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寄居町(よりいまち)
 県西北部に位置する町で、荒川が山間部から平野部に変わる辺りに位置する町。町の東部は鎌倉街道が走り、今も交通の要衝となっている。
 中世においては山岳地帯の一部に丹党が居住する以外は全て猪俣党が所領を持っていたようである。室町期になると長尾春景が鉢形城を築き、それに籠って戦うなど、戦乱の時代に突入している。
戦国末期には小田原北条氏の北条氏邦が鉢形城に本拠を置き、上州方面に勢力を拡大していくが、天正十八年に他の城同様北陸軍に攻められ降伏した。
 町内は戦国末期から近世初頭の遺構は大変良く残されているが、鎌倉期の館跡は保存状態があまり良くない。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
大河内陣屋 桜沢砦 桜沢氏館 島田氏屋敷
立原堀ノ内 男衾氏館 鉢形城 花園御嶽城
花園城 藤田氏館 無動寺氏館 水野陣屋
金尾要害山城 用土城 用土堀ノ内 尾園氏館
葉栗氏館 織原氏館    
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 大河内陣屋 読み おおこうちじんや  
所在地 埼玉県大里郡寄居町
鉢形字八幡台
別名 大河内金兵衛
陣屋
コード 11_06_004_00100
築城年 戦国末期 主な城主 大河内金兵衛
廃城年 江戸期? 形態 陣屋
   
歴史
代官大河内氏の陣屋
 天正十八年に関東に入国した徳川家康の臣大河内金兵衛秀綱が築いたとされる陣屋。
遺構
 近年まで空堀があったとされるが、現在は喪失している。立地条件として鉢形城を見下ろす台地の末端部にあり、大河内氏が陣屋として利用する前は鉢形城の支城であった可能性も指摘されている。

城名 桜沢砦 読み さくらざわとりで
所在地 埼玉県大里郡寄居町
桜沢字山ノ根
別名   コード 11_06_004_00200
築城年 戦国期 主な城主 不詳
廃城年 戦国末期 形態
   
歴史
鉢形城北方の物見
 歴史的経緯は不明で、伝承もない。立地条件から見れば、鉢形城北面の視界を確保する為に作られたと思われる物見用の砦。
遺構
 堀切などは特に無く、平場のみが残る。麓に城柵があったとされ、北面の視界は良好である。

城名 桜沢氏館 読み さくらざわしやかた
所在地 埼玉県大里郡寄居町
桜沢字堀ノ内
別名 桜沢堀ノ内 コード 11_06_004_00300
築城年 不詳 主な城主 桜沢氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党桜沢氏の居館か
 「武蔵武士」によれば、猪俣党の今泉重能の弟氏兼三郎衛門の二子宗氏が桜沢四郎左衛門を名乗ったという。また藤田氏からの出身を指している系図もあるので、立地的な面を踏まえると後者の方が可能性が高い。
遺構
 大部分が国道140号線バイバス開通と宅地化の為破壊されている。また、南西にある中内手との関連も考慮する必要がある。

城名 島田氏屋敷 読み しまだしやしき
所在地 埼玉県大里郡寄居町
富田字塚越
別名   コード 11_06_004_00400
築城年 室町期? 主な城主 島田氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
土豪島田氏の屋敷
 当地はこの地の土豪島田氏の館跡と言われ、島田氏は他の土豪と同じく江戸期には名主となり、近世にはこの地に住していたようである。
 島田氏の出自は特に分かっていない。戦国期頃になると武蔵七党のひとつ丹党岩田氏(長瀞町)より島田氏が出ているが、当地の島田氏であるかは定かでない。
遺構
 今も道路脇に巨大な土塁を残している。土塁は西側と北側の一部のみなっているものの、高さにして3mほどはあり、土豪屋敷にしては規模が大きい。

城名 立原堀ノ内 読み たちはらほりのうち
所在地 埼玉県大里郡寄居町
立原字堀ノ内
別名   コード 11_06_004_00500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
居館か?鉢形城の支城か?
 歴史的経緯は不明だが、鉢形城より近距離にあるためその支城ではないかという説がある。
遺構
 明確な遺構はないが、西側より伸びる舌状台地上にあり、南の低地との比高差はかなりある。

城名 男衾氏館 読み おぶすましやかた
 
所在地 埼玉県大里郡寄居町
富田字堀ノ内
別名 富田堀ノ内 コード 11_06_005_00600
築城年 不詳 主な城主 男衾氏?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党男衾氏の居館か
 猪俣時範の子重任が男衾野五郎を名乗り、この地に住んだと思われる。
遺構
 堀の内と呼ばれる場所は現在宅地と農地になっているが、明確な館跡の所在地が不明である。

城名 鉢形城 読み はちがたじょう
所在地 埼玉県大里郡寄居町
鉢形字城
別名   コード 11_06_004_00700
築城年 室町期
文明年間?
主な城主 長尾景春
北条氏邦
廃城年 天正十八年
(1590)
形態 崖城
   
歴史
北武蔵屈指の巨大城郭
 築城された時代ははっきりしてないが、長尾景春が文明年間(1469〜1486)に築城したという説が有力である。景春が太田道灌によって敗走させられた後上杉顕定が入城した。後に藤田右衛門佐康邦が持城となった。
 小田原北条氏の勢力が北武蔵にまで及んでくると藤田氏は北条氏康の三子虎寿丸(後の北条氏邦)を養子に迎え、自らは用土城に退いた。後北条氏が上州方面の拠点とするにはこの城が適切であったようで、氏邦は天神山城(長瀞町)からこの城に移り、大改修を行い北関東攻略への拠点とした。
鉢形城落城とその後
 天正十八年(1590)に豊臣秀吉が関東に侵略してくると、氏邦は鉢形城に籠城する。しかし上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら北陸勢が城を取り囲み、本多忠勝は南西の車山より大砲で城を攻撃してくる。一ヶ月近くの篭城戦の末氏邦は降伏し、開城した。
 戦後徳川氏が関東に入国すると、鉢形城は利用される事なく廃城となり、徳川氏の代官大河内氏が陣屋にて周辺を治めた。そして城主北条氏邦は前田利家の預かりとなって晩年を能登の七尾で過ごし、慶長二年(1597)その生涯を終えた。
遺構
 城域は一部農林総合研究センター敷地になったりしたが、そのほかの遺構は鉢形城公園となり、保護されるようになった。また近年では「寄居北条祭り」の会場となり、毎年天文十八年の鉢形城の攻防を模するイベントが開催されている。

城名 花園御嶽城 読み はなぞのみたけじょう
 
所在地 埼玉県大里郡寄居町
末野字押越
別名   コード 11_06_004_00800
築城年 戦国期 主な城主 藤田氏
廃城年 天正十八年
(1590)
形態 山城
   
歴史
花園城を背後から守る支城
 藤田氏の花園城の背後に築かれた城で、こちらの方が高さがあるので城内を見透かされるのを防ぐ為に支城化させたものと思われる。伝承は特に無いが、この経緯からしても藤田氏が築城したと見て間違いないだろう。
 花園城と一体化していた可能性が高く、天正十八年(1590)にその役割を終えて廃城になったと思われる。
遺構
 花園城の背後にある御嶽山山頂に城は築かれており、山頂(本曲輪)へ向かうための道ができている為一部遺構が破壊されているものの、ほとんど残されている。
 この城の特徴は本曲輪周辺に築かれた空堀で、同じ藤田氏の持ち城である天神山城の出曲輪はこれより更に複雑に絡み合った構造をしている。空堀を築くことにより、攻め手は侵入経路が狭まり、弓矢の餌食になったと思われる。また空堀が守り手の武者溜りになっていて、攻め手が近づくまで身を隠し、接近した所を急襲する為の設備としても可能性もあり、どちらにも応用が可能であったと思える。
 空堀を築く技術は上州の榛名峠城でも見られ、実戦向きの遺構であったと思われる。

城名 花園城 読み はなぞのじょう
所在地 埼玉県大里郡寄居町
末野字城山
別名   コード 11_06_004_00900
築城年 平安末期? 主な城主 藤田氏
廃城年 天正十八年
(1590)
形態 山城
   
歴史
藤田流築城術の凝縮した要害
 猪俣党藤田氏が築いた城で、荒川を見下ろす要衝に築かれた城。
 藤田氏歴代がこの城に住し改修を繰り返し、雛壇の様に並んだ曲輪の配置は藤田氏流築城術として特徴がある。背後の山より見下ろされるという弱点を、支城化する事により補っている。これが花園御嶽城である。
 天正十八年に鉢形城の支城として豊臣勢に攻撃され、鉢形城と共に陥落し廃城となったようである。
遺構
 全体的に山頂付近の遺構はよく残っているが、藪が酷く道も整備されていない。

城名 藤田氏館 読み ふじたしやかた
所在地 埼玉県大里郡寄居町
末野字日山
別名   コード 11_06_004_01000
築城年 平安末期 主な城主 藤田五郎政行
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党藤田氏の居館
 藤田氏は猪俣党の出身で、「小野氏系図」によれば猪俣三郎政家の子政行が藤田五郎を名乗ったのが始まりとされる。政行の子三郎大夫行康(泰)は寿永三年(1184)に生田森にて平氏方と戦い戦死したが、これが源頼朝に感謝され子の小三郎能国に遺領を継がせた。以後子孫は鎌倉幕府によく仕え、戦国期に至るまでその領地を保つ事ができた。
遺構
 遺構の南を荒川が流れ、東と北をその支流が囲むかの様に流れ天然の水堀を作っている。しかし西側の遺構は明確ではなく、地形の比高差もさしてない。

城名 無動寺氏館 読み むどうじしやかた
所在地 埼玉県大里郡寄居町
富田字前塚越
別名 不動寺 コード 11_06_004_01100
築城年 平安末期 主な城主 無動寺氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党無動寺氏の居館と伝わる
 無動寺氏は猪俣党の男衾野五郎重任の子某(名称不詳)が無動寺太郎を名乗ったのが始まりである。
遺構
 不動寺の西を東武東上線が走り、墓地の南に切り通しの名残がある程度しかない。これを遺構と仮定するならば、線路の向かい側まであった可能性も考えられる。

城名 水野陣屋 読み みずのじんや
所在地 埼玉県大里郡寄居町
赤浜字上寺西
別名 水野石見守長勝
陣屋
コード 11_06_004_01200
築城年 戦国末期 主な城主 水野石見守長勝
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
歴史
鉢形城士水野氏の屋敷
 元は北条氏邦に仕えていた水野氏の持ち城で、徳川家康が関東に入国するにあたり、水野氏も赤浜に所領を安堵され、当地に陣屋を構えた。
遺構
 昌国寺周辺に土塁と堀が良く残っており、残されたは方形館である。遺構の西には水野氏の墓所があり、ここにも土塁状の地形が見られる。

城名 金尾要害山城 読み かなおようがいやまじょう
所在地 埼玉県大里郡寄居町
金尾字要害山
別名   コード 11_06_004_01300
築城年 不詳 主な城主 金尾弥兵衛
廃城年 不詳 形態 山城
   
歴史
猪俣党金尾氏の籠もる要害
 金尾氏は猪俣党出身で、猪俣範高の弟景綱が金尾五郎を称したことより始まるとされる。詳しい系図は分からないが、戦国期に現れる要害山城主金尾弥兵衛はその子孫である可能性もある。戦国期になると荒川流域の監視用の砦として利用され、周辺の城館と同様に天正十八年(1590)に鉢形城が落城すると、その役割を終えたと思われる。
 なお、地名の金尾とは秩父で採掘された「和銅開珎」にちなむ名で、和銅を採掘した山地の末端という意味があるという。
遺構
 長瀞町との境目付近に荒川に突出している形状をしており、今も平場が残されている。山頂からは荒川流域が一望でき、東に花園城花園御嶽城、更に鉢形城までも望む事ができる。

城名 用土城 読み ようどじょう
 
所在地 埼玉県大里郡寄居町
用土字高城
別名 高城 コード 11_06_004_01400
築城年 天文十五年
(1546)
主な城主 藤田右衛門佐康邦
廃城年 天正十八年
(1590)
形態 丘城?
   
歴史
藤田氏の隠居城
 猪俣党藤田氏の右衛門佐康邦によって天文十五年に築城されたと伝える。藤田氏は南から勢力を伸ばしてきた小田原北条氏に属し、花園城天神山城を婿養子の秩父新太郎(北条氏邦)に譲った。康邦はこの地に隠居して用土氏を称して、自らも用土新左衛門と改名したという。『武蔵誌』によれば高城とも呼ばれていた。
 用土新左衛門が弘治元年(1555)に没すると長子弥八郎が跡を継ぎ用土新右衛門尉重連と名乗るが、天正六年(1578)に義兄弟である北条氏邦に毒殺される。その後弥六郎信吉が跡を継いだが、天正十八年(1590)に本城である鉢形城が豊臣秀吉によって落城させられ、それに伴いこの城も落城、以後廃されたという。
遺構
 伝承と地名は城に関連する事が残されているものの、遺構はよく分かっていない。幾分小高くなった所に城の天守をかたどった建物と用土城の石碑があるぐらいである。むしろ北条方に余計な疑念を抱かせないためにも、要害性のほとんどない平坦に近いこの地に隠居したと見るべきであろう。

城名 用土堀ノ内 読み ようどほりのうち
所在地 埼玉県大里郡寄居町
用土字前郷地
別名   コード 11_06_004_01500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
地名のみの謎の館
 地名にのみ「堀ノ内」を残し、歴史及び詳細は伝わっていない。
遺構
 周囲に小川が流れ、現在も館跡を思わせる様に道が曲がっている程度で、直接館跡とみられる遺構は発見できなかった。

城名 尾園氏館 読み おぞのしやかた
所在地 埼玉県大里郡寄居町
小園字内亭?
別名   コード 11_06_004_01600
築城年 平安末期? 主な城主 尾園三郎家高
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党尾園氏の居館か
 猪俣党出身の尾園氏の館跡があったという。尾園氏は、猪俣家兼の子家高が尾薗三郎を名乗り当地に来た事より始まる。
遺構
 近くの清本寺に馬場の地名が残っているが、明確な遺構は分からない。集落のすぐ北は荒川が洗う急崖で、川向にはかっての鎌倉街道上道が走っていたようである。小字である内亭は館跡所在地によくある地名「内手」が訛ったものであろうか?

城名 葉栗氏館 読み はぐりしやかた
所在地 埼玉県大里郡寄居町
末野字関口
別名   コード 11_06_004_01700
築城年 平安末期 主な城主 葉栗五郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
丹党葉栗氏の居館
 葉栗氏は丹党出身とされ、井戸政成の孫国経が葉栗五郎を名乗ったのが始まりと言われるが、「武蔵武士」では三沢家綱の二子国綱が葉栗五郎を名乗ったとも伝える。
遺構
 末野西部の波久礼駅周辺には「殿倉」「屋敷入」「蔵屋敷」などの館跡にちなむ地名が幾つか残るが、いずれが館跡なのかはわかっていない。

城名 織原氏館 読み おりはらしやかた
所在地 埼玉県大里郡寄居町
折原字堀ノ内
別名   コード 11_06_004_01800
築城年 平安末期 主な城主 織原丹五郎泰房
廃城年 不詳 形態
   
歴史
丹党織原氏の居館
 丹党織原氏が住したとされる館跡で、丹党の薄長房の二子泰房が大里郡折原村に住した事により織原丹五郎を称したのが始まりという。
遺構
 遺構周辺は西から北にかけて荒谷川が自然の堀をなし流れている。その大部分は田畑になっており、片隅には郷土カルタの看板も立つ。

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<<主要参考文献>>
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)