×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

川本町(かわもとまち)
 埼玉県中央やや北西にいちしていた町。近年になり深谷市と合併をした。

 町内を荒川が流れており、関東八平氏の一人である畠山重忠ゆかりの史跡も多い。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
坂下堀の内 瀬山氏館 田中堀の内 津金氏陣屋
畠山氏館 本田氏館 本田陣屋

※注意
この地図は平成の大合併以前の地図を用いております。深谷市内の城館所在地図はこちらをご覧下さい。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 坂下堀の内 読み さかしたほりのうち
坂下堀の内付近の風景
所在地 埼玉県深谷市本田
字坂下
所在地地図
別名   コード 11_06_006_00100
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史  本田字坂下に「堀の内」と称する地名が残るのみで、その歴史などについては特に伝わっていない。
 
遺構  「堀の内」の呼び名が残るのみで遺構はほとんど見当たらない、近くに享保十九年(1734)生まれの江戸期数学者である藤田雄山(本田縫殿右衛門親天の第三子で新庄藩家臣藤田定之の養子)の生家がある。

城名 瀬山氏館 読み せやましやかた
明戸八幡神社
所在地 埼玉県深谷市明戸
字西・字台
所在地地図
別名 明戸堀の内 コード 11_06_006_00200
築城年 鎌倉期? 主な城主 瀬山氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史  瀬山氏の館跡というが、瀬山氏の出自については詳細不明である。
 
遺構  明戸駅直ぐ近くにあり、明戸の八幡神社北側付近に堀の名残と思える窪地あるのみで、直接館跡に結びつく様な遺構は見当たらなかった。

城名 田中堀の内 読み たなかほりのうち
現在の応正寺付近の風景
所在地 埼玉県深谷市田中
字新堀
所在地地図
別名   コード 11_06_006_00300
築城年 鎌倉期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
居住者不明の謎の館
 応正寺付近とされるが居住者やその他の歴史については一切残されていない。付近には的場の小字が残る事からも武士の屋敷があった事が伺える。
 
遺構  北側の河段丘より低く、中世初期の物とも思える。現地は宅地となっており、かって遺構が何処にあったのかも分からない状態となっている。

城名 津金氏陣屋 読み つがねしじんや 津金氏の陣屋推定地付近の様子。
所在地 埼玉県深谷市田中
字新堀
所在地地図
別名 田中村陣屋 コード 11_06_006_00400
築城年 江戸初期 主な城主 津金修理亮胤久
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
歴史
甲斐に入部した佐竹氏一門
 津金氏は清和源氏佐竹氏流で、その経緯は不明だが文明年間(1469〜1487)に甲斐国津金(現在の山梨県北杜市須玉町上津金)に居住し、対馬守胤頼の代で初めて津金氏を称したという。津金衆という武士集団を形成し、同族である小尾衆と小池衆と共に甲斐武田氏に仕えていた。
 胤頼の子美濃守胤時は他の武田氏家臣と共に天正三年の長篠の合戦に参戦し、子新左衛門尉胤重・跡部久直・小尾吉親・小池胤正らと戦死してしまった。胤時の子で胤重の弟である修理亮胤久は父の菩提を弔うべく高野山に塔婆を納めたという。
 
天正壬午の乱
 武田氏滅亡後の天正十年(1582)に本能寺の変が起こり、甲斐国を治めていた織田家家臣川尻秀隆は一揆によって命を落とした。そのため旧武田領内は無統治状態に陥り、隣国である北条氏・徳川氏がその領地を巡って甲斐国内で合戦をするに至り、後世に言う「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」が勃発した。
 かねてより武田氏遺臣を召抱えたいと考えていた徳川家康は、遠州二俣に隠棲していた降将依田信蕃を通じて遺臣たちに臣従する様に促した。その際に修理亮胤久は弟小尾監物祐光と一緒に妻子を人質に家康の元へ赴き、以後家康の旗本として仕える事となった。
 同じ津金衆でも井出氏や高見沢氏は北条方についていたが、津金胤久らは服部半蔵らの協力を得て江草の獅子吼城(現在の山梨県北杜市須玉町江草)を落城させたり、板橋(長野県南牧村)と勝間(長野県佐久市)に城を設け北条方の退路を断つ作戦などを助言している。
山梨県韮崎市にある新府城(写真中央)を北から望む 上野国経由で諏訪から侵入した北条方は津金氏の領地に近い若神子で陣を敷き、家康は新府城に入城し対陣した。北条方は南北から徳川方への挟み撃ちを試み、北条氏忠らが黒駒に着陣したが、これを徳川方の鳥居元忠らに襲撃され失敗している(黒駒の合戦)。こうした状況の中、関東の佐竹義重ら反北条方の活動が盛んになり、北条方は兵力で勝りながらも徳川方と和議に応じざるを得ない状況になった。かくして甲斐国は徳川方の領地となり天正壬午の乱は終結、家康は戦功のあった津金衆の領地を安堵した。
 
故郷甲斐国を離れ関東へ
 天正十八年の小田原の役にて後北条氏が滅亡し、豊臣秀吉が天下平定を成し遂げた。後に家康が関東へ転封するにあたり、津金衆は武士をやめ帰農する者と家康と共に関東に赴く者と分かれ、津金胤久はそのまま家康に従い関東に赴く道を選んだ。そして旧領の代わりに当地榛沢郡田中村と賀美郡勅使河原村(埼玉県児玉郡上里町)の計七五〇石を与えられた。
津金氏の墓所  『川本町史 通史編』ではこの津金氏がこの田中村に陣屋を築き、在地支配していたとしている。田中堀の内の代わりに新たに陣屋を設けた事で「新堀」の地名ができた事と、津金氏の菩提寺である田中字貴船にある天沢寺に津金氏の墓地が所在している事、そして江戸に近い領地に居を構える観点からこの地が最も適切というから、この地に津金氏が陣屋を築くに相応しい地であるとしている。
 
遺構  現在陣屋の推定されている場所はほぼ宅地と農地になっており、遺構に直結するものは見当たらない。なんとなくではあるが道路の形状から陣屋があった場所を連想されるのみに留まっている。

城名 畠山氏館 読み はたけやましやかた
史跡記念公園内にある五輪塔のある小屋
所在地 埼玉県深谷市畠山
字八幡
所在地地図
別名   コード 11_06_006_00500
築城年 平安末期 主な城主 畠山庄司重能
畠山庄司二郎重忠
廃城年 不詳 形態
   
歴史
秩父氏の嫡流畠山の地へ
 畠山氏は武蔵国において最も強大な武士団を形成した桓武平氏である秩父氏の直系で、秩父別当武基より五代孫にあたる重能が秩父郡吉田より当地男衾郡畠山庄に居を移し、畠山庄司重能と名乗った。この重能が後に武蔵武士の鑑と言われる名将畠山重忠の父となる人物である。
 
領地の為に平家に仕える
 重能は最初源義朝に仕えていた。久寿二年(1155)の大蔵の合戦で義朝は北関東で勢力を伸ばしていた弟である帯刀先生義賢を討った。その時義朝の長男悪源太義平が叔父義賢の次男駒王丸(義平の従兄弟、後の木曾義仲)を討つ様に命じられた時にも、僅か二歳の子を殺すのはしのびないと思い、長井別当実盛に預け信州木曾の中原兼遠の元へ逃している。
 平治元年(1559)に義朝は平治の乱で敗れ、逃走途中で殺害された事により清和源氏の命脈も尽きた。武蔵国は平氏の所領となり、平知盛が武蔵守として赴任された事もあって武蔵総検校職にあった重能は平氏に仕える事となった。そして内裏や院の警護に当たる要職に就く事になったのである。
 
子重忠の登場とその後の重能
 寿永二年(1183)になり二十八年前に見逃した木曾義仲が軍勢を率いて京に攻め上って来た時には重能と弟小山田別当有重は加賀国篠原(現在の石川県加賀市篠原町)にて木曾勢を迎え撃った。この時義仲配下の今井四郎兼平と激戦をし多くの郎党を失い、重能らは京へ敗走した。その二ヵ月後には京は木曾義仲の手に落ち、重能の子重忠が源頼朝(義朝の子)に仕えた事もあって、重能は処刑される所であった。平知盛の進言を聞いた宗盛に関東に帰国する許しを得たが、重能兄弟はそれでも平氏家臣として西国に下りたいと願い出たが許されなかった。やむを得なく重能兄弟は東国へ下る事となった。これ以後は重能の名は出てくる事はなくなり、代わりに子である畠山庄司二郎重忠の活躍が見られるようになるのである。
 重忠はいつしか故郷である当地より鎌倉に近い菅谷館(菅谷城)へ居を移した事からも重忠の代には当館も廃されたのかも知れない。
 
遺構  畠山重忠生家とされる。公園化されており、中には重忠像がある。

城名 本田氏館 読み ほんだしやかた
本田氏館前にある解説板
所在地 埼玉県深谷市本田
字西上本田
所在地地図
別名 本田城 コード 11_06_006_00600
築城年 鎌倉期 主な城主 本田ニ郎親恒
廃城年 戦国末期? 形態
   
歴史
桓武平氏の裔本田氏
 本田氏は畠山氏と同じく桓武平氏である村岡良文を祖としている一族である。
 『本田氏系図』などによれば良文の孫忠恒(忠常とも書く)は上総介・下総介となりこれらの地に勢力を伸ばしたものの長元元年(1028)に反乱を起したとして征伐された。
 その忠恒の子たちには千葉氏の祖となった千葉常将、当本田氏の祖先となった安房押領使である穂田恒親らがおり、穂田恒親の孫である親幹が当地武蔵国男衾郡本田郷に居住し、本田姓を名乗ったという。
 
畠山重忠股肱の臣本田親恒
 畠山重忠の臣・本田ニ郎親恒は親幹の曾孫で幼名鬼石丸と言った。兄に太郎親正が居たが宇治川の合戦にて戦死したという。恐らく弟である親恒がその後本田の名跡を継ぎ、榛沢六郎成清と並んで秩父氏の嫡流である畠山重忠の股肱の臣となったのであろう。
 文治二年(1186)に薩摩島津氏の祖である島津忠久(源頼朝の庶長子という説もある)が日向・薩摩・大隈の地頭職に命ぜられた時に親恒は先に薩摩国に入り、反発する土豪衆らを平らげて忠久の入国の下地を作ったという。これには親恒の娘は重忠の室となっており、その重忠の室が産んだ娘(親恒からすれば孫娘)が島津忠久に嫁した事から親恒は老骨を打って奮闘したという。
 かくして島津忠久は薩摩に入国し、親恒の子(養子で重忠末子という説もある)貞親は島津忠久の重臣として国分平野の清水城(現在の鹿児島県霧島市)に居を構えた。貞親の次男親兼以後、薩州本田氏として活躍していく事となった。
 
本田親恒の最後とその後
 親恒は生涯重忠の重臣として従い、重忠と共に元久元年(1205)六月に二俣川で横死するまで榛沢六郎成清と並んで古記に見られるようになる。当本田の地には孫の道親(貞親の長子)が親恒の兄親正の養子となり、以後はこの道親の末裔がこの地に住したとされる。
 
遺構  当地は閑静な農地であり、遺構は民家裏の林にひっそりと残されている。

城名 本田陣屋 読み ほんだじんや
本田陣屋の現在の風景
所在地 埼玉県深谷市本田
字上本田前
所在地地図
別名   コード 11_06_006_00600
築城年 応安三年?
(1370)
主な城主 上杉氏憲?
足利満詮?
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
歴史
諸説のある陣屋
 本田氏の居館近くに陣屋という所がある。このを利用した経緯について幾つかの諸説があり、どれが正確なものであるか明らかになっていない。『新編武蔵風土記稿』によれば深谷城主上杉氏憲の陣屋跡と記し、福島東雄著の『武蔵志』には応安三年(1370)の本田合戦における室町幕府方の陣地としている。『川本町史 通史編』では後者の本田合戦における陣地説を有力視している。
 
新田氏残党狩りの拠点として
 応安三年の「本田合戦」とは『鎌倉管領九代記』が詳しく載せており室町幕府三代将軍足利義満が、上州新田氏に組する者の討伐をした際に起こった合戦の一つである。鎌倉を発進した上杉弾正少弼朝房と畠山右衛門佐基国は武蔵国本田に着陣した、その時の新田方の部将は馬淵・中村某のニ将で当本田の地にて激しい戦闘が行われた。幕府方の攻撃が激しく馬淵・中村の両将は敗走し、信濃国へと落ち延びていったという。
 将軍義満は弟である左馬頭満詮(当時十一歳)を総大将として派遣したが、上記の本田合戦は満詮の到着する五日前に終わっており、八ヵ月後に帰陣するまでの間この陣屋にて新田氏残党の討伐に当たったという。
 
遺構  当地はすでに宅地および農地となっており、遺構を見る事ができない。しかし数千の軍勢をとどめた地となれば北の丘陵を含めたこの辺り一帯は陣営となっていたと考えられる。

埼玉県市町村別へ 都道府県別へ トップページへ
 
<<主要参考文献>>
川本町史 通史編 川本町 (1989)
須玉町史 通史編 第一巻
 序編 原始・古代・中世・近世
須玉町 (2002)
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)