にいる清久氏は平氏に属していた事から、両者の間に争いが行われていたようである。
 南北朝期になるとその子孫と思われる福田賢物なる人物が菖蒲城を受けついだ。この賢物は上州新田義貞十四将のひとりに数えられており、文和二年(北朝年号、1353)に没している。
 戦国末期には五郎左衛門頼則が代になり、小田原北条氏配下の河越城主大道寺駿河守に仕えた。天正十八年に北条氏が滅亡すると伊達陸奥守に属し、当別館を改修し観音院を開山したとある。
 なお、この福田氏の築いた菖蒲城の他に、室町期に佐々木氏が築いた菖蒲城がある。これが同一の城を指すのか?あるいは別に菖蒲城と言われる場所があるのかは今の所分かっていない。また同族であると思われる福田氏が菖蒲町栢間に所領を得ている。(福田氏館

 『久喜市史資料編T』によると堀などが残されているとされているとあるが、現在は民家裏の畑との境界にその名残を見えるのみである。

城名 米津氏陣屋 読み よねきつしじんや
所在地 埼玉県久喜市久喜中央
(旧:久喜市久喜本仲町・荒鎌)
所在地地図
別名 鷹場御殿
御陣山遺跡
コード 11_08_006_00500
築城年 貞享元年
(1684)
主な城主 米津伊勢守政武
廃城年 寛政十一年
(1798)
形態 陣屋
   
備考  江戸初期に久喜周辺は奥州仙台藩の鷹狩場として伊達家が所領しており、当地は元々「鷹場御殿」として利用されていたという。しかし寛文元年(1661)四代藩主として仙台藩を継いだ伊達綱村がまだ二歳という若年であった事を理由に、久喜周辺の鷹狩場を幕府に返上した。
 その後天領であった当地に下記の米津氏が入り、仙台藩が使っていた鷹場御殿の遺構を陣屋として築いた。

 米津氏は元々、現在の愛知県西尾市米津町に居住していた清和源氏流三河武士で、「寛政重修諸家譜」によると右馬助正種の頃尾張から三河に移ったという。その子左馬助勝政は長享元年(1487)に生まれ、松平清康・広忠・家康の三代に仕えた。そして勝政の子である藤蔵常春と小大夫政信兄弟は徳川家康の下で数々の軍功を挙げ、徳川家家臣の地位を高めていった。徳川家康が関東に入国した天正十八年(1590)に、小大夫政信の四男である勘兵衛田政が分家して江戸町奉行となり、武蔵国都筑などの所領五千石を領した。田政の子である出羽守田盛は父の領地を継ぎ、寛永六年(1629)に大阪定番となり摂津・河内両国一万石を知行された。
 勝政の玄孫で分家して三代目である大助政武は寛永十五年(1638)田盛の子に生まれ、寛文三年(1664)に伊勢守となって後に父の領地を継いだ。この政武の代に領地が変わり、貞享二年(1685)初めて埼玉郡久喜の陣屋に入ったという。
 寛政十一年(1798)の播磨守通政の代になって武蔵の所領六千四百石を出羽国村山郡に移され、陣屋も当地より村山郡長瀞城(現在の山形県東根市長瀞)に移された。

 現地は元久喜市役所があった辺りになり、陣屋廃止後にさまざまな公共設備が建てられた事もあり、遺構の破壊は著しい。だが、御陣山と呼ばれる塚が児童公園内に残されており、首塚でもあったことから、今も弔われている。

城名 太田氏館 読み おおたしやかた
所在地 埼玉県久喜市
吉羽字吉羽(推定)
所在地地図
別名   コード 11_08_006_00600
築城年 平安末期 主な城主 太田大夫行尊
太田太郎成澄?
廃城年 不詳 形態
   
備考  当地に住んだ太田氏は藤原秀郷の末裔である太田氏、武蔵七党の一つ私市党太田氏の二説がある。

 藤原秀郷の裔頼行は京にて鎮守府将軍になったりしたが、台頭してきた源氏に役職を奪われてしまった。一族は仕方なく秀郷が開発していた東国に下り、領地運営する事となった。頼行の養子(甥)の行尊(高)は太田荘を開発し、姓を藤原から太田に改めた。
 行尊の孫太田四郎行光は、武蔵で有力な武士団秩父氏との婚姻をする事により、その地盤をより固めるに至った。そしてその子達には大河戸下総権守行方・小山四郎下野大掾政光・下河原庄司行義など、下野・武蔵・下総に跨る地域で活躍した武士たちが誕生したのである。
 行光の孫太田権守行朝は、鎌倉初期の人であり、父祖より太田荘を継いでいた。だが、神人殺傷事件に関与した為に、鎌倉幕府より太田荘地頭職を没収されてしまったという。

 もう一つの太田氏は武蔵七党の一つ私市党の一族と言われている。「私市系図」によると私市武蔵権守家盛から五代下った孫成澄が太田太郎と称しているので、その居館があったと考えられている。この成澄の弟に河原成直がおり、その子(成澄の甥)には源平合戦生田の森(兵庫県神戸市中央区付近)で華々しい戦死を遂げた高直・盛直の河原兄弟がいる。

 この太田氏の居館はいずこであるか定かではない。最も有力ではないかと言われているのが当市吉羽にある高輪寺あたりで、ここから中世期の墓地や堀などが発掘されたという。
 

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<<主要参考文献>>
久喜市史 通史編 上巻 久喜市 (1992)
久喜市史 資料編T 考古
古代・中世
久喜市 (1989)
久喜市史調査報告書第二集
「清久村郷土史」
久喜市史編纂室 (1984)
久喜市埋蔵文化財報告書
第八集 「御陣山遺跡」
久喜市 (1995)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)