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江南町(こうなんまち)
 埼玉県内で中央やや北寄り、荒川が作り出した台地上に江南町の中心部はあった。この町は川が三つの区切りとなっており、北から低地・台地・丘陵地と南に向うほど標高は高まる。
 特に台地になっている部分の遺構は比較的良好に残されている。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
坂田氏館 塩館 春原氏館 常安寺館
須賀広陣屋 成沢城 平山氏館 増田氏館
三本堀の内 三本館 南方館 谷縁館

※注意
この地図は平成の大合併以前の地図を用いております。熊谷市内の城館所在地図はこちらをご覧下さい。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。



城名 坂田氏館 読み さかたしやかた
所在地 埼玉県熊谷市御正新田 所在地地図
別名   コード 11_06_008_00100
築城年 不詳 主な城主 坂田氏?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
丹党坂田氏の館跡と言われる
 坂田氏は武蔵七党丹党出身の武士で、(下)中村五郎左衛門尉時家の子である季時が坂田氏の開祖であるという。何時の頃か坂田氏は当地大里郡御正新田村に居を構えたようである。現在ある坂田山浄安寺はこの坂田氏の後裔によって開基したものといい、江戸期にはこの周辺を開発した一族であるとして伝わっている。
 当地の御正村はかって「御庄」であり、鎌倉期から上州新田氏の庄園であった事からこの名が付いているという。元々は秩父平氏の畠山重忠の領地であったが、二俣川にて重忠が横死して以来この周辺は上州新田氏所領となって、その代官として岩松氏がこの地に派遣されていたようである。この新田氏と坂田氏との関連は現在分からないが、室町期に深谷上杉氏の勢力がこの周辺に広まった時に、坂田氏がこの地にやってきたという可能性もありそうである。
遺構 浄安寺北側に残るクランクした形状の道。 浄安寺周辺には古くからの集落があり、村を構成した時代からの中心地であった事を思わせる。寺の裏口には食い違った道があったりし、直接城館跡に関連する遺構は残っていないがそれを思わせる地形が残っている。

城名 塩館 読み しおやかた
東南方向より塩館のある山林を見る。
所在地 埼玉県熊谷市塩
字荒井
所在地地図
別名 土手の内 コード 11_06_008_00200
築城年 不詳 主な城主 伊藤新五左衛門重昌?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
森の中にひっそりとたたずむ遺構
 江戸初期に甲州武川衆で塩村を知行した伊藤新五左衛門が住んだという説がある。実際には中世期の土豪の館をそのまま伊藤氏が利用する形になったと思われる。なお館跡名の「塩」とは「城」からの転訛であるという説がある。
遺構 山林に残る土塁と堀 現在も山林にあるために保存状態は良い。典型的な方形館の形状をしており、北面と東面は土塁と空堀が特に良く残されている。南西角は丸くなっていたようで、斜面に対して湾曲になっていた様子が見られる。

城名 春原氏館 読み しゅんのはらしやかた
 
所在地 埼玉県熊谷市御正新田?  
別名   コード 11_06_008_00300
築城年 鎌倉期 主な城主 春原三郎直守
廃城年 不詳 形態
   
歴史
熊谷直実の子春原氏
 春原氏は熊谷次郎直実の次男直守が春原村に住み、当地の地名を名乗って春原三郎と称したのが始まりである。春原とは「しゅんのはら」と「すのはら」と読む時とがあり、文書によってはどちらかで書かれている事がある。春原氏に直接関係する事柄はその位で、他の動向は不明である。早期にこの地より去った可能性も考えられる
 畠山重忠が相州二俣川にて横死して以来、この辺りは上州新田氏が治める事になったようで、代官として岩松氏が隣接する万吉地区に住んだという記録も残されている。
 直接関係があるか不明だが戦国期の信州真田氏家臣に春原(すのはら)氏が居り、当地から出た春原氏から出た可能性もあるが、それを裏付ける資料は見つかっていない。
遺構  春原村は現在の大字御正新田付近にあったとされ、「御正」とは「御庄」からの変化によるものらしい。春原氏の館跡は現在特定できていない。

城名 常安寺館 読み じょうあんじやかた
常安寺を南側より見た所
所在地 埼玉県熊谷市塩
字塩前
所在地地図
別名   コード 11_06_008_00400
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
常安寺境内に残る謎の遺構
 塩館東の常安寺境内にあったとされる館跡。その居住者や歴史については資料が残されていないものの、常安寺境内にその遺構のみを残している。おそらくこの地を拠点にした開発領主の屋敷であったと思われる。
遺構 常安寺境内の竹林に残されている土塁 常安寺の本堂を中心として残る遺構で、本堂の北と西に土塁らしき高まりがあり、さらに外側には堀があったと思われる。昭和六十二年の発掘調査で北側は箱薬研形の断面を持つ堀が出ており、幅3m、深さ1.2mにもなったという。また堀内より青磁花瓶などの出土品がでたという。

城名 須賀広陣屋 読み すがひろじんや 陣屋のあったとされる重殿稲荷。
所在地 埼玉県熊谷市須賀広
字重殿
所在地地図
別名 田村陣屋 コード 11_06_008_00500
築城年 慶長年間
主な城主 田村茂兵衛重次
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
歴史
田村氏による江戸期の陣屋
 当陣屋は慶長年間に稲垣若狭守重太の領地となった須賀広村を家臣である田村茂兵衛重次が築いたものであるという。陣屋としての始まりは田村氏によるものと思われるが、
遺構 陣屋に伴うと思われる空堀 陣屋跡地は殆どが農地などになってしまっているが、一部水堀もしくは空堀が点在している。

城名 成沢城 読み なりさわじょう
静簡院を南側より望む。
所在地 埼玉県熊谷市成沢
字静簡院境内付
所在地地図
別名   コード 11_06_008_00600
築城年 室町期 主な城主 上杉憲盛
廃城年 戦国期? 形態
   
歴史
街道筋を抑える平野部の城
 築城したのは上杉憲盛であったといい、この地を居館として定め、のちに静簡院を建立したという。近くを甲州街道が走っており、その沿線を押さえる為の要害とされる。
遺構 境内北にある土塁、一部がゴミ捨て場となって削られてしまった。 静簡院の北側に高さ1m程の土塁が東西に20m程伸びて残っている。他にも境内西側の墓地に僅かながらの高まりが見られ、その外の畑にも小高い塚が見られる。
 また、境内には開基である上杉憲盛の墓があり、現在でも綺麗に管理されていた。

城名 平山氏館 読み ひらやましやかた
平山氏館を南方より望む。
所在地 埼玉県熊谷市樋春
字宮表
所在地地図
別名   コード 11_06_008_00700
築城年 戦国期 主な城主 平山氏
廃城年 戦国末期? 形態
   
歴史
西党平山氏一族の居住地とされる
 当地樋口村は平山氏の居館があって、ここは荒川の旧渡河地点を押さえた館跡でもあった。当地の平山氏は武蔵七党の一つ日奉氏西党出身とされ、その祖先には源平合戦で活躍した平山武者所季重がいる。その平山氏の一族がいつ頃かこの地に住み、姓を「新井」と称した。
 新井豊後守の代である室町期には深谷城主上杉憲盛に召しだされ、その家臣となった。深谷上杉氏は上杉一族の中で唯一小田原北条氏に仕えたが、天正十八年に豊臣秀吉の小田原の役にて北条氏が滅亡すると、深谷上杉氏も共に滅んだ。
国重要文化財である「平山氏住宅」  こうした事もあって当時新井氏を名乗っていた平山氏は当地樋口村に帰農し、現在でも貴重な「平山家住宅」に住んだ。江戸期にはこの辺りでも名家で知れ渡っていて、子孫は慶応年間に平山姓に復している。
 所在地である大字樋春はかっての樋口村と春野原村を合わせた地名で、樋口とは農業用用水の摂取口の意味合いもある。そういった意味もあって荒川に近い平山氏の館は農業用用水の水利権を持っていて、その用水を利用する者に対して強い権力を持っていたと思われる。
遺構 周辺に残る土塁 現在館跡には江戸中期に建てられた「平山氏住宅」があり、入母屋作りの大きな農家建築物として国指定文化財に指定されている。その平山氏住宅の周辺に土塁や堀が残されており、中世期から江戸期の豪農時代までの遺構が堪能できる。

城名 増田氏館 読み ますだしやかた 紅葉に彩られた文殊寺の山門
所在地 埼玉県熊谷市野原
字元境内
所在地地図
別名 野原館、文殊館 コード 11_06_008_00800
築城年 不詳 主な城主 増田四郎重富
廃城年 不詳 形態
   
歴史
増田重富晩年の居館
 高見城主である増田四郎重富の居館であったという。この地は鎌倉街道上道の脇道が走っている地域で、北上すると荒川の渡しがある村岡宿がある。その為に度々ここに陣が置かれて周辺で合戦があった可能性も考えられる。
 増田氏は元々深谷市の増田に住した武士であったが、扇谷上杉氏に攻められ移住してきたのだという。文明三年(1481)に能満寺が焼失した後、その二年後に重富が文殊寺を建立して中興開基となり、長享元年(1487)に重富が没した際この地に彼の墓所と塚を設けたのだという。
 
遺構 文殊寺北側に残る土塁と堀 現在遺構の大部分は文殊寺の境内になっており、そのお陰で西側から北にかけての堀や土塁が良い状態で残されている。

城名 三本堀の内 読み みつもとほりのうち
所在地 埼玉県熊谷市三本
字堀の内
所在地地図
別名   コード 11_06_008_00900
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
堀の内にあったという居住者不明の遺構
 経歴不明の館跡で、「堀の内」という中世館跡にちなんだ地名が残るだけである。荒川の河段堤防上に所在しており、川向の大麻生村への渡河地点にある事を踏まえると重要な砦であった可能性も考えられる。
遺構  荒川の河川岸に近い館跡、遺構はほとんど残されていない。中世館跡の名残であった大木も今や切り倒されており、徐々に中世の面影が薄れつつある。

城名 三本館 読み みつもとやかた
三本館を南西方向より望む。
所在地 埼玉県熊谷市三本
字中屋敷
所在地地図
別名   コード 11_06_008_01000
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
区割りされた名主屋敷
 近世の名主屋敷が現在も続いており、
遺構  

城名 南方館 読み みなかたやかた
所在地 埼玉県熊谷市千代
字南方
所在地地図
別名 上杉館 コード 11_06_008_01100
築城年 室町時代 主な城主 上杉氏
廃城年 室町時代 形態
   
歴史
上杉氏の館の一つ
 広大な規模を持つ上杉氏の館。
遺構

城名 谷縁館 読み やべりやかた
所在地 埼玉県熊谷市板井
字中島・谷縁
所在地地図
別名   コード 11_06_008_01200
築城年 室町期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
森の中にある謎の遺構
 居住者等を伝えていない謎の館跡で、字中島の字の如く小高い岡になっており、一種の要害であったかに思われるが謎の残る遺構である。
遺構  複雑な形状の土塁と堀が小高い山林内に築かれており、その全形を把握するのは困難だと思われる。

<<参考文献>>
江南町史 通史編 上巻 江南町 (2004)
江南町史 資料編T 考古 江南町 (1995)
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)


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