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越谷市(こしがやし)
 埼玉県南東部の都市で、埼玉県内において都心部に近い都市のひとつである関係から開発が急激に行われた。
 古代では市内を流れる現在の古荒川の川筋を国境としており、西は武蔵国「古志賀谷」と呼ばれ、東は下総国「新方郷」とされていた。しかし中世には河川の流れが変わり、十五世紀頃には岩槻を治めていた太田道灌により新方郷は新たに武蔵国に編入されたという。古代からの国境をそのまま継承する事が多かったこの時代では、他に例を見ない編入である。
 江戸期に入ると、かっては岩槻太田氏に仕えた遺臣の子孫たちが新田開発をしていく事となった。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
会田七左衛門屋敷 会田出羽屋敷 宇田氏屋敷 大相模氏館
新方氏館 野島氏館 別府氏館 古志賀谷氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 会田七左衛門屋敷 読み あいだしちざえもんやしき
  
所在地 埼玉県越谷市神明町 所在地地図
別名   コード 11_08_003_00100
築城年 戦国末期 主な城主 会田七左衛門政重
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考  会田出羽守の一族である七左衛門政重が住んだと伝わる。政重は元和年中(1615〜23)に関東郡代である伊奈氏に仕えたという。

城名 会田出羽屋敷 読み あいだでわやしき  
所在地 埼玉県越谷市御殿町 所在地地図
別名 越谷御殿 コード 11_08_003_00200
築城年 戦国末期 主な城主 会田出羽守資清
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考  会田氏は信州海野氏の出で、左衛門尉幸持が会田郷(長野県松本市会田新町)に住した事により会田を姓とした。
 元々信濃国守護小笠原長時に仕えていたが、甲斐より攻め入った武田信玄により追われ、長時は摂津国の同族三好長慶に頼った。その時に幸持は供奉し、摂津国芥川城(大阪府高槻市)に入城した。だが、今度は三好氏が織田信長によって攻められると、小笠原長時は越後の上杉氏(長尾氏)を頼る事となったが、この時には小笠原氏の家臣団は、既に四散してしまっていた。
 幸持はそのまま関東に流れ、小田原後北条氏に仕える事となった。子と思われる会田中務丞信清は北条氏より葛西小岩(東京都江戸川区)、水元飯塚、奥戸(共に同葛飾区)を賜ったという記録が残るという。

 幸持の一族である会田出羽守幸久も当地越ヶ谷に落ち延び、岩附城主太田三楽斎資正に仕えた。更に資正より「資」の名を受けて資清と名乗っている。
 資清の子資久も太田氏に仕えたが、天正十八年に岩附城が落城し、資久はそのまま越谷の地に隠れ住んだ。後に関東に入国してきた徳川家康が鷹狩をしているとき、資久は家康に拝謁する機会を得て、その家臣となった。更に資久の子資勝は幕臣となり、子孫は代々栄え、その屋敷には家康が付近の鷹狩の際に立ち寄るようになったのだという。また家康以降の幕府将軍が日光社参りなどで立ち寄ったりする事からいつしか「越谷御殿」と呼ばれるようになった。

城名 宇田氏屋敷 読み うだしやしき
所在地 埼玉県越谷市大成町 所在地地図
別名   コード 11_08_003_00300
築城年 戦国末期 主な城主 宇田長左衛門里居
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考  江戸期における忍藩の名主である宇田氏の屋敷とされる。移住してきた年代などは不明であるが、文禄年中(1592〜1595)以前に足立郡より大相模の地に入ったとされる。

城名 大相模氏館 読み おおさがみしやかた
所在地 埼玉県越谷市大成町 所在地地図
別名 大相模次郎館 コード 11_08_003_00400
築城年 平安末期 主な城主 大相模次郎能高
廃城年 不詳 形態
   
備考  大相模氏は村岡五郎太夫良文の孫胤宗を祖とする野与党の出身で、箕勾次郎経能の子能高が大相模の地に住んだ事から大相模を姓とした事より始まる。
 時代は大きく下って享保十四年(1729)頃に大相模氏は「中村」と改姓し、その子孫は現在も住み続けているという。

城名 新方氏館 読み にいかたしやかた
所在地 埼玉県越谷市向畑 所在地地図
別名 向畑陣屋 コード 11_08_003_00500
築城年 不詳 主な城主 新方次郎太夫頼希
廃城年 不詳 形態 砦?
   
備考  新方氏は『大松村栄広山由緒著聞書』という文書によれば野与党出身の武士で、千葉氏の一族である新方大領頼員は源義家の家臣として奥州にて戦功があったという。当地は新方次郎太夫頼希の城であるという話の方が有名で、別名向畑陣屋と呼ばれる事もある。
 文亀四年(1504)一月八日に八条郷(八潮市)の地頭八条惟茂が新方郷に侵入し、城主であった新方頼希は戦死され、ついに城は落城した。また、頼希の兄である栄広山清浄院の高賢上人も寺を焼き討ちにされ、岩槻へ落ち延びた。
 岩槻の渋江寺に逃れた高賢であったが、頼希の遺臣たちの願いにより軍備を整え、永正十七年(1520)十月に岩槻勢の助力もあり、八条氏の一族である守将別府三郎左衛門を討ち、城と新方郷を奪還した。
 翌永正十八年(1521)に八条氏は青柳・小作田・柿ノ木・大相模の各将を伴い逆襲をした。それに対し高賢は岩槻の渋江氏の協力を得て八条方を撃退し、以後新方郷が八条方に渡る事はなかったという。

 昭和の初期まで大落古利根川(旧利根川)の水を引き、複雑な形状をした遺構が残っていたというが、今は微高地と一部残された水路が当時の事を伝えている。

城名 野島氏館 読み のじましやかた  
所在地 埼玉県越谷市野島 所在地地図
別名   コード 11_08_003_00600
築城年 不詳 主な城主 野島兵衛尉光員
廃城年 不詳 形態
   
備考  資料によっては「野崎」姓で語られるので混乱が見られる。野与党の渋江光茂の子光員が野島兵衛尉と称した事により起こったとされるが、七党系図にはこれが野崎姓で表されている。
 野崎姓で考えるなら地名を取って北多摩郡野崎村(現東京都三鷹市)とも考えられるが、渋江氏(さいたま市岩槻区)より出た一族という事を踏まえると近隣である当地に進出する方が自然と見る。

城名 別府氏館 読み べっぷしやかた
所在地 埼玉県越谷市東町 所在地地図
別名   コード 11_08_003_00700
築城年 不詳 主な城主 別府氏
廃城年 不詳 形態 館?
   
備考  『大松村栄広山由緒著聞書』という文書には当地の別府氏は野与党出身であるという。同書に嘉吉元年(1441)に将軍足利義教の命により結城合戦で、結城氏の残党の一つである大川戸氏を、渋江・金重・白岡・野島・八条・大相模・大曽根・一色の各氏らと共に襲った事が書かれている。
 また、文亀四年(1504)に八条兵衛尉が向畑陣屋の新方氏を討った時に、別府三郎左衛門を向畑陣屋に配置されたが、永正十七年(1520)城を奪い返しに来た新方氏一族の高賢上人と岩附渋江氏によって討たれている。
 文献に見られる別府氏の活躍はこのぐらいで、その他の動向は不明である。

城名 古志賀谷氏館 読み こしがやしやかた  
所在地 埼玉県越谷市御殿町? 所在地地図
別名   コード 11_08_003_00800
築城年 不詳 主な城主 古志賀谷氏
廃城年 不詳 形態 館?
   
備考  古志賀谷氏は野与党の出身で、「千葉氏大系図」によると箕勾能元の孫為長が古志賀谷に住んだ事からその地名を姓とし、古志賀谷二郎を称したという。
 館跡は現在不明とされているが、御殿町付近はかっての利根川の流路で、かつ建長元年(1249)という市内最古の板碑が発見されている事から、古志賀谷氏の館跡の最候補地とされている。
 

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<<主要参考文献>>
わが町の歴史 越谷 竹内 誠
本間 清利 共著
(1984)
越谷における中世の城館跡 高橋 力 著 (1988)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)