城名 |
阿川氏屋敷 |
読み |
あがわしやしき |
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所在地 |
埼玉県八潮市八条入谷 |
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別名 |
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コード |
11_08_004_00200 |
築城年 |
戦国末期 |
主な城主 |
阿川康久 |
廃城年 |
江戸末期? |
形態 |
屋敷 |
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歴史 |
西国の阿川氏の居住地 |
阿川氏はで石見・隠岐・長門守護である近江源氏佐々木氏流の出身の一族で、最初伊佐(現山口県美祢市伊佐町)に住んだ事により伊佐氏を称し、その数代後に伊佐十郎が阿川別府(現山口県下関市豊北町)に住み、阿川秀綱と称した。こうした経緯もあり、阿川氏は西国の守護大名大内氏の被官として一族は教弘・政弘・義興・義隆の四代に仕えて活躍していたという。
天文二十年に陶晴賢が主君大内氏に謀反を企てた時、阿川隆康は山口に逃亡した大内義隆の和解の使者として口上した後、大内氏から出奔した。一族である阿川康長も同じく大内氏を辞し、関東へ流れついた。そして康長の子康久は岩槻城主太田氏房に仕え、この頃に当地に屋敷を構えた物と思われる。
岩槻城落城後も当地に住み続けたが、明治時代に入る頃には阿川氏も断絶したようである。
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遺構 |
現地は下妻街道が東側を通る立地条件であるが、遺構をみることはできなかった。水路が流れている合間には八條殿社古墳があり、宅地と農地の合間にひっそりとたたずんでいる程度である。 |
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