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行田市(ぎょうだし)
 埼玉県北部に位置する都市で、「埼玉」の県名の元となった埼玉(さきたま)古墳がある。古代より「埼玉の津」があった地とされ、周囲が利根川や荒川などの河川に恵まれている事から、水運などで大いににぎわっていた。
 中世においてもその肥沃な地は多くの武蔵武士達の所領となり、戦国期には成田氏が忍城を本拠に勢力を周辺に拡大していた。
 近世には忍城の堅固さが認められ江戸の北の守りとして忍藩が設けられ、城下町として栄え続けた。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:石田氏陣屋
 2:忍氏館
 3:忍城
 4:麻積氏館
 5:鎌田氏館
 6:行田氏館
 7:西条氏館
 8:皿尾城
 9:志水氏館
10:須賀城
11:長野氏館
12:真名板氏館
13:満願寺館
14:若小玉氏館
15:渡柳氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 石田氏陣屋 読み いしだしじんや
所在地 埼玉県行田市渡柳
字陣場
所在地地図
別名   コード 11_07_001_00100
築城年 戦国末期 主な城主 石田治部少輔三成
廃城年 戦国末期 形態 陣屋
   
歴史
 『新編武蔵風土記稿』には陣場と伝わる。天正十八年(1590)の豊臣方石田氏が忍城攻めの時に使用したとされる陣屋だという。
遺構  今、陣屋と思われる推定地付近は宅地化されており、陣屋跡と思える遺構は発見できなかった。

城名 忍氏館 読み おししやかた
所在地 埼玉県行田市忍
字駒形
所在地地図
別名   コード 11_07_001_00200
築城年 鎌倉期 主な城主 忍三郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 吾妻鏡に記載されている忍三郎・同五郎・同小太郎らがこの地に住したとされる。なお、忍氏の出自については不明な点が多いが、一族の中には菅原姓を名乗って居た者も居たといい。菅原道真を祖としてという。
 後に羽生城城主になった広田直繁は忍氏の子孫であるという。
遺構  江戸期には明確な遺構はすでに残されていなかったようである。遍照院付近が館跡であったといい、その名残か墓地の脇を水路が流れているぐらいである。

城名 忍城 読み おしじょう
所在地 埼玉県行田市本丸 所在地地図
別名 亀城 コード 11_07_001_00300
築城年 室町期 主な城主 成田氏
松平氏
阿部氏
廃城年 幕末 形態 ふけ城
   
歴史
 最初、忍氏の居城であったと言われ、後年児玉武蔵大掾重行の居城となる。延徳二年(1490)、成田下総守親泰は児玉重行を謀殺し、忍城とその所領を奪った。以後忍城は成田氏の居城となる。
 天正十八年(1590)、小田原北条方に付いている成田氏は豊臣の石田三成に忍城を攻められるが、天然の沼地を利用した堅固な城で、小田原城開城後ようやく降伏するに至った。こういったいきさつもあり、忍城は関東七名城の一つに数えられ、その堅固さは近隣に知れ渡る事となった。
 徳川氏が関東入国時にあたり北の守りの要として重要視され、江戸期を通じて松平氏・酒井氏・阿部氏らの親藩や譜代大名が居城するに至った。
遺構  埼玉県内にある江戸期の城は、反明治政府方が籠もるのを恐れられたため、河越・岩附各城は徹底破壊がなされた。忍城も同様であったが、市街地にその名残を残す土塁がある。
 本丸は一時市民球場となったが、現在郷土博物館が建ち模擬天主が建つ。また城を囲っていた沼は、一部水城公園となって市民の憩いの場となっている。

城名 麻積氏館 読み おみしやかた
所在地 埼玉県行田市小見
字屋敷通
所在地地図
別名 小見城 コード 11_07_001_00400
築城年 鎌倉末期 主な城主 麻積氏
廃城年 戦国末期 形態
   
歴史
 麻積氏は信濃国より来たとされ、戦国末期まで忍成田氏の配下としてこの地を治めたという。近世になると麻積氏に代わり田口氏が道路向かいに屋敷を構えこの地を統治したのだという。
遺構  明確な遺構は特に見られないが、現在は農業用水路が周辺を流れているだけである。また、近くに真観寺古墳があり、物見の役割を果たしていた可能性が高い。

城名 鎌田氏館 読み かまたしやかた
所在地 埼玉県行田市上埼玉
字埼玉通
所在地地図
別名   コード 11_07_001_00500
築城年 室町期? 主な城主 鎌田五郎左衛門
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 忍城成田氏家臣である鎌田五郎左衛門の館跡と伝え、「成田分限帳」に同族と思われる鎌田修理の名が見える。
遺構  遺構はすでに宅地化されて見る影もないが、周辺に比べて若干高い地形となっている。

城名 行田氏館 読み ぎょうだしやかた
所在地 埼玉県行田市行田 所在地地図
別名   コード 11_07_001_00600
築城年 鎌倉末期 主な城主 行田兵衛尉?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 行田兵衛尉が住したとされるが、この行田氏についてはよく分かっていない。なお、行田の由来は「沼地から田にした業田(ナリタ)」が由来とする説がある。
遺構  江戸期には既に忍城の城下町として開発されており、近世には既に遺構は遺されていなかったと思われる。

城名 西条氏館 読み さいじょうしやかた
所在地 埼玉県行田市斎条 所在地地図
別名   コード 11_07_001_00700
築城年 鎌倉期 主な城主 西条兵衛太郎盛定
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 『吾妻鑑』に描かれる西条氏は、川越市小仙波にある光西寺文書により私市党出身であると判明した。同家は鎌倉初期以来、御家人として勤仕して、西国にも所領を得たという。
 一族の中に熊谷氏に仕える者も居たようで、元弘元年(1331)に熊谷直氏が楠木城(大阪府南河内郡千早赤阪村)攻めをした時に同直村の家人である西条直正が傷を負ったという。西条氏は熊谷氏同様に安芸国の国人として土着していたようである。
遺構  当市斎条に西条氏居住と見ていたが、伝承や地名では既に残されていなかった。しかし、宝泉寺付近に区画をなす溝が周囲を囲っている箇所もあるので、城館遺構という面と共に水害避けの溝でも考慮する必要があると思われる。

城名 皿尾城 読み さらおじょう
所在地 埼玉県行田市皿尾
字外張
所在地地図
別名   コード 11_07_001_00800
築城年 室町期? 主な城主 木戸監物忠朝
廃城年 戦国末期 形態
   
歴史
 戦国期、上杉輝虎が離反した成田氏攻略のために古城を改修し、成田氏の忍城への「対の城」として木戸忠朝を入城させる。それ以降羽生城と共に忍成田氏への牽制としての役割を担ったという。
 その後歴史は分かっていないが、羽生城が事実上の自落すると共に、この城も成田氏の手に渡ったと思われる。そして天正十八年(1590)に忍城が豊臣方に降伏すると共に廃城となったと想像される。
遺構  高太寺から大雷神社にかけての一帯が皿尾城跡であったという。大雷神社の境内には当城の遺構と思われる堀と土塁が僅かながら残されており、石碑も配置されている。

城名 志水氏館 読み しみずしやかた
所在地 埼玉県行田市下忍 所在地地図
別名   コード 11_07_001_00900
築城年 鎌倉期 主な城主 志水左近将監
志水六郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 『吾妻鏡』承久三年(1221)の宇治合戦での記録に志水左近将監と志水六郎の名が書かれている。志水氏は『常藩史氏族志』に私市党の出身とされているが、系図にそれを見る事ができなかった。
遺構  現在の下忍地区に志水(清水)の名は見えない。当地の下忍神社付近の小字が「東谷」「西谷」と分かれており、丁度この辺りに館跡があったのかも知れないが、それらしい遺構は見つけられなかった。

城名 須賀城 読み すがじょう
所在地 埼玉県行田市須賀
字中郷
所在地地図
別名   コード 11_07_001_01000
築城年 天文年間
(1532〜1554)
主な城主 須加修理大夫泰名
廃城年 戦国末期? 形態
   
歴史
 須加修理大夫が天文年間(1532〜1554)に築城したとある。その祖先は承久三年(1221)に伏見宇治橋にて奮戦した須加弥太郎で、この当時は忍城成田氏に属していた。
 天正十八年(1590)に六月四日に落城した館林城より石田三成が二万三千の軍勢を率いて川俣より利根川を渡った。須加氏はこの大軍には敵わず忍城に撤退し、須賀城は焼き討ちにあったという。
 地名の須賀とは州処や州河とも通じ、当初が利根川が作り出した中州を利用して築かれた城である事を名が伝えている。
遺構  須賀小学校と東の長光寺が高台になっており、今でこそ利根川堤防の一部になってはいるが、この周辺では一番高いところにある。しかしながら城の遺構は残っていないようである。
 また周辺も幾つも水路が流れており、直接城の遺構にはならないが、水運権も持つ城であったと思われる。

城名 長野氏館 読み ながのしやかた
所在地 埼玉県行田市長野 所在地地図
別名   コード 11_07_001_01100
築城年 平安末期 主な城主 長野三郎重清
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 長野三郎重清は畠山重忠の弟で、兄に従い活躍していた事が「平家物語」に残っている。
遺構  現在その居館推定地付近は工場団地化され、地名のみが残っているだけである。

城名 真名板氏館 読み まないたしやかた
所在地 埼玉県行田市真名板
字堂裏
所在地地図
別名   コード 11_07_001_01200
築城年 平安末期 主な城主 真名板五郎次郎経朝
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 吾妻鏡においてよくその名を知られた真名板氏の館跡と伝わるが、真名板氏の出自については詳しくは分かっていない。
 鎌倉幕府には「弓始、的始の儀」という正月の恒例行事があり、五郎次郎経朝はその行事で十年連続出場するという偉業を成し遂げるほどの弓の名手であったという。
 その後の真名板氏の動向については不明である。
遺構  医王山花蔵院がその館跡であるといい、薬師堂にある九十三糎(cm)の銅製薬師如来立像がその権力の強さを物語っている。遺構はごく簡素な物であったのか堀や土塁などは付近には見つける事ができなかった。
 薬師堂の西にある高山古墳は物見台の役割をしていた可能性も考えられる。

城名 満願寺館 読み まんがんじやかた
所在地 埼玉県行田市野
字内
所在地地図
別名   コード 11_07_001_01300
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館?
   
歴史
 歴史的経緯は不明だが、行田市としては城館跡としての認識がなく、満願寺自体の寺院要塞であった可能性も考えられる。
遺構  同地にある満願寺境内に土塁が境内に残る。

城名 若小玉氏館 読み わかこだましやかた
所在地 埼玉県行田市若小玉
字鞘戸
所在地地図
別名 鞘戸耕地館 コード 11_07_001_01400
築城年 鎌倉期 主な城主 若小玉小次郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 『吾妻鏡』に「若児玉小次郎」と「若児玉次郎」の名が見られる。永仁三年(1295)に書かれた『別府文書』によれば鎌倉幕府が若児玉弥次郎氏元の後家尼妙性に武蔵国西条郷(行田市斎条)を領掌せしむという内容の文書が残されているという。
 若小玉氏は児玉党の武士であったようで、『太平記』に観応三年(1352)に挙兵した新田義宗・義興兄弟に従った児玉党に、若児玉の名が見られる。
 『新編武蔵風土記稿』によれば小字鞘戸耕地は若小玉小太郎の宅跡と記録が残る。
遺構  龍泉寺がその地とされているが、明確な遺構は残されておらず僅かに微高地が残るのみである。周辺は現在も静かな田園風景が広がる。

城名 渡柳氏館 読み わたりやなぎしやかた
所在地 埼玉県行田市渡柳
字内郷
所在地地図
別名   コード 11_07_001_01500
築城年 平安末期? 主な城主 渡柳弥五郎清忠
廃城年 不詳 形態
   
歴史
  渡柳氏の出自については分かっていない。『平家物語』に書かれる渡柳弥五郎清忠がこの辺りに住んでいた伝える。同書には「義経に従ふ渡柳弥五郎清忠」と書かれており、『源平盛衰記』にもその名を見る事ができる。
 清忠は北条仲時に従い六波羅に出仕しており赤松円心らの討幕軍に攻められ討死したという(「城逢人」史進様からの情報)
 天正十八年(1590)の『成田分限帳』に渡柳監物の名があるが、鎌倉期の渡柳氏の系統か、別に入った武士なのかははっきりしていない。
遺構  明確な遺構は残されていない。
 過去に「内郷遺跡」として開発前に発掘調査を4ヶ所程行っており、その時に平安頃の遺物と堀の様な溝が検出されたという。これが本性寺の南側より見つかった事を踏まえると、館もその辺りにあった可能性が考えられる。

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<<主要参考文献>>
行田市史 上巻2 行田市 (1964)
行田史跡物語 大沢俊吉 著 (1979)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)