城名 |
会田出羽屋敷 |
読み |
あいだでわやしき |
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所在地 |
埼玉県越谷市御殿町 |
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別名 |
越谷御殿 |
コード |
11_08_003_00200 |
築城年 |
戦国末期 |
主な城主 |
会田出羽守資清 |
廃城年 |
不詳 |
形態 |
屋敷 |
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備考 |
会田氏は信州海野氏の出で、左衛門尉幸持が会田郷(長野県松本市会田新町)に住した事により会田を姓とした。
元々信濃国守護小笠原長時に仕えていたが、甲斐より攻め入った武田信玄により追われ、長時は摂津国の同族三好長慶に頼った。その時に幸持は供奉し、摂津国芥川城(大阪府高槻市)に入城した。だが、今度は三好氏が織田信長によって攻められると、小笠原長時は越後の上杉氏(長尾氏)を頼る事となったが、この時には小笠原氏の家臣団は、既に四散してしまっていた。
幸持はそのまま関東に流れ、小田原後北条氏に仕える事となった。子と思われる会田中務丞信清は北条氏より葛西小岩(東京都江戸川区)、水元飯塚、奥戸(共に同葛飾区)を賜ったという記録が残るという。
幸持の一族である会田出羽守幸久も当地越ヶ谷に落ち延び、岩附城主太田三楽斎資正に仕えた。更に資正より「資」の名を受けて資清と名乗っている。
資清の子資久も太田氏に仕えたが、天正十八年に岩附城が落城し、資久はそのまま越谷の地に隠れ住んだ。後に関東に入国してきた徳川家康が鷹狩をしているとき、資久は家康に拝謁する機会を得て、その家臣となった。更に資久の子資勝は幕臣となり、子孫は代々栄え、その屋敷には家康が付近の鷹狩の際に立ち寄るようになったのだという。また家康以降の幕府将軍が日光社参りなどで立ち寄ったりする事からいつしか「越谷御殿」と呼ばれるようになった。 |
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