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深谷市(ふかやし)
 埼玉県北部の都市の一つ。煉瓦の町で、東京駅の駅舎もこの深谷市で作られた煉瓦を使用している。また市内はネギの栽培が盛んで、「深谷ネギ」の名称で知られている。最近では周辺の岡部町・川本町・花園町と合併した。
 当地は深谷上杉氏ゆかりの地だけあり、上杉氏もしくはその家臣団の館跡も多い。また鎌倉時代の猪俣党一族の館跡が多いのも特徴的である。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
秋元氏館 伊勢方城 内ヶ島氏館 荏原氏館
大沼弾正屋敷 小内氏館 庁鼻和城 皿沼城
新開氏館 蓮沼氏館 幡羅館 お庫屋敷(東方城)
お姫屋敷(東方城) 熊野大明神館
(東方城)
御所屋敷(東方城) 城主別邸(東方城)
人見氏館 深谷城 堀米堀内 曲田城
増田氏館 宮ヶ谷戸堀の内 矢井伊勢守館 横瀬氏館
↓市内の城館所在地図です。城館名をクリックするとリストに移動します。

※当地図は平成の大合併以前のものです。岡部川本・花園の城館は、各市町村のリストをご覧下さい。

←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 秋元氏館 読み あきもとしやかた
所在地 深谷市秋元町 所在地地図
別名 秋元越中守長朝城
秋元氏陣屋
上野台館
コード 11_06_002_00100
築城年 室町期? 主な城主 秋元越中守長朝
廃城年 戦国末期 形態
   
歴史
藤家秋元氏の出自
 当地は深谷上杉四宿老の一人、秋元氏の居館と伝わる。秋元氏は摂政関白藤原道兼の後裔であり、『寛政重修諸家譜』によると関白道兼より八代孫である宇都宮掃部助頼綱の子左衛門次郎泰業が上総国周准郡秋元庄を領した事により始まるという。
 代々上総国小糸城(千葉県君津市清和市場)に住していたが、越中守景朝が天文十年(1541)に訳があって小糸城を去り、武州深谷の深谷上杉氏に仕える事となったという。その時深谷の上野台と滝瀬に領地を得たというので、この館跡はその頃に作られたと考えられる。景朝は生涯を深谷上杉氏に尽くし、天正十五年(1587)に六十三歳にて没したという。
長朝の時代とその後
 越中守長朝は天文十五年(1546)に父景朝と上杉新蔵人憲勝の娘の間に生まれた。後に父の遺領を継いで深谷上杉氏憲に仕える事となったが、この頃の深谷上杉氏は小田原北条氏の下にいた。
 天正十八年(1590)の小田原の戦役に上杉氏憲が小田原城へ詰める事となった時、長朝は深谷城の留守を預かっていた。北関東の主要城を攻め落としてきた豊臣方の前田利家・浅野長政の両将が大軍を持って本庄岡の宿(旧岡部町)まで進出して来た所で、長朝は戦局が非常に不利であると判断し、深谷城を開城して浅野長政に降伏を申し出ている。そして浅野長政に属してそのまま忍城攻めに参加して戦功を得ている。
 戦後、長朝は浅野長政の紹介により徳川家康と対面、家康に仕えて領地を安堵される事となった。関ヶ原の合戦にも参戦し、その戦功により上州惣社六千石を賜わっている事から、この頃に当地から去っていると思われる。転封先の惣社で仁政を敷き、寛永五年(1628)に長朝は八十三歳の生涯を終えている。
遺構
 昭和39年に館跡は住宅地になってしまい、遺構が破壊されてしまったようである。しかし秋元氏の偉業を偲び町名を「秋元町」にし、後裔の方の書である石碑も建てられている。
 明治時代に作られた『迅速測図』には秋元氏の居館と思われる部分が描かれている。それによれば唐沢川のほとりに堀を築いていた様子が書かれ、川を西側の堀の一部として利用していたようである。南から伸びる微高地をいくつかの堀で区切り、数ヶ所の曲輪にしているようである。
 なお、土塁については描かれていなかった為詳細不明である。

城名 伊勢方城 読み いせかたじょう
所在地 埼玉県深谷市伊勢方 所在地地図
別名   コード 11_06_002_00200
築城年 室町期 主な城主 深谷上杉氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
深谷城築城までの仮城
 庁鼻和城の上杉氏が深谷城完成まで居館としていたとされる。集落の周辺を堀がめぐっている。
 『深谷の四宿老矢井伊勢守(関口浩著)』によれば深谷城完成以後は、矢井氏がこの城に居住したといい、名前の伊勢方もこの矢井伊勢守重家から取ったものであるという。
遺構

城名 内ヶ島氏館 読み うちがしましやかた
所在地 埼玉県深谷市内ヶ島 所在地地図
別名   コード 11_06_002_00300
築城年 平安末期 主な城主 内ヶ島五郎国綱
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党内ヶ島氏の居館
 内ヶ島氏は猪俣党出身で、『武蔵武士』によると岡部清綱の弟国綱が内ヶ島五郎を名乗ったといい、『小野氏系図』によれば猪俣野三忠兼の子国経が内ヶ島三郎を名乗ったと言い、諸説が分かれる。
遺構  明確な遺構は発見できないが、自然堤防上にある永光寺周辺にあったと見られる。

城名 荏原氏館 読み えはらしやかた
所在地 埼玉県深谷市江原 所在地地図
別名 屋敷 コード 11_06_002_00400
築城年 鎌倉期 主な城主 荏原太郎政重
廃城年 戦国末期? 形態
   
歴史
猪俣党荏原氏の居館
 荏原氏は猪俣党河勾野五郎政基の子政重が当地に住み荏原太郎を名乗ったのが始まりという。建武二年(1335)には子孫である荏原下総守が新田義貞に従い、箱根にて奮戦したという。
 その後の荏原氏の活躍は見られなくなるが、館跡があったというこの地は天正十八年(1590)、石田三成が忍城水攻めをした際に取水施設として活用されたという。
遺構
 摩利支天神社の周辺に遺構があったとされるが、近年になりいつしか失われてしまった。境内にある大欅は館跡の記念に植えられたと伝えられ、文化財指定を受けている。

城名 大沼弾正屋敷 読み おおぬまだんじょうやしき
所在地 埼玉県深谷市東大沼北 所在地地図
別名   コード 11_06_002_00500
築城年 室町期 主な城主 大沼弾正忠繁忠
廃城年 不詳 形態
   
歴史
深谷上杉氏家臣大沼氏の屋敷
 大沼氏は深谷上杉氏の家臣と伝わるが、それ以上詳しい事は分かっていない。大沼弾正忠藤原繁忠の屋敷とも伝わる。
 元亀三年(1572)に越後の上杉謙信に属した深谷上杉憲盛が上野国倉賀野付近にて小田原北条氏と交戦した。これに対して小田原北条氏は甲斐武田氏と共同で深谷城を攻めており、この合戦の際武田勢によって当館も放火されたと伝わる。
 同地西蔵寺には繁忠の墓があり、没年を慶長十一年と見えているという。
遺構
 市街地に近い所ではあるが昔からの雰囲気をいくらか残しており、水堀と思われる水路が流れている。

城名 小内氏館 読み こうちしやかた
所在地 埼玉県深谷市出田桜町 所在地地図
別名 桜田馬場
桜馬場
コード 11_06_002_00600
築城年 不詳 主な城主 小内氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
遺構
 民家の裏に水路らしき所があるが、これだろうか?

城名 庁鼻和城 読み こばなわじょう
所在地 埼玉県深谷市国済寺 所在地地図
別名 国済寺館 コード 11_06_002_00700
築城年 室町初期 主な城主 上杉陸奥守憲英
上杉左馬助憲光
廃城年 戦国期? 形態
   
歴史
深谷上杉氏のルーツ
 庁鼻和上杉氏は上杉氏宗家である山之内上杉氏より出でた家系で、関東管領山内上杉憲顕の子である陸奥守憲英より始まる。この憲英が榛沢郡深谷の「ちょうのはな」に居を構え、常興山国済寺を開山した。この「ちょうのはな」が後の庁鼻和で、憲英よりこの家系を庁鼻和上杉氏と呼ばれるようになった。
 憲光・憲信と続き、房顕の代になり古河公方足利政氏との抗争が激しくなり、より要害性のある深谷城を築き、居をそちらに移す事となった。以後深谷上杉氏と呼ばれるようになった。
遺構
 庁鼻和館が前身で、館跡時代の遺構範囲は国済寺境内に良く残る。

城名 皿沼城 読み さらぬまじょう
所在地 埼玉県深谷市上敷免皿沼 所在地地図
別名 岡谷氏館 コード 11_06_002_00800
築城年 延徳三年
(1491)
主な城主 岡谷伊賀守香丹
岡谷伊賀守清秀
廃城年 天正十八年
(1590)
形態 平山城?
   
歴史
清和源氏出身の岡谷氏
 深谷上杉四宿老の岡谷(おかのや)氏による築城である。岡谷氏は『重修岡谷家譜』によるとその祖を源基経の七代孫左衛門尉義康としており、はじめ足利氏・斯波氏・大崎氏を称し、義康より十一代孫の香丹の代には岡谷氏と称した。
深谷上杉氏四宿老として
 当城は延徳三年(1491)に岡谷伊賀守香丹によって築かれたという。近くを鎌倉街道が通り、利根川の渡河地点に近い事から深谷城の北方守備の要とされた。香丹は後に長子伊賀守清秀(英)に城を譲り曲田城へ隠居したという。
 清秀は文武に優れた武将であったとされ、秋元越中守景朝・井草左衛門尉・矢井伊勢守と並んで深谷上杉四老臣と言われた。清秀は天正十二年(1584)に没している。
 清秀の子左京亮泰春もまた深谷上杉氏に仕えたが、天正五年(1577)に上州猿ヶ京にて父に先立ち討死を遂げている。
 泰春の子左馬助泰繁も深谷上杉氏に仕えたが、周辺には越後の上杉謙信・小田原北条氏らの勢力が伸びてきていた。元亀元年(1570)にはついに深谷城は北条氏に攻められている。この時の泰繁は十六歳の若者で、岡谷宗雲と共に北条氏と戦っている。その後元亀三年(1572)甲斐の武田信玄に、翌天正元年には武田勝頼に深谷城が攻められた時にも泰繁は深谷の為に戦った。
岡谷氏のその後
 そして天正十八年(1590)に小田原の戦役が終決し、左馬助泰繁はこの地を去り姓を矢野に改めて徳川家康に仕える事になった。この時管生村(現東京都あきる野市)などに千三百石の知行を受け、関ヶ原の合戦にも参戦した。その後は加賀藩二代目前田利常に仕えて千石を賜り、元和二年(1616)に泰繁は死去した。
遺構
 当地は高台であったというが遺構は煉瓦の用土取りによって搾取され、跡地は水田となってしまい、堀跡は農免道路の拡張により埋め立てられたという。橋の近くには当城に関する解説板が設置されている。

城名 新開氏館 読み しんかいしやかた
所在地 埼玉県深谷市新戒北堀 所在地地図
別名   コード 11_06_002_00900
築城年 平安末期 主な城主 新開荒次郎忠氏
新開荒次郎実重
廃城年 不詳 形態
   
歴史
渡来系秦氏族の新開氏
 新開氏は新羅系渡来氏族である秦氏族より出た一族であるといい、時に新海・新戒・新会・真貝・新改・新階・新鎧などと書き改められてきた。
 日本に来た秦氏族は農業・工業共に優れた技術を持ち合わせていた為に東国である信濃国へ遣わされ、佐久・更級・東筑摩地方に広く住むようになったようである。新開氏はこの内佐久郡伴野庄田口郷(現在の長野県佐久市臼田地区)を本領としていて、秦河勝の子孫である新開荒次郎忠氏が平安末期頃にこの地に要害を築き、大荒大明神を勧請して祖神秦河勝を祀ったと、大正十四年作成である古櫃神社の『神社調査書』には記録されている。
桓武平氏と姻戚となる
 新開荒次郎実重は桓武平氏土肥氏の出身で、相模国中村庄(現在の神奈川県小田原市)の庄司宗平の次男土肥次郎実平の二子である。兄の弥太郎遠平は後に安芸国にて小早川氏の祖となり、土肥荒次郎実重が新開荒次郎忠氏の養子となったと『富岡亀雄系図』に見られる。養子となった時期については詳しく分かっていないが、源頼朝が挙兵した時に新開荒次郎実重の名が見られるこの頃ではないかと『深谷市史』は推定している。
 新開氏は和田義盛の乱で土肥氏ともども滅亡の危機に立たされるものの、後年承久の乱においては一族挙げて出陣し、宇治川合戦にて新開弥次郎が負傷し、新開兵衛尉が戦死した事が注進されている。
新開氏のその後
 鎌倉時代も末期になる頃には新開氏の一部の者たちは越中国へ移住し、土肥氏を名乗るようになりこの地方を治めていた土肥氏に仕えたという。四国に移住した一族は室町期細川氏の家臣として活躍した。新開頼行入道の子遠江守真行が、細川頼之の阿波国守護代として阿波国那東郡牛牧庄(現在の徳島県阿南市富岡町)に牛岐城を築城している。
 また、室町期になると深谷城上杉氏の家臣に新鎧四郎真氏という者が現れ、その子孫の方は今も深谷市にお住まいなのだという。
遺構
 東雲寺周辺に水路として名残を残している。

城名 蓮沼氏館 読み はすぬましやかた
所在地 埼玉県深谷市蓮沼天神窪 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01000
築城年 平安末期 主な城主 蓮沼六郎国家
蓮沼三郎忠国
廃城年 不詳 形態
   
歴史
猪俣党蓮沼氏
 蓮沼氏は猪俣党の内ヶ島氏より出た一族である。内ヶ島国綱の子国家が大里郡明戸村に住した事より蓮沼六郎を名乗り、建久元年の源頼朝の上洛に従った蓮沼三郎は国家の子忠国であるという。
 南北朝期の時代を記した『太平記』に蓮沼氏は新田義貞に従って勤王したといい、義貞馬側一六騎に連ねる秩父平氏高山遠江守重遠も蓮沼氏とは濃い血縁関係にあったため、義貞配下になって太田庄細谷村に知行を与えられた。
 のちの応永年間頃(1394)に、蓮沼氏は犬懸上杉氏に従ったという。
 後年、蓮沼徳兵衛は横見郡にて新田を開発したといい、現在の比企郡吉見町蓮沼新田にその名を残している。江戸中期には蓮沼伝左衛門貞正が家督を弟に譲り、母方の苗字を取って高山氏を名乗り、その貞正の孫には尊皇思想家として名高い高山彦九郎正之がいる。
 そして当地にはいつの頃からか蓮沼氏の家臣である橋本氏が住むようになり、館跡の北東部の大榎に粟島神社を祀ったと言われる。
遺構
 明治二十七年頃までは外堀が残されており、欅の大樹があったという。後に区画整備と煉瓦の用土として土取りされ、遺構は破壊されてしまったという。

城名 幡羅館 読み はたらやかた
所在地 埼玉県深谷市原郷 所在地地図
別名 原氏館 コード 11_06_002_01100
築城年 鎌倉期 主な城主 幡羅太郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
成田氏の祖幡羅氏
 幡羅は「はら」とも読み、忍城に勢力を拡大した成田氏の祖と言われる幡羅氏の居館であるという。
遺構
南側の堀の現状 現在民家の敷地内になっており、全体の調査はなされていない。西側面を通過する道上から観察した所、土塁はおおよそ2m強の高さがあり、南側の空堀は竹林になりながらも保存状態は比較的良い。
 西側の土塁が二ヶ所切れているが、北側のものはおそらく後世に崩されたものであろうか。観察している道路上も当時は空堀であったと考えられ、土橋を備えていたのではないかと思われる。なお、北東側は観察していないものの、典型的な方形館であると予想している。

城名 お庫屋敷
(東方城)
読み おくらやしき(ひがしかたじょう)
所在地 埼玉県深谷市東方城下 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01201
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
東方城近くに所在する謎の遺構
 御所屋敷の先にあったという遺構。使用時期も東方城と同じであろうか?
遺構
 東方城関連の遺構の中で一つだけ低地に位置しており、バイバス敷設時の発掘調査で堀跡が検出された。福川沿いの微高地を利用していたと思われ、一部しか明らかになっていないがこの微高地の範囲が遺構の範囲になると考えられる。現在は埋め戻され遺構は残っていない。

城名 お姫屋敷
(東方城)
読み おひめやしき(ひがしかたじょう)
所在地 埼玉県深谷市東方 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01202
築城年 室町期 主な城主 不詳
廃城年 慶長七年?
(1602)
形態
   
歴史
 東方城の遺構群の中で一番東に位置する遺構で、「お姫屋敷」の名前を残すだけで居住者や歴史については伝わっていない。
遺構
堀跡と土塁 東方城の最東部に位置し、西側部分のみ堀や土塁を残している。北西端部のみ残されている為に範囲が明らかではない。南側は耕地になっており、地形は平坦に整地されている。

城名 熊野大明神館
(東方城)
読み くまのだいみょうじんやかた(ひがしかたじょう)
所在地 埼玉県深谷市東方 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01203
築城年 室町期 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
東方城の西に位置する遺構
 熊野大明神境内西に土塁と思われる土盛がある、北西隅に小口があったのかも知れない。
遺構
境内を囲む低い土塁 熊野大明神の携帯にあり、他の東方城関連の遺構に比べて土塁が低くく、また比較的距離が離れている事もあって、東方城の遺構というより神社の境内を成す土塁と見た方が良さそうである。

城名 御所屋敷
(東方城)
読み ごしょやしき(ひがしかたじょう)
所在地 埼玉県深谷市東方 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01204
築城年 室町期 主な城主 矢井若狭守重任?
松平丹波守康長
廃城年 慶長七年
(1602)
形態 平山城
   
歴史
東方城の本曲輪部分
 東方城の本曲輪に相当すると思われる場所で、土塁が良好な形で残されている。
遺構
土塁上の様子、左下は切通になっている道路 東方城の本曲輪とされ、遺構の規模や櫛引台地の突出した先端部を有している事を踏まえれば妥当な遺構であると言える。北側は福川が作り出す氾濫原になっており、視界は良好である。
 西側は土塁が取り巻いており、切通しがそのまま現在も道路として利用されている。また東側も堀切がそのまま切通になったと思われる形状になっており、現代もその遺構の規模をうかがう事ができる。

城名 城主別邸
(東方城)
読み じょうしゅべってい(ひがしかたじょう)
所在地 埼玉県深谷市東方 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01205
築城年 室町期 主な城主 東方城歴代城主?
廃城年 慶長七年?
(1602)
形態
   
歴史
東方城の一部とされる遺構
 東方城の城主の館とされている、北側と西側に堀や土塁が残る。
遺構
空堀 御所屋敷とお姫屋敷の中間に位置し、一部が破壊されているもののある程度その規模を見る事ができる。

城名 人見氏館 読み ひとみしやかた
所在地 埼玉県深谷市人見 所在地地図
別名 人見館、人見城 コード 11_06_002_01300
築城年 平安末期 主な城主 人見六郎政経
人見小三郎行経
廃城年 戦国期 形態
   
歴史
猪俣党人見氏
 猪俣党河勾(かわわ)氏より出た政経より人見氏を名乗る。戦国時代まで人見氏はこの地に住んでいたという。
 室町期になると庁鼻和上杉氏三代目憲長の子憲武がこの館を修築し、ここに居を構えたと言われる。また、北側の押切川を挟んだ対岸の丘になっている吹張遺跡も、河川に隣接した祠道山及びその斜面を開発した館跡の可能性があるとの事で、この館を中心に人見地区にいくつかの館があったのではないかと思われる。
遺構
解説板と空堀 遺構のある微高地はそのほとんどが宅地および農地化されてしまったため、そのほとんどを失っている。残されている遺構はその外周が二重の土塁と空堀に囲まれており、かなり手を加えられた要害であったと想像される。
 館は大きく分けて東郭・西郭・中央の郭に分かれており、室町期に上杉憲武が居住した際に館を拡張させた事が容易に想像できる。
 東郭は遺構の残る部分は森になっており、『埼玉県の中世城館』に描かれている図では一部を除いてほとんど喪失しているようである。中央部分の郭は『日本城郭大系』によれば半月形の土塁があったという。そして西郭はこれらの曲輪の中で最も保存状態が良く、最西端には二重になった土塁と空堀を見る事ができる。
 これだけの発掘調査がありつつも発掘調査が行われていないとの事で、今後発掘調査の結果次第によってはその規模や構造なども変化していく可能性はある。

城名 深谷城 読み ふかやじょう
所在地 埼玉県深谷市仲町 所在地地図
別名 木瓜城 コード 11_06_002_01400
築城年 康正二年
(1456)
主な城主 深谷上杉氏
松平氏・酒井氏
廃城年 寛永三年
(1626)
形態 平城
   
歴史
深谷上杉氏の本城
 庁鼻和上杉房憲が康正二年(1456)古河公方足利成氏に対抗する為に築いた城で、当時居城としていた庁鼻和城では防御面において不安があった為に新たに築かれたのだという。この周辺は湿地帯であったといい、近くの唐沢川を堀として利用している。これにより庁鼻和上杉氏は、今後深谷上杉氏と呼ばれるようになった。
後北条氏への従属
 房憲・憲清・憲賢・憲盛と代々居城としてきたが、憲盛の代になると南方より小田原北条氏の侵略に脅かされる事になった。天文二十年(1551)に北条氏が山内上杉氏の居城平井城を攻めた時には岩附城の太田三楽斎・上州箕輪城の長野信濃守業政らがこの深谷城と上州館林城にて交戦した。
 しかし、天正元年(1573)に深谷上杉氏は小田原北条氏に屈する事となり、憲盛の子氏憲は北条氏政の婿となった。これが越後の上杉謙信の攻撃対象となり、天正二年には深谷城城下が越後勢によって放火されている。
小田原の役とその後
 天正十八年(1590)には豊臣秀吉による小田原の戦役が勃発し、城主氏憲は小田原城に召集され、城の留守は重臣である秋元長朝と杉田因幡らに委ねられた。迫る豊臣方の前田利家・浅野長政の率いる大軍の前に勝敗は決まっており、城兵は開城して降伏した。かくして深谷上杉氏による深谷城支配は終わった。
 戦後徳川家康が関東に入国、深谷城は松平源七郎康直が一万石にて入城した。
遺構
 現在も市街地の地下に巨大な遺構を残していると思われる。

城名 堀米堀内 読み ほりごめほりのうち
所在地 埼玉県深谷市堀米堀内 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
地名を残す謎の遺構
 歴史背景及び居住者等を伝えていない。
遺構
 地名を残すのみだが、周辺に比べ微高地になっている。一説によると地下に石垣らしきものが埋まっているというが、詳しくは分かっていない。

城名 曲田城 読み まがったじょう
所在地 埼玉県深谷市伊勢方 所在地地図
別名 谷野城 コード 11_06_002_01600
築城年 室町期 主な城主 岡谷伊賀守香丹
廃城年 不詳 形態
   
歴史
岡谷香丹の隠居先
 資料によっては谷(矢)野城とも言う。当城は皿沼城主であった岡谷伊賀守香丹の隠居先とされている。香丹は何時の頃か子である伊賀守清秀に皿沼城を譲り当地に隠居し、城内に岡谷山皎心寺を開基したという。そして香丹は天文六年(1537)に没した。
 一説によれば曲田城も伊勢方城の一部であったとされ、深谷城築城までの仮城としては両城の範囲を考慮するとかなりの規模であった事がわかる。
遺構
 以前は水田に老松があり、香丹手植えの老槇や堀跡があったというが、近年は宅地化されてその風情はあまりとどめていない。ここは上杉仮城の一部だったのだろうか?

城名 増田氏館 読み ますだしやかた
所在地 埼玉県深谷市上増田 所在地地図
別名 増田四郎重富館 コード 11_06_002_01700
築城年 室町期 主な城主 増田四郎重富
廃城年 室町期 形態
   
歴史
増田氏初期の館
 増田重富初期の館跡で、重富は深谷上杉氏に従属を迫られるも拒否した為攻められ、比企郡高見城へ去ったという。
遺構
 北側の土塁は今なお健在。

城名 宮ヶ谷戸堀の内 読み みやがやとほりのうち
所在地 埼玉県深谷市宮ヶ谷戸宮前 所在地地図
別名   コード 11_06_002_01800
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
詳細不明の遺構
住吉神社周辺に堀がある。
遺構

城名 矢井伊勢守館 読み やのいいせのかみやかた
所在地 埼玉県深谷市藤野木
字元地
所在地地図
別名   コード 11_06_002_01900
築城年 戦国末期 主な城主 矢井伊勢守重家
廃城年 不詳 形態
   
歴史
矢井氏の出自
 矢井(やのい)氏は深谷上杉氏の重臣であったといい、遠祖は小野妹子で古くから伝わる文書には姓である「小野」が用いられていたという事から、系譜図等に見当たらないものの猪俣党出身である可能性が高いと見ている。
 そもそも矢井氏は市内にあった谷之(矢之)村に住していたと見られ、上杉氏にはいつ頃から仕えていたのかは不明だが、矢井播磨守重次の代には仕えていたようである。康正二年(1456)に庁鼻和上杉五代目である房憲が、深谷城を築くにあたり谷之村を房憲の仮城(伊勢方城)としており、その後伊勢方城を預かるようになったのだという。
 播磨守重次の子には深谷上杉四宿老の一人に数えられる伊勢守重家がおり、伊勢守重家の弟である若狭守重任は東方城を預かったという。また、妹は同深谷上杉氏重臣である岡谷伊賀守清秀に嫁いでいる。
深谷上杉氏滅亡後
 天正十八年の深谷城開城により深谷上杉氏の中で最も北条氏に近かった伊勢守重家は、危害が及ぶのを恐れて家臣を引き連れて利根川を渡り、上州尾嶋村(現在の群馬県大田市尾島町)に身を隠し、庵を寺院となして哀愍寺(あいみんじ)と名付けたという。その間にも家臣である大和田左近に深谷の地で永住するのに適した場所を探させた所、この地が選ばれて藤が多く自生していた為に藤野木と名づけて移住した。そして「矢井」から「加藤」と苗字を改めた伊勢守重家は藤野木にて天正二十年(1592)に没したという。
 江戸時代を通じ矢井氏の子孫である加藤氏は、現在もお住まいであるという。
遺構
 藤野木集落の中心地に位置し、周囲に二重の堀がめぐらされていたという。その内堀は「構堀」と呼ばれ、農業用水として用いられたという。内堀には土塁もあったというが、山林の開発により崩され、昭和四十七年の土地改良でまったく無くなったという。
 また内堀の門前(南側)には家臣の大和田氏を住まわせたという。
主要文献 「深谷の四宿老 矢井伊勢守」 関口 浩 著

城名 横瀬氏館 読み よこぜしやかた
所在地 埼玉県深谷市横瀬上立帰 所在地地図
別名   コード 11_06_002_02000
築城年 平安末期 主な城主 横瀬氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
上州由良氏のルーツか
 新田初代義重の三男義包が開基となった華蔵寺周辺が館跡と言われる。南北朝時代の桃井直常がこの横瀬の地にて終焉を迎えたという説もある。
遺構
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<<主要参考文献>>
深谷市史 全 深谷市 (1969)
深谷市史 追補篇 深谷市 (1980)
発掘調査報告書第93集
「吹張遺跡」
深谷市 (2007)
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
深谷上杉顕彰会会報各誌 深谷上杉顕彰会
深谷の四宿老矢井伊勢守 関口浩 著 (1989)
利根川の歴史
-源流から河口まで-
金井忠夫 著 (1997)