桓武平氏の誕生 |
村岡(平)良文は桓武平氏の一族であり、武蔵・相模を拠点とするの桓武平氏の祖となる人物である。埼玉県の中世城館を研究するにあたり良文の子孫たちが多く関わっており、その存在感は非常に大きい。
桓武天皇の第一皇子である葛原親王は天長七年(870)に弾正尹を兼ねて親王任国である常陸国の太守となり、関東と深い関わりを持つようになる。本格的に関東に移住するのは葛原親王の孫である高望の時で、平朝臣の姓を賜って常陸大掾に就任後、寛平元年(889)に上総介として関東に移り住んだとされる。桓武平氏とはこの高望の子孫たちの事を言う。
この高望の子は十人以上の子が居たとされ、子達は自ら各国の守や介・掾などの高級官吏に就任しながら土豪の娘を妻として、各地に勢力を伸ばしていった。
良望(のちの国香)が常陸大掾となり、常陸・伊豆・伊勢・出羽・越後に進出して子孫には天皇の外戚となって威勢を振るった平清盛がいる。良将は鎮守府将軍として上総・下総の両国に進出して、その子には関東で乱を起した将門がいる。良兼は下総介として武蔵・安房へ。そして当館に住したという伝承がある良文の子孫は武蔵・相模の両国に進出していったという。
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平良文という武士 |
平良文は仁和二年(886)生まれといい、平高望の子の一人として生まれるが不明な所が多い。最初上野国群馬郡の国府に住み、その後武蔵国・相模国と居住地を移してきたという。その領地は武蔵国から相模国に至る広大なでもので、我々の抱く一ヶ所に住む「居館」という概念は良文にはなかったのかも知れない。
延長元年(923)には勅命により各地で転戦し、天慶二年(939)には甥の将門が朝廷に謀反を企てた時にこれを討ち、その遺領を拝領した。さらに下総・上総・常陸の介に任じられ、これが元となって千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八平氏が各地で繁栄していく。
天暦六年(952)
関東八平氏の祖の一人でもあり、荒川の水利を利用して村岡に荘園を開き関東八平氏の基礎を築いた。
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武芸を競う武蔵武士たち |
『今昔物語』には隣村箕田(今の鴻巣市)の箕田源氏である源宛(みつる)と全面衝突する所を一騎打ちにて競いあって、決着が着かず、お互いの力を認め互いに和睦をした話が残っている。多くの血が流れる事無く和睦に持っていた良文の外交手腕が伺われる場面である。
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良文の子孫たち |
良文の子である次郎忠頼は父の拓いた村岡に住み、天慶の乱(939)の時、平将門討伐に貢献をし、武蔵押領使兼陸奥守に任じられた。こうした武勇があり、子孫には関東に大きく影響を及ぼした武士を多く輩出している。
当埼玉県で影響を与えた子孫として秩父氏がおり、一族は代々「武蔵国留守所総検校職(常時不在の武蔵太守に代わり政務を代行統理する高級官吏に当たり、武蔵介に相当する地位)」に就いていた。子孫畠山重忠がおり、源平合戦において多くの功績を立てた。また、千葉氏からは武蔵七党の野与党・村山党を出しており、埼玉県南東部の各地に所領を得て活躍した。
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