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春日部市(かすかべし)
 埼玉県東部の市で、東京のベッドタウンとして大いに栄えている。近年では隣接する庄和町を合併し、千葉県とも隣接するようになった。
 中世においては紀氏春日部氏の居住地であったとされ、戦国期になると岩槻太田氏に仕えた家臣たちが住んでいた。
 
当ページ収録城館跡一覧 早見表
井上氏屋敷 春日部氏館 関根氏屋敷 多田氏屋敷
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 井上氏屋敷 読み いのうえしやしき 圓福寺前の現在の様子
所在地 埼玉県春日部市一ノ割 所在地地図
別名   コード 11_08_010_00100
築城年 戦国期? 主な城主 井上将監信貞
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
太田氏家臣井上氏の屋敷
 『新編武蔵風土記稿』によれば岩槻城主太田十郎氏房の家臣である井上将監信貞が、当地に屋敷を構えていたという。この井上氏についての出自は資料がないので現在の所不明である。その後も井上氏は当地に住み続けたようで、同書には子孫が今も住んでいると書かれている。
 この井上将監の子には上州太田金山城(群馬県太田市)麓にある浄土宗大光院を開山した呑龍上人がいる。
子育て呑龍
 呑龍上人は弘治二年(1556)に井上将監の次男として当地に生まれた。幼い頃から賢く十四歳で林西寺(越谷市平方)で出家して曇龍と名乗った。ある時悪龍を呑み込む夢をみた事から名を「呑龍」に改めた。
 学問に励み十五歳で江戸の増上寺で修行し、その後林西寺や(東京都八王子市)大善寺の住職を務めるようになり、智徳に優れた僧侶に呼ばれる「上人」が付くようになった。後の慶長十八年(1613)徳川家康は始祖新田義重を追善供養する為新田荘に大光院を建立した時、呑龍上人が選ばれたという。
 大変慈悲深い人物と伝わっており、特に恵まれぬ子に対して弟子にするという名目で寺に受け入れて七歳になるまで育てるなどした。また、元和二年(1616)に国禁を犯して鶴を殺して親を助けようとした子供を匿い罪を犯すなど、我が身を省みぬ献身ぶりから後に「子育て呑龍」と呼ばれ多くの人から慕われたという。
遺構  大河山華蔵院圓福寺がその屋敷跡と思われるが、現在ではその名残を残しておらず圓福寺のみがそのかっての場所を示している程度である。

城名 春日部氏館 読み かすかべしやかた 現在では道路敷地になった春日部氏の居館をのぞむ。
所在地 埼玉県春日部市浜川戸 所在地地図
別名 浜川戸遺跡 コード 11_08_010_00200
築城年 平安末期 主な城主 春日部実高
廃城年 不詳 形態
   
歴史
紀氏春日部氏の居館
 春日部氏は大井郷に土着した京都の貴族紀氏の一族で、守澄の孫(子とする資料もある)実直が大井郷を拠点とした事により大井氏を名乗った。この実直には伊坂実重・大井実春・品河清春・春日部実高・潮田実元・堤実能らの子がおり、当春日部に所領を持ったのは実高であったようである。
 史書においては元暦二年(1185)の壇ノ浦の合戦にて春日部兵衛尉の名が見られるのが初見であるという。
遺構  浜川戸遺跡が春日部氏の居館と言われているが現在遺構は残されていない。当地は古隅田川沿いの河畔砂丘が形成されて、それを背後にして掘立柱建物跡が発掘調査で発見されている。またその廻りには平安時代の集落跡を破壊して掘られた内堀と外堀が発見され、遺物として青磁、白磁などの陶磁器が見つかっている。

城名 関根氏屋敷 読み せきねしやしき かって関根真蔵宗氏の墓であった真蔵院本堂
所在地 埼玉県春日部市粕壁東二丁目 所在地地図
別名 九兵衛屋敷 コード 11_08_010_00300
築城年 室町期? 主な城主 関根真蔵宗氏
関根図書
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
北条氏家臣関根氏の屋敷
 『新編武蔵風土記稿』によるとその祖先は某郡内関根村(下野国那須郡関根村か?)を領して地名を採って関根を姓としていたという。真蔵宗氏の代に戦乱を避け、当地にやってきて隠棲していたという。この真蔵の死後、真蔵の子(実名不詳)は父の墓所に庵室を結び、それを父の名から「真蔵庵」と名づけた。その後真蔵庵は寺になって現代も残る真蔵院になったのだという。
 この真蔵より数代後の天正年中、子孫の関根図書は小田原北条氏に仕える身となり戦功を重ねた。同家に残る文書には北条氏繁より賜った感状が残り、さらに北条氏の鱗の紋の使用を許されたという。
遺構  真蔵院周辺に屋敷があったと思われるが、宅地化が進み遺構を見る事ができなかった。

城名 多田氏屋敷 読み ただしやしき 大落古利根川越しに多田氏の屋敷跡地を望む
所在地 埼玉県春日部市粕壁東二丁目 所在地地図
別名 次郎兵衛屋敷 コード 11_08_010_00400
築城年 戦国末期 主な城主 多田新十郎
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
太田氏から北条氏に仕えた多田氏
 『新編武蔵風土記稿』によれば当地に住んでいた多田なる武士は、その祖を多田満仲としているというが、系図が失われているため詳しくは分からないという。
 関根家の家記には天文年中(1532〜1554)多田新十郎は甲斐武田氏に仕えていたが、当主武田信虎に諫言して意を違えて武田氏の下を去り、岩槻城主太田美濃守資正の家臣になったという。下記の合戦の事から踏まえると後の永禄七年(1564)太田資正が岩槻城から追われた時、多田新十郎は資正の嫡子氏資の元におり、そのまま小田原北条氏の家中に加えられたと思われる。
 永禄十二年(1569)に駿河国薩垂峠の合戦にて、多田新十郎は北条氏房からの援軍の一人として従軍した。この時の合戦にて夜襲を仕掛けてきた武田氏に対して多田新十郎が敵を一人討ち取った事が北条氏政から賜った感状に書かれている。ちなみにこの時の感状が春日部市の市指定有形文化財として今も残されている。
関根姓を賜る
 時代が前後するが多田新十郎は太田資正の家臣として、数々の戦功を重ねた。これに対して越後の上杉謙信は太田資正宛に感状を発行している。その文中に「関東根元の武士」という文面があり、資正はこの「関東根本」の四文字より選んだ「関根」の姓を戦功のあった者たちに与えた。多田新十郎もこれに選ばれた事により、姓を多田より関根に改めた。
 天正十八年(1590)に岩槻城が豊臣秀吉により落城すると、関根氏は引き篭もり村民になった。『新編武蔵風土記稿』に書かれている旧家の次郎兵衛はその子孫であり、『埼玉県の中世城館跡』などはこの屋敷名に次郎兵衛の名を使用している。
 後の明治維新頃には関根姓より多田姓に戻したという。
遺構  屋敷は国道4号線埼葛橋近くにあったとされるが、商業施設などになってしまってその痕跡を残していない。

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<<参考文献>>
春日部市史 第六巻 通史編T 春日部市 (1994)
中世の武士 春日部氏
 〜春日部氏と浜川戸遺跡〜 図録
春日部市郷土資料館 (2007)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)