×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

騎西町(きさいまち)
 埼玉県の北東部に位置していた町。水田地帯であり、町全体が低地になっている。平成22年3月23日を持って加須市と合併した。

 中世期には武蔵七党の一つ私市党の本拠地であったが、実際には野与党出身の武士が多く住んでいた。室町後期になるとこの地より有力武士は出現せず、周辺の勢力に翻弄される時代であった。
 近世になると騎西城は初期の内に廃され、幕府の天領地としてきたようである。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
騎西城 多賀谷館 種垂城 戸崎城
道智氏館 高柳(利生)氏館 戸室氏館
※注意 旧加須市域の城館はこちらをご覧下さい。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。

城名 騎西城 読み きさいじょう
所在地 埼玉県加須市根古屋
字道上
所在地地図
別名 寺西城・山根城
根古屋城
コード 11_07_004_00100
築城年 室町期? 主な城主 長尾左衛門尉景仲
小田大炊頭顕家
松平周防守康重
大久保加賀守忠常
廃城年 寛永九年
(1632)
形態 ふけ城
   
備考  騎西城の始まりは不明であるが、武蔵七党の一つ私市党がこの辺りに居た事を考えれば鎌倉期には既にここを使われていた可能性もある。
 初見は康正元年(1455)の合戦で山内上杉方である長尾左衛門尉景仲の守る騎西城が、足利成氏によって落とされたという記録からである。
 文亀年間(1501〜04)に種垂城から当城に移った小田顕家は、後に忍城主成田下総守親泰の次子三郎助朝真を養子に迎えて騎西城主にした。永禄六年(1563)に越後から遠征してきた上杉輝虎(謙信)に、北条方に付いていた騎西城は落城させられてしまった。
 天正十八年(1590)からは徳川家康が関東に入国し、騎西城は松平康重が二万石で城主となり、その後慶長六年に大久保忠常が二万石で入城後、子の忠職が寛永九年に美濃国加納に転封されたのを最後に幕府の天領となり、騎西城は廃城となったという。

 堅固なふけ城(沼や湿地に囲まれた城)であった騎西城も江戸期に開墾が進み、現在では県道沿いに土塁などを遺すばかりである。その後も道路拡張などで発掘調査が行われ、城の周辺には障子堀などが発見されて、当時の名城ぶりを伝えている。

城名 多賀谷館 読み たがややかた
所在地 埼玉県加須市内田ヶ谷
字中郷
所在地地図
別名    コード 11_07_004_00200
築城年 平安末期 主な城主 多賀谷小三郎重基
廃城年 戦国期 形態
   
備考  多賀谷氏は武蔵七党野与党から出た一族で、道智平太頼基の子光基が多賀谷次郎を称したことより始まったとされる。
 建久元年(1190)に源頼朝の隋兵に光基の子である多賀谷小三郎重基が居たと『吾妻鑑』は記している。また同地住人である多賀谷左衛門尉家政は村山党金子十郎家忠の次男であるといい、多賀谷一族は『吾妻鑑』を始めとした多くの軍記書物にその名を載せている。
 後年、永享十二年(1440)の結城合戦において多賀谷氏(彦四郎氏家の代で左衛門尉家政の子孫)は結城氏方で協力した。享徳三年(1454)には古河公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を討ち、その功績により常陸国下妻へ所領を賜った。居城として多賀谷城(茨城県下妻市本城町)を築き、結城氏の有力家臣として活躍した。
 おそらくその頃当地を離れ、館跡は大福寺となったのではないかと思われる。

城名 種垂城 読み たなだれじょう
所在地 埼玉県加須市上種足
字三番
所在地地図
別名    コード 11_07_004_00300
築城年 室町期 主な城主 小田大炊頭顕家
廃城年 戦国末期? 形態 平城
   
備考  種垂城は菖蒲城主佐々木氏築城とされ、康正元年(1455)頃に出城として築かれたとも言われている。
 後年、小田大炊頭顕家が騎西城に移るまでの間、城主として居たといい、その後顕家は忍城主成田下総守親泰の子助三郎宗長を養子に迎え入れ、自らは種垂城に隠居をし天文八年(1539)に没している。

 現在一部が公園化されている。城に関わる地名は公園の東部に各所残っており、耕地になりながらも一部にその堀と思われる水路をめぐらせている。

城名 戸崎城 読み とざきじょう
所在地 埼玉県加須市戸崎
字元屋敷
所在地地図
別名 戸崎氏館 コード 11_07_004_00400
築城年 平安末期 主な城主 戸崎右馬允国延
廃城年 戦国期? 形態
    
備考  戸崎右馬允国延の名は『吾妻鑑』に元暦元年(1184)〜建久六年(1195)までの各所に見られたが、それ以外の事については特に分かっていない。一説には戦国期に騎西城の出城として利用されていたという説もあり、地名に「城下」と残している。

 農地化されており、明確な遺構は特に残されていない。ただ農地の所々に土塁を思わせるような塚があり、城の名残を残しているようにも思える程度である。

城名 道智氏館 読み どうちしやかた
所在地 埼玉県加須市道地
字上内手
所在地地図
別名   コード 11_07_004_00500
築城年 平安末期 主な城主 道智次郎頼基
廃城年 不詳 形態
   
備考  道智氏は武蔵七党野与党出身で、『武蔵武士』には野与六郎基永の子頼意が道智法花坊と号し当地に住んだ事に始まるという。また『吾妻鑑』に見る源頼朝に仕えた道智次郎は、頼意の子頼基である。
 道智次郎の子には多賀谷氏の祖光基や、承久の乱宇治川合戦にて戦死した孫の道後太郎助員がいる。

 田ヶ谷小学校の北にある成就院周辺が道智氏の館跡と伝える。明確な遺構は残されていないが、地形の高まりなどがかって中世に武士の屋敷があった事を伝えているようである。

城名 高柳氏館 読み たかやなぎしやかた
所在地 埼玉県加須市上高柳 所在地地図
別名 利生氏館 コード 11_07_004_00600
築城年 平安末期 主な城主 高柳四郎太郎行忠
高柳(利生)五郎弘経
廃城年 不詳 形態
   
備考  当地の高柳氏は野与党出身で、『武蔵武士』によれば野与基永の弟行忠が埼玉郡高柳に住した事より高柳四郎太郎と称した。また、同野与党である渋江経遠の弟弘経が当地に住んだ事により高柳五郎と称したとも言われる。また弘経は利生五郎とも称している。
 『新編武蔵風土記稿』の上高柳村の項に文永年間(1264〜)に高柳弥五郎幹盛という者が住んでいたと記される。

城名 戸室氏館 読み とむろしやかた
所在地 埼玉県加須市戸室 所在地地図
別名   コード 11_07_004_00700
築城年 鎌倉期 主な城主 戸室親久
廃城年 不詳 形態
   
備考  戸室氏は『姓氏家系大辞典』によると藤原秀郷の子孫である佐野氏の出身で、佐野左衛門尉実綱の五男戸室親綱より始まるという。この親綱より四代孫に親久が当地種垂村戸室に住み、一時騎西城主となっていたという。
 また羽生市上川俣の亀開城主である川俣氏はこの戸室氏の一族であるという。

埼玉県市町村別へ 都道府県別へ トップページへ


<<主要参考文献>>
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系4・5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
加須市史 通史編 加須市 (1981)