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八潮市(やしおし)
 埼玉県南東部の市で、昭和三十年に八条村・八幡村・潮止村の三村が合併して誕生した。都心から近い立地条件もあり昭和四九年には市制を行うまでに発展した。

 中世時は武蔵国太田荘に属し、市内の八条郷は文献に多く出てくる程名が知られている。市内の東側周辺は旧利根川(太日川)沿いの自然堤防上に早くから開発が進んでいたが、西側の綾瀬川周辺は自然堤防が島状になっていたため河川氾濫が多く、本格的に開発されるのは戦国末期〜江戸初期まで待つ事となった。
 鎌倉期に比べて戦国末期になると他国からの武士が土着して開発名主になる傾向が多いのが特徴で、江戸期を通じて八潮市内の開発に大きく貢献していった。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
後谷会田氏屋敷 阿川氏屋敷 石井氏屋敷 興津氏陣屋
小沢氏屋敷 小作田氏館 中島兵庫屋敷 八条氏館
浜野氏屋敷 藤波氏屋敷 和井田氏屋敷
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。

城名 後谷会田氏屋敷 読み うしろやあいだしやしき
所在地 埼玉県八潮市南後谷 所在地地図
別名   コード 11_08_004_00100
築城年    主な城主  
廃城年    形態 屋敷
   
歴史
越谷の会田一族の屋敷
 会田氏は信濃の海野氏の一族で、越谷市に住んだ会田氏と同族である。
(会田氏についてははこちら

遺構  遺構は宅地化が進行しているため、見る事ができなかった。

城名 阿川氏屋敷 読み あがわしやしき
所在地 埼玉県八潮市八条入谷 所在地地図
別名   コード 11_08_004_00200
築城年 戦国末期 主な城主 阿川康久
廃城年 江戸末期? 形態 屋敷
   
歴史
西国の阿川氏の居住地
 阿川氏はで石見・隠岐・長門守護である近江源氏佐々木氏流の出身の一族で、最初伊佐(現山口県美祢市伊佐町)に住んだ事により伊佐氏を称し、その数代後に伊佐十郎が阿川別府(現山口県下関市豊北町)に住み、阿川秀綱と称した。こうした経緯もあり、阿川氏は西国の守護大名大内氏の被官として一族は教弘・政弘・義興・義隆の四代に仕えて活躍していたという。
 天文二十年に陶晴賢が主君大内氏に謀反を企てた時、阿川隆康は山口に逃亡した大内義隆の和解の使者として口上した後、大内氏から出奔した。一族である阿川康長も同じく大内氏を辞し、関東へ流れついた。そして康長の子康久は岩槻城主太田氏房に仕え、この頃に当地に屋敷を構えた物と思われる。
 岩槻城落城後も当地に住み続けたが、明治時代に入る頃には阿川氏も断絶したようである。
遺構  現地は下妻街道が東側を通る立地条件であるが、遺構をみることはできなかった。水路が流れている合間には八條殿社古墳があり、宅地と農地の合間にひっそりとたたずんでいる程度である。

城名 石井氏屋敷 読み いしいしやしき
所在地 埼玉県八潮市中馬場 所在地地図
別名   コード 11_08_004_00300
築城年 戦国末期 主な城主 石井氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
関東八平氏三浦氏の流れを組む石井氏
 石井氏は江戸期に中馬場を支配していた幕府旗本幸田氏配下の名主である。
 同氏は桓武平氏三浦流の出身といい、佐原盛時の一族である石井長勝を祖としている。鎌倉幕府の元で三浦氏は所領を広げたが、宝治元年(1247)の宝治合戦にて三浦宗家が滅亡した時に佐原盛時が三浦宗家を継ぐ形となった。この時石井長勝は鎌倉郡松ヶ谷(神奈川県鎌倉市)で地頭職に就いている。
 元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡すると長勝の子孫も各地に流れ、その内の一族がいつの頃か当市中馬場に住みついたものであるという。
遺構  遺構は市街化が進んだ関係でまったく見ることができない。

城名 興津氏陣屋 読み おきつしじんや
所在地 埼玉県八潮市西袋陣屋 所在地地図
別名 陣屋
興津氏館
コード 11_08_004_00400
築城年 江戸初期 主な城主 興津良次
廃城年 延宝三年?
(1675)
形態 陣屋
   
歴史
駿河今川氏の元家臣興津氏の館
 興津氏は元々駿河の国人で、藤原南家流工藤・船越氏の末裔を称していた。興津加賀守は今川氏に仕えていたが、今川氏が滅亡すると小田原北条氏に仕え、川村重秀配下の江戸衆に組み込まれた。後の天正十八年の小田原の役が起きた時、伊賀守は江戸城を守っていたという。
 伊賀守の子に遠山氏の母を持つ良信は人質として小田原に居たが、後に相模国中原郡に五百貫の知行を安堵された。
 良信の次男である良次は徳川家康の奉行伊奈忠次に仕え、この頃当地西袋に陣屋を設けたという。ところがその良次の後を継いだ弟の庄蔵が早世した上、弟の七左衛門が刃傷事件を起こしたので、興津氏は断絶してしまった。
 しかし、良次の娘が曽根吉次に嫁していて、良次の三男吉重が曽根吉次の妹を室としていた関係から、寛永十九年(1643)に吉重は御家人に取り立てられ曽根と改姓した。西袋には吉重の子友広まで住んでいたが、延宝三年(1675)にこの地を家臣の小沢氏に下げ渡し、江戸に移住していったという。
遺構  現地は工場や住宅が立ち並ぶ所ながらも堀や土塁が比較的よく残り、地権者の好意により公園となって市民の憩いの場として利用されている。

城名 小沢氏屋敷 読み おざわしやしき  
所在地 埼玉県八潮市西袋幕口 所在地地図
別名   コード 11_08_004_00500
築城年 江戸初期 主な城主 小沢作右衛門重録
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
旧豊臣氏家臣の屋敷
 小沢氏は西袋村の開発名主である。
 初代作右衛門重録(しげとし)の初名を内藤和泉守重録といった。元々豊臣秀吉配下で、十九歳の時に関ヶ原の合戦に西軍として参戦するも敗れ、各地を流浪する内に慶長八年(1603)頃西袋に訪れた。そこで母方の姓である「小沢」を名乗り、開発名主として定住する事になったという。
遺構  周辺は宅地化が進行しており、それらしい場所を見つける事ができなかった。

城名 小作田氏館 読み こさくだしやかた  
所在地 埼玉県八潮市小作田  
別名   コード 11_08_004_00600
築城年 室町期? 主な城主 小作田氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
野与党小作田氏の館跡
 『埼玉郡小松村栄広山由緒著聞書』によれば小作田氏は野与党八条氏から出たといい、当埼玉郡小作田村をその居住地としたことにより小作田氏と称している。
 文亀四年(1504)八条氏によって新方氏の籠もる向畑陣屋が陥落させられ、それを取り返すべく戦死した新方頼希の兄である栄広山清浄院の高賢上人が永正十七年(1520)に逆襲してきた。これを聞いた八条兵衛尉は怒り、大軍を(越谷市)別府に進軍させた。その時の先陣に小作田隼人なる武士の名が見られるので、当小作田氏の一族であると思われる。
遺構  

城名 中島兵庫屋敷 読み なかじまひょうごやしき
所在地 埼玉県八潮市八条字中島 所在地地図
別名   コード 11_08_004_00700
築城年 不詳 主な城主 中島兵庫
廃城年   形態 屋敷
   
歴史
岩槻太田氏家臣中島氏
 中島氏は元々関根姓で、戦国期には岩槻太田氏の家臣であったと伝え、八条の渡し場と八条宿を管理していた。後に八条村中島に住むようになり姓を中島に改めた。
 しかし、江戸末期頃には没落したようで、屋敷は太田家の本家筋の分家に譲渡されたという。
遺構  遺構は持昌院付近にあったとされるが、度重なる河川氾濫によりその姿を見ることができなかった。

城名 八条氏館 読み はちじょうしやかた
所在地 埼玉県八潮市八条入行
所在地地図
別名 五郎屋敷
八条五郎光行館
コード 11_08_004_00800
築城年 鎌倉期 主な城主 八条五郎光平
廃城年 不詳 形態
   
歴史
野与党八条氏の時代
 鎌倉時代の八条氏は野与党出身の御家人で、大河戸御厨内八条郷の地頭職である。野与党渋江氏の一族である箕勾経光五男、渋江光衡が八条郷に住むようになってから八条五郎光平と名乗った。記録には残されていないが、室町期には上杉氏が八条姓を名乗っているのでそれまでに家が絶えたか移住したかしたものと思える。
八条上杉氏の時代
 室町期の八条氏は扇谷上杉氏からの出で、上杉朝定の子朝顕が父の領土であった八条郷に住み八条氏を名乗った。
遺構  現地は中川が築き上げた自然堤防上にあり、それに沿って鎌倉街道より歴史の古い奥古道が近くを走っていた。遺構は宅地化が進んだことにより見つける事が難しくなっており、河川改修により更に風景が変化されるものと思われる。

城名 浜野氏屋敷 読み はまのしやしき
所在地 埼玉県八潮市上馬場屋敷 所在地地図
別名   コード 11_08_004_00900
築城年 戦国末期 主な城主 浜野弥市忠秀
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
岩槻太田氏家臣浜野氏
 浜野氏は元々岩槻太田氏の家臣であった。この地の基礎を築いた弥市忠秀は天文十七年(1549)父弥平清忠と同族浜野忠親の娘佐登の間に生まれた。幼い頃より学問に優れていたために大学と称していた。
 当地には元亀元年(1570)頃に岩槻城主太田資正が城から追放された事件がきっかけで一族で移り住み、忠秀は観音寺という寺を開基して寛永十二年(1635)に世を去ったという。
遺構  現地は都市化によって昔の面影も失ってしまったようである。

城名 藤波氏屋敷 読み ふじなみしやしき
所在地 埼玉県八潮市南後谷屋敷 所在地地図
別名 小櫃氏屋敷 コード 11_08_004_01000
築城年 江戸初期 主な城主 小櫃杢左衛門
藤波増次郎義明
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
横山党海老名氏の流れをくむ小櫃氏
 小櫃(おびつ)氏は鎌倉時代の御家人の系図で、相模国高座郡海老名を本貫とする海老名氏の末流。佐渡本間氏の一族で、戦国期には安房里見氏に仕えていたようで、家臣団の中に本間姓が見られる。元和二年(1616)に上総国小櫃(現在の千葉県君津市)より当後谷村に移住する時に姓を小櫃と変え、名主として土着する事となった。
小櫃氏より婿養子藤波氏へ
 江戸中期に小櫃杢左衛門子の佐太郎が病弱であった事を理由に、青柳村の名主藤波伝左衛門考澄の次男増次郎義明を婿として迎え、佐太郎の後見人となった。その佐太郎が病死すると増次郎は南埼玉郡大相模村(越谷市)の名主秋山利左衛門高房の子重信を娘婿に迎え入れ、藤波祐資と名乗り、藤波姓で小櫃家に入り名主となった。
遺構  現在遺構は見る事ができないが、跡地に八潮市立資料館が建っており、屋敷のあった場所を見学できるようになっている。

城名 和井田氏屋敷 読み わいだしやしき
所在地 埼玉県八潮市八条和之村 所在地地図
別名   コード 11_08_004_01100
築城年 不詳 主な城主 和井田氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
出自不明の名主和井田氏
 和井田氏は江戸期の八条村における世襲名主で、江戸期を通じて地域の開発に貢献してきた一族である。しかしながら同氏の出自は史料が無いため不明である。
遺構  和井田氏の出自は不明であるが、八潮市の中において良く遺構をのこしている。その屋敷周辺には水堀がよく残り、狭い県道沿いにその遺構を見る事ができる。


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<<主要参考文献>>
八潮市史 通史編 T 八潮市 (1989)
八潮市史 民俗編 八潮市 (1985)
川に抱(いだ)かれて
   八潮の歴史アルバム
八潮市
八潮の地域史辞典 八潮市
跡標 (みちしるべ) 八潮市郷土研究会 (1975)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)