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花園町(はなぞのまち)
 埼玉県北部にあった町で、現在では深谷市の一部となっている。町の殆どが櫛引台地にあり、主に農業が盛んな産業である。近年では関越自動車道花園インターができている。
 中世期は鎌倉街道上道の街道筋にあたり、町内には猪俣党出身の武士が多く住んでいた。その多くがこの地に居住し続けて戦国末期には鉢形城を守る小武士団になっている。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:飯塚氏館
 2:小前田氏館
 3:北根代官屋敷
 4:野辺氏館
 5:幕土氏館
 6:町田氏屋敷
※注意
この地図は平成の大合併以前の地図を用いております。深谷市内の城館所在地図はこちらをご覧下さい。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 飯塚氏館 読み いいづかしやかた
飯塚氏館推定地付近にある塚
所在地 埼玉県深谷市武蔵野
字東番屋
所在地地図
別名   コード 11_06_007_00100
築城年 鎌倉期 主な城主 飯塚掃部左衛門尉氏行
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党飯塚氏の館跡
 飯塚氏は猪俣党出身の武士であり、小前田野三郎信国の弟である氏行が飯塚邑に居館を構えた事により始まったという。また、氏行の甥で桜沢宗氏の弟盛氏も「飯塚新左衛門尉」を称しているので、氏行の系統と分別する為に「南飯塚氏」と呼ばれている。
 飯塚氏館跡に居住する堀内・久保両家は「殿様は十五夜の晩に芋畑にて討死した」という言い伝えが残っており、この殿様が飯塚氏のいずれの人物になるかは分からないが、近年まで十五夜には芋を食べてはならない風習が続いていたという。
 
遺構  遺構は西から伸びるなだらかな台地上に存在し、不規則な土塁や堀などが点在している。『花園村誌』に書かれている図面にある東側の空堀は発見する事ができなかった。

城名 小前田氏館 読み おまえだしやかた 今は喪失した小前田氏館の遠景
所在地 埼玉県深谷市小前田
字陣屋
所在地地図
別名 大将陣屋 コード 11_06_007_00200
築城年 不詳 主な城主 小前田野三郎信国
小前田越中守武主
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党小前田氏の居館
 小前田氏は御前田とも書き、猪俣党藤田氏三世孫である信国が小前田に居住し「小前田野三郎」と称した事より始まる。小前田氏は戦国期まで動向が分からないが当地にて代々住み続けていたようである。
 戦国期の小前田氏は越中守武主(『花園村誌』には武主とは大将の意味だろうと注している、また『日本城郭全集』と『日本城郭大系』では越前守となっている)が『関八州古戦録』に登場する。その当時の小前田氏は藤田康邦に従って小田原北条氏に降っており、武主は北条氏邦の鉢形城小前田衆という小武士団に組み込まれていた。
鉢形城の攻防戦とその後
 天正十八年(1590)に小田原北条氏に属していた各城は豊臣方の攻撃に遭う。鉢形城もその対象で、武主は鉢形城に入城しこの館は家臣の田口帯刀が守る事となった。しかし、戦力差は覆すことができず鉢形城は開城、武主は主君氏邦の奥方である大福御前を護りながら天神山城を目指していたが、途中坂本で山賊に襲われ交戦の末討死したという。
 その後の小前田氏の動向は資料に残っておらず、行方が分かっていない。
遺構  小前田西排水路の東側に近年まで土塁が残っていたというが、宅地開発によって喪失してしまっている。

城名 北根代官屋敷 読み きたねだいかんやしき
北根代官屋敷の正門
所在地 埼玉県深谷市北根
字東
所在地地図
別名   コード 11_06_007_00300
築城年 江戸期 主な城主 宇野氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
現存する旗本日根野氏の代官屋敷
 江戸期に北根村を領していた日根野氏はかって豊臣秀次に仕えていた日根野筑後守吉時で、二千石の領地を得ていたという。後に徳川家康に仕えたが、慶長七年に家康の勘気を受けて隠居し、子の長五郎弘吉がその跡を継いだ。この弘吉が当地榛沢郡北根・長在家・柏合の三村合わせて八百石と上野国山田郡と常陸国信太郡を合わせて一二〇〇石を知行していた。
 宇野氏は上記の日根野氏の領していた榛沢郡の村々をまとめる名主を務めていた。いつから名主を務めているかは不明だが、日根野氏がこの地を領してより宇野氏が名主を務めていたと考えられている。
 
遺構 北根代官屋敷石碑 代官屋敷は棟札によれば延享年中(1744〜1747)に建てられており、二六〇年以上経過した今も現存している貴重な文化財であるため、埼玉県指定文化財となっている。間取りとして「白州」と呼ばれる土間が中央にあり、座敷牢や馬小屋などがある代わりに押入れや仏間などの住宅として必要な設備がない。

城名 野辺氏館 読み のべしやかた 長楽寺境内の写真
所在地 埼玉県深谷市永田
字中居?
所在地地図
別名   コード 11_06_007_00400
築城年 室町期? 主な城主 野辺将監康忠
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党野辺氏の一族
 野辺氏は猪俣党出身で、一部には「野部」とも書く。尾園高家の弟で広兼が野辺氏を称して始まったとされる。野辺氏が広兼の代よりこの地に住んでいたかは分からないが、荒川を挟んで対岸に尾園氏が居住している事、鎌倉街道上道沿いの一等地である事を考えるとこの当時から住んでいる可能性がある。
 戦国期には将監康忠がおり、北条新太郎氏邦の配下として鉢形城荒川衆の一人として戦忠に勤しみ感状五通賜っている。この将監は天正四年(1576)に死去している。
 将監の子大学之助は地頭吉田与右衛門と同じく大阪御陣に従い軍功ありという。想像できる範囲で経緯を書くと、大学之助は父の跡を継いで鉢形城荒川衆になったが、天正十八年(1590)に鉢形城開城と共に北陸勢に降伏し、後に関東に領地を得た徳川家康に召抱えられ後年の大阪の陣にて参戦するに至ったと思われる。
 慶長五年(1600)の永田村境内知行拝領の書付に庄屋野辺大学之助殿と書かれていたという。
 
遺構  周辺には旧家が数軒並んでいるが、直接館跡に繋がる遺構は見つからなかった。近くの長楽寺には板碑や宝篋印塔が置かれており、中世からの歴史を思わせる雰囲気がある。

城名 幕土氏館 読み まくつちしやかた 武蔵野字在家にある小堂
所在地 埼玉県深谷市武蔵野
字在家?
所在地地図
別名   コード 11_06_007_00500
築城年 鎌倉期 主な城主 幕土五郎左衛門尉重国
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党幕土氏の居館推定地
 幕土氏は武蔵七党猪俣党出身の武士で、『武蔵武士』によれば藤田能兼の長子能行の子重国が幕土五郎左衛門尉を称した事から始まるという。建武の時代(1334・1335)に新田義貞に仕え弓の名手であった幕土六郎左衛門尉はその子孫であるという。その後の幕土氏の動向は資料等が無いので分かっていない。
 『武蔵国郡村誌』によると猿喰土(さるがいと)村が17世紀半ばの承応年間(1652〜1654)に飯塚村より分村しているとあり、漢字では「猿喰戸」「去谷戸」とも書かれているとの事で、「かいと」は垣戸に通じる事から城館跡にまつわる地名の可能性があるという。
(情報提供:「城跡ほっつき歩き」小頭@和平様)
遺構  旧猿喰土村は区画整理されており、その名残を追うのは難しくなっている。手掛かりとして小字在家や榎堂という地名があるので、この辺りにあったのではないかと思われる。

城名 町田氏屋敷 読み まちだしやしき  
所在地 埼玉県深谷市小前田
字橋屋
所在地地図
別名   コード 11_06_007_00600
築城年 天正十八年以後
(1590)
主な城主 町田土佐守秀房
廃城年 不詳 形態
   
歴史
主君氏邦の子光福丸の守役
 町田氏は鉢形城の北条氏邦配下の武士で、町田土佐守は今の寄居町小園に住んでいたとされる。
 天正十八年(1590)の鉢形城篭城戦において氏邦の三男光福丸(当時四歳)の守役を命じられており、『町田家文書』の中に町田土佐守を光福丸の守護役に命じる四月二日付けの氏邦判物がある。開戦前に鉢形城を脱出し、攻め手である前田利家に降伏したようで、前田利家より光福丸の助命と養育を命じる四月十五日付け文書が『町田家文書』にあるという。
 鉢形城は城兵の生命を保証する条件で開城し、城兵たちも鉢形城から離れていった。開戦前に前田勢に降伏していた町田土佐守は居住地を当小前田村に決め、光福丸を伴ってやってきた。その後光福丸の養育に努めてきたが、慶長四年(1599)に光福丸は十三歳の若さで夭折してしまった。町田土佐守は主君の遺児光福丸を小前田原中の空円坊という小堂に埋葬したという。
 慶長五年(1600)に町田土佐守は子の九郎左衛門長延と共に、故光福丸と土佐守の父康忠入道長善の菩提の為、現在に残る「光福山医王院長善寺」を建立したと言われる。そして入道して祐慶と改め、天和三年(1683)に死去したとあるが、あまりにも長生きしているので元和三年(1617)の誤りではないかと思われる。
 
遺構  現在橋場と呼ばれる地域には特に残されていない。


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<<参考文献>>
花園村誌 花園村 (1970)
花園村の今昔 花園村 (1979)
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)