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熊谷市(くまがやし)

 埼玉県北部の一大都市で、荒川の中流岸に発展した町である。最近では周囲の妻沼町・大里町・江南町を合併して面積的に大きくなっている。
 この街は鎌倉時代頃には多くの武士団を輩出した地であり、そのゆかりの城館跡も数多くあったとされている。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
市田氏館 御蔵場 河上氏館 久下氏館
熊谷氏館 肥塚氏館 小次郎館 玉井氏館
中条氏館 奈良氏館 成田氏館 西別府館
箱田氏館 兵部裏屋敷 別府城 万吉氏館
瓶尻氏館 光屋敷 村岡氏館 楊井氏館

※当地図は平成の大合併以前のものです。妻沼・大里・江南の城館は、各市町村のリストをご覧下さい。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 市田氏館 読み いちだしやかた
所在地 埼玉県熊谷市久下下分 所在地地図
別名   コード 11_06_001_00100
築城年 戦国期 主な城主 市田次郎保則
市田太郎氏盛
廃城年 戦国末期 形態
   
歴史
忍城成田氏の家臣、市田氏
 『武蔵武士』によると市田氏は私市党出身で、久下重家の子に市田次郎保則がおり、久下の字上分(旧市田)に居を構え姓にしたと伝わる。保則の子憲重は『私市党系図』によると久下太郎則氏の子として久下姓で表記されているので、則氏の養子になった可能性も考えられる。
 『成田記』によると久下直光の末孫に久下弥次郎兼行がおり、明応年間(1492〜1500)に成田下総守長泰に服し、成田氏家人になったという。兼行の孫に市田太郎長兼という人がおり、北条氏房(※注1)と深谷上杉憲賢の娘の間に出来た氏盛を養子にしたとある。
(※注1) 上記の北条氏房は小田原北条氏の系図を見ると四代目氏政の子に岩附太田氏を継いだ氏房がいる。しかし、その次男であると永禄年間には合戦に参加できる年齢とは考えにくい。従って「北条氏房」なる人物が他に居るのか検証を要する。
市田氏のその後
 『上杉系図』になると庁鼻和(上杉)憲賢の子に市田太郎がいる事を示している。また、『上杉古文書』には永禄三年(1560)には、上杉謙信の下に市田氏盛も参戦したという記録がある。
 天正十八年(1590)の小田原陣の時、忍城に籠もったが小田原城開城と共に豊臣氏に下った。

遺構  現在宅地と畑になっていて、遺構を探すのが難しくなっている。

城名 御蔵場 読み おくらば
所在地 埼玉県熊谷市上石原字宿 所在地地図
別名 石原氏館
郷倉屋敷
コード 11_06_001_00200
築城年 平安末期 主な城主 石原氏
城和泉守昌茂
廃城年 不詳 形態
   
歴史
甲斐の国人三枝氏の支族石原氏
 甲斐三枝氏から出た三枝政経が石原氏を称し、当地を住居地としたとされる。また、「大里郡郷土誌」には江戸初期にこの地を領した城氏の名が見られるという。
 城和泉守昌茂は松平武蔵守利隆の軍監として慶長(1614)と元和元年(1615)の大阪の陣に出陣したが、その時軍令違反を犯したとして戦後改易させられ近江石山寺に閉居した。のちに寛永三年(1626)に赦免されたが同年七十六歳にて死去し、当石原村の東漸寺に葬られたという。
 
遺構  遺構は特に見られないが、民家の合間を縫うように当時からの物と思われる水路が今も流れる。

城名 河上氏館 読み かわかみしやかた
所在地 埼玉県熊谷市上川上新田 所在地地図
別名 屋敷 コード 11_06_001_00300
築城年 鎌倉期 主な城主 河上六郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
横山党河上氏の館
 横山党河上氏の住したとされる館跡で、横山資孝の六男である六郎が河上氏の始祖。六郎の子三郎は保元物語に源義朝に仕え、名を残している。その後の河上氏の記録は無く、成田氏の領地となった事から早々にこの地から河上氏が去った事を伺わせる。
 その後は成田氏家臣である山田伊半なる武士が当地に住み、子の弥次郎は武河合戦時に戦死したという。
 
遺構  農地及び宅地化などされ、遺構は見当たらない。

城名 久下氏館 読み くげしやかた
所在地 埼玉県熊谷市久下古城 所在地地図
別名   コード 11_06_001_00400
築城年 鎌倉期 主な城主 久下権現直光
廃城年 不詳 形態
   
歴史
熊谷氏と同族の久下氏
 私市党の私市為家の子直信が久下氏始祖で、久下丹治と称したのが始まりである。
 後に源頼朝に仕え、頼朝が相州石橋山合戦にて敗走した時、当時の当主重光が三百騎にて最初に馳せ参じたのを感謝し、「一番」の家紋を授けたという。
 重光の子である直光は、同族である熊谷直実と所領争いをしたりしている。後に久下氏は丹波国へも所領を増やし、戦国期になるとその子孫が成田氏に仕えたという。
 
遺構  現在館跡があったと思われる地域は荒川堤防内になっており、河川改修によって喪失したと思われる。

城名 熊谷氏館 読み くまがいしやかた
所在地 埼玉県熊谷市熊谷 所在地地図
別名 陣屋館 コード 11_06_001_00500
築城年 鎌倉期 主な城主 熊谷次郎直実
廃城年 不詳 形態
   
歴史
鎌倉期の勇士熊谷氏ゆかりの陣屋
 私市党熊谷氏の館跡とされるが、実際には政務を行った陣屋として利用されていた場所であったという。熊谷氏は私市党の出で、私市直幹の次男直季が熊谷領に住した事により熊谷を姓とした。
 熊谷直実は特に有名で、子の小次郎直家と共に武勇を誇った。後にその一族は全国各地に移住した。
 
遺構  熊谷寺内にいくらかの遺構があるとは思われるが、立ち入りができない為未確認である。

城名 肥塚氏館 読み こえづかしやかた
所在地 埼玉県熊谷市肥塚三丁目 所在地地図
別名   コード 11_06_001_00600
築城年 鎌倉期 主な城主 肥塚太郎九郎光長
廃城年 南北朝期? 形態
   
歴史
私市党肥塚氏の館
 私市党熊谷氏の直季の弟直長が肥塚に住み肥塚三郎を名乗った。以後南北朝期まで当地に住み、播磨国に移住したという。
 
遺構  現在は周辺の宅地化が進み、遺構の所在が不明である。

城名 小次郎館 読み こじろうやかた
  所在地 埼玉県熊谷市新堀新田 所在地地図
別名 熊谷館 コード 11_06_001_00700
築城年 平安末期 主な城主 熊谷氏
廃城年 江戸初期 形態
   
歴史  熊谷氏が六百年間住んだと言われる館跡。

城名 玉井陣屋 読み たまいじんや
所在地 埼玉県熊谷市玉井稲荷木通 所在地地図
別名   コード 11_06_001_00800
築城年 平安末期 主な城主 玉井野七資遠
玉井四郎助実
廃城年 戦国末期? 形態
   
歴史
成田兄弟の一人、玉井四郎の館
 玉井氏は横山党横山資孝の子資遠が「玉井野七」を名乗った。野七の子四郎助重は平安末期、源義朝の配下として軍功を立て、後に丹波国の地頭職に任じられ、子孫は福知山にて住み続けているという。
 また、成田助高の子助実が、玉井四郎を名乗った事より始まった説もあるが、この辺りに系図上での混乱が見られる。
 
玉井氏のその後
 『ふるさと玉井の歴史』によれば、助実の次男である次郎の子孫が天正十八年(1590)まで当地に住み、玉井数馬は蒲生氏郷に仕えた。後に子孫は加賀前田家に仕えてた事により、加賀にて玉井氏子孫は住まうという。
 
遺構  遺構は玉井寺にあったと思われるが、現在見ることができない。

城名 中条氏館 読み ちゅうじょうしやかた
所在地 埼玉県熊谷市上中条竹内 所在地地図
別名   コード 11_06_001_00900
築城年 長承元年?
(1132)
主な城主 藤原常光
中条出羽守家長
廃城年 不詳 形態
   
備考  中条氏は藤原氏から出た説と横山党より出た説とあり、はっきりしていない。
 藤原氏説によれば、長承元年(1132)に藤原常光が当地に下向し、この地にて六年間生活し歿した。常光は白根氏より女を娶り中条新五有家と同新六家資の二人の子が居り、有家の子に中条藤次(出羽守)家長がいる。また、横山党説によれば成田成任の次子成尋の子に出羽守家長が居たという。
 出羽守家長は祖先より源氏の家人であった為、源頼朝が伊豆にて挙兵するとすぐさまその下に加わり、鎌倉幕府創立に尽力をつくした。その後評定衆に任じられ、貞永式目の立法に参画したりと幕府の政治面で影響力を与え、嘉禎二年(1236)に七十二歳にて没したという。
 常光院は家長の居館であったとされ、建久三年(1192)に祖父常光の供養の為に寺としたという。
遺構  長年境内であったため遺構の保存状態は良く、今も境内に堀跡が残る。

城名 奈良氏館 読み ならしやかた
所在地 埼玉県熊谷市上奈良字在家 所在地地図
別名   コード 11_06_001_01000
築城年 平安末期 主な城主 奈良三郎高長(頼尊)
廃城年 不詳 形態
   
歴史  奈良氏は横山党成田助高の三男高長が、当奈良の地に住し奈良三郎を称したのが始まりとされる。開祖高長は保元の乱には源義朝に従い、後に当地に妙音寺を立て頼尊と称した。
 奈良氏は戦国末期まで同所に住み続けたようで、「成田分限帳」には奈良下野の名が見られる。
遺構  明確な遺構は残されていないが、妙音寺周辺には館跡があったと思わせる雰囲気が今も残り、周辺に比べても地形がやや高い。

城名 成田氏館 読み なりたしやかた
所在地 埼玉県熊谷市上之中宿 所在地地図
別名   コード 11_06_001_01100
築城年 平安末期 主な城主 成田大夫助高
成田左京亮家時
廃城年 不詳 形態
   
歴史  成田氏は系図に混乱が見られ、「成田氏系図」では藤原鎌足を祖としており、「横山党系図」では横山経兼の弟成任が成田を称したとされている。いずれにせよ戦国末期には北武蔵において天下の名城忍城を拠点に、その家名を知れ渡らせる事ができた名族である。
 「成田氏系図」によれば一条天皇の在位中(1016〜1036)に、藤原忠基が武蔵守に任じられ武州崎西郡に住んだのが初代とされ、五代目である助高が成田の地に住み初めて成田を姓とした。この助高の子供たちである成田太郎助広・別府次郎行隆・奈良三郎高長・玉井四郎助実を「武蔵(成田)の四家と言われた。
 十二代目の左京亮家時は歴代の成田氏の中で名将であり、応永二十三年(1416)の相模川合戦においては一族を率いて奮戦し、足利持氏より賞を賜る名誉を受けた。
 十五代下総守親泰の代、延徳元年(1489)に忍大丞の館を襲撃し、これを奪い取って湿地を利用した堅城へと改築していった(忍城)。館はこの頃より忍城へ移住し、廃された可能性がある。
遺構  現在、館跡を示す碑はあるものの、その当時の遺構は見受けられない。恐らく本格的な遺構が作られる前に忍城に移住したのであろう。
 なお、現在の大字の「上之」地区は元々成田村と言ったが、中世に忍城成田氏が領主となると村名で殿様の姓である「成田」を使う事をはばかり、上之村と下之村と分かれ江戸期には上之村に統合されたとの事である。

城名 西別府館 読み にしべっぷやかた
所在地 埼玉県熊谷市西別府字天神 所在地地図
別名   コード 11_06_001_01200
築城年 平安末期 主な城主 別府次郎行助
別府甲斐権守重光
廃城年 不詳 形態
   
歴史  『成田氏系図』によると、成田氏から出た別府次郎行隆の次男、次郎行助が西別府氏の祖となっている。
 五代後の甲斐権守重光は正和三年(1314)に別府村東光寺の修理を幕府から命じられており、その子甲斐守頼重は安楽寺の開基をなしている。『新編武蔵風土記稿』には「別府氏の居住の地」と残す。
遺構  宅地がが進む当地であるが、土塁などの遺構が点々と残る。

城名 箱田氏館 読み はこだしやかた
所在地 埼玉県熊谷市中西三丁目
(旧上之字中西)
所在地地図
別名 中屋敷 コード 11_06_001_01300
築城年 平安末期 主な城主 箱田三郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史  箱田氏はその出自は諸説が多数あり、成田成任の弟、三郎が箱田に住み始まった説(武蔵武士)、成田太郎助広の子助能が箱田右馬允を称した説(成田氏系図)、私市党の私市茂直の子孫である説(肥塚氏系図)等があり、歴史的経緯はこうした混乱もあって真相は不明である。
 源平合戦時、箱田小太郎広貞は壇ノ浦合戦にて手柄を立て根拠地を下津(山口県山陽小野田市)の長光寺(現在は洞玄寺)に移し、この地から去った。後に弘貞の代である応永年間(1394〜1427)に守護大名大内氏の内乱にあい、杉重綱に攻められて長光寺の裏山にて戦死したという。その後箱田氏の記録は残されていない。
遺構  その館跡と思われる場所は、かっては中屋敷と呼ばれた地域で東に堀があり、その内側に土塁があったという。今では宅地となっており遺構は見られなくなったものの、その庭には記念碑があるという。
 また、『熊谷地名と旧跡』においては大字箱田字三郎(現在の箱田四丁目付近)を箱田氏が住んでいたゆえ地名が付いたとも解釈している。

城名 兵部裏屋敷 読み ひょうぶうらやしき
所在地 埼玉県熊谷市石原
字羽黒
所在地地図
別名   コード 11_06_001_01400
築城年 鎌倉期 主な城主 楊井憲春
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
謎の残る兵部裏屋敷
 久下直光の兄、楊井(やぎい)憲春の居館跡と伝わるが、その所在地をここに求めるには場所が大きく異なるように思われる。この地を楊井氏の館跡とみなすと思われる要因として『大日本地名辞典』にある「楊井郷は旧熊谷町と大麻生村に跨る地域を指す」という所であろうか。むしろ後年(江戸期頃)に某兵部なる者の屋敷があったと見た方が自然に思える場所である。
遺構  現在、遺構は特に見られない、宅地化された当地にはそれを偲ぶように水路が流れるのみである。

城名 別府城 読み べっぷじょう
所在地 埼玉県熊谷市東別府
字北廓
所在地地図
別名 別府氏城 コード 11_06_001_01500
築城年 室町期? 主な城主 別府氏
廃城年 天正年間? 形態
   
歴史
 別府氏は熊谷市の他諸氏と同様に、系図によって祖が異なる。
 「横山党系図」では武蔵七党横山党から出た山口季兼が別府庄を領し、長子の義久が別府太郎を称したのが始まりだという。
 また、「成田氏系図」によれば藤原氏から出た成田助高の次男行隆が別府の地に住み「別府次郎」を名乗ったのが始まりとしている。
 別府氏は以後当地に住んだが、十二代尾張守長清の時、成田長氏と共に天正十八年の戦乱時に豊臣氏に滅ぼされてしまったという。子孫は駿河の駿府(今の静岡市)に移住し、西敬寺の開基となって現在に至っている。
遺構  現在、遺構は東別府神社の境内ほぼ全域である。一時北側の堀が埋められたが後年掘り起こされ、当時に近い形で今もその時の風情を伝えている。また以前は更に北側(現在宅地)にも外堀があったという。

城名 万吉氏館 読み まげちしやかた
 
所在地 埼玉県熊谷市万吉
字曲輪?
所在地地図
別名   コード 11_06_001_01600
築城年 鎌倉期 主な城主 万吉五郎直純
廃城年 不詳 形態
   
歴史
熊谷次郎直実の四子
 万吉氏は源平合戦で名を馳せた「熊谷次郎直実」の四氏で、五郎直純が当地に住むようになってから万吉を姓として用いるようになったという。
 
遺構  

城名 瓶尻氏館 読み みかじりしやかた
所在地 埼玉県熊谷市三ヶ尻黒沢 所在地地図
別名 黒沢屋敷
三ヶ尻城
コード 11_06_001_01700
築城年 鎌倉期 主な城主 瓶尻太郎
黒沢武蔵守貞時
布施田山城守長章
廃城年 不詳 形態
   
歴史
今はなき黒沢屋敷
 当地は瓶尻郷といい、吾妻鏡に瓶尻小次郎らの名前を載せる。猪俣党より出たとされる瓶尻十郎胤光という人物もいる事から、同族である可能性が考えられる。
 また、当地に住したとされる黒沢氏とは、「訪チョウ※チョウは(長瓦)が一文字」に記載があり、「北條相模守入道高時の一族久留澤武蔵守平貞時と云るもの、居城の地」とある。
 文明年間の長尾景春の乱においては、太田入道道灌がこの地に陣取りしたと伝わる。 そして戦国期になると布施田半次郎広映の子山城守長章が成田肥前守の娘婿となってこの地に城を築いたと『日本城郭全集』では書かれている。
 
遺構  田畑になりながらも僅かに地形が高くなっている。遺構が在りし時の図は「訪チョウ録」に渡辺崋山の絵画が収録されており、単郭の館跡であった事を物語っている。
 発掘調査報告書が昭和六十年に公開されており、それよると館跡は台形状の形状をしており、東方にむかって広がった形をしていたようである。東側に小口を持ち、南側に折がついていた事が分かっている。なお、この折のついた堀は今では水路となって道端に流れている。
 また、遺構の東部を囲むように流れる「ふるぼり」が流れていて、これも館跡の一部ではないかと指摘している。

城名 光屋敷 読み みつやしき
所在地 埼玉県熊谷市上中条光屋敷 所在地地図
別名   コード 11_06_001_01700
築城年 平安末期 主な城主 藤原(中条)常光?
廃城年 不詳 形態
   
歴史  元々「常光屋敷」であった所がいつしか名称が短くなったという。それ以外の経緯などは一切不明で、伝承により藤原常光が住んだ屋敷と伝わったのみである。
 1989年公開された「光屋敷遺跡 発掘調査報告書」によれば、常光の代の遺物は発見されず、中条氏に関わりの強い室町期の館跡なのではないかと結んでいる。
遺構  遺構は特に無く、今も自然堤防上の地形が残るのみである。

城名 村岡氏館 読み むらおかしやかた
所在地 埼玉県熊谷市村岡 所在地地図
別名   コード 11_06_001_01900
築城年 平安末期 主な城主 村岡五郎良文
村岡次郎忠頼
廃城年 不詳 形態
   
歴史
桓武平氏の誕生
 村岡(平)良文は桓武平氏の一族であり、武蔵・相模を拠点とするの桓武平氏の祖となる人物である。埼玉県の中世城館を研究するにあたり良文の子孫たちが多く関わっており、その存在感は非常に大きい。
 桓武天皇の第一皇子である葛原親王は天長七年(870)に弾正尹を兼ねて親王任国である常陸国の太守となり、関東と深い関わりを持つようになる。本格的に関東に移住するのは葛原親王の孫である高望の時で、平朝臣の姓を賜って常陸大掾に就任後、寛平元年(889)に上総介として関東に移り住んだとされる。桓武平氏とはこの高望の子孫たちの事を言う。
 この高望の子は十人以上の子が居たとされ、子達は自ら各国の守や介・掾などの高級官吏に就任しながら土豪の娘を妻として、各地に勢力を伸ばしていった。
 良望(のちの国香)が常陸大掾となり、常陸・伊豆・伊勢・出羽・越後に進出して子孫には天皇の外戚となって威勢を振るった平清盛がいる。良将は鎮守府将軍として上総・下総の両国に進出して、その子には関東で乱を起した将門がいる。良兼は下総介として武蔵・安房へ。そして当館に住したという伝承がある良文の子孫は武蔵・相模の両国に進出していったという。
 
平良文という武士
 平良文は仁和二年(886)生まれといい、平高望の子の一人として生まれるが不明な所が多い。最初上野国群馬郡の国府に住み、その後武蔵国・相模国と居住地を移してきたという。その領地は武蔵国から相模国に至る広大なでもので、我々の抱く一ヶ所に住む「居館」という概念は良文にはなかったのかも知れない。
 延長元年(923)には勅命により各地で転戦し、天慶二年(939)には甥の将門が朝廷に謀反を企てた時にこれを討ち、その遺領を拝領した。さらに下総・上総・常陸の介に任じられ、これが元となって千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八平氏が各地で繁栄していく。
 天暦六年(952)


 関東八平氏の祖の一人でもあり、荒川の水利を利用して村岡に荘園を開き関東八平氏の基礎を築いた。
 
武芸を競う武蔵武士たち
 『今昔物語』には隣村箕田(今の鴻巣市)の箕田源氏である源宛(みつる)と全面衝突する所を一騎打ちにて競いあって、決着が着かず、お互いの力を認め互いに和睦をした話が残っている。多くの血が流れる事無く和睦に持っていた良文の外交手腕が伺われる場面である。
 
良文の子孫たち
 良文の子である次郎忠頼は父の拓いた村岡に住み、天慶の乱(939)の時、平将門討伐に貢献をし、武蔵押領使兼陸奥守に任じられた。こうした武勇があり、子孫には関東に大きく影響を及ぼした武士を多く輩出している。
 当埼玉県で影響を与えた子孫として秩父氏がおり、一族は代々「武蔵国留守所総検校職(常時不在の武蔵太守に代わり政務を代行統理する高級官吏に当たり、武蔵介に相当する地位)」に就いていた。子孫畠山重忠がおり、源平合戦において多くの功績を立てた。また、千葉氏からは武蔵七党の野与党・村山党を出しており、埼玉県南東部の各地に所領を得て活躍した。
 
遺構  良文の住んだ「村岡」にはニ説あり、鎌倉の村岡と当地村岡とある。どちらも良文の領地であり、近年の研究により良文は鎌倉の村岡に住んでいたのではないかという説が強くなっている。当村岡につよく影響してくるのは良文の子忠頼であるが、時代がかなり古い為に遺構の所在地を求めるのは難しいと考えられる。

城名 楊井氏館 読み やぎいしやかた
所在地 埼玉県熊谷市楊井
字堀の内
所在地地図
別名   コード 11_06_001_02000
築城年 平安末期 主な城主 楊井憲春?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 楊井氏は私市党出身であるといい、久下則氏の長子憲春が楊井領を領して楊井氏を称したという。楊井の地は『大日本地名辞典』においては旧熊谷町と大麻生村に跨る地域を指すとしており、当時はその北西を荒川が流れて幡羅郡との境界をなしていたとされている。しかし、現在残されている大字楊井は旧熊谷市でも南は東松山市・滑川町に隣接する地域であり、荒川の配置は同じだが、その位置は大きく南にずれている。
 『東鑑(吾妻鑑)』巻二十一に建暦三年(1212)五月二日と三日に行われた合戦の戦死者の中に屋き井次郎、屋き井七郎らの名を見る事ができる。
遺構  遺構は特に無く、今も自然堤防上の地形が残るのみである。

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<<参考文献>>
熊谷市史 前篇 熊谷市 (1980)
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
中世の熊谷の武士たち 熊谷市立図書館 (1998)
新編 熊谷の歴史 熊谷市立図書館 (2008)
熊谷地名と旧跡 熊谷市立図書館
ふるさと 玉井の歴史 玉井地区自治会連合会 (2008)
川越市史 第二巻 中世編 川越市 (1985)


城名 原島氏館 読み はらじましやかた
所在地 埼玉県熊谷市原島 所在地地図
別名   コード 11_06_001_10100
築城年 室町期? 主な城主 原島丹次郎友一
原島丹三郎友連
廃城年 不詳 形態
   
歴史  原島氏は熊谷次郎直実の末流を名乗っており、また「丹」の名から読めるように武蔵七党丹党の出身でもある。
 丹次郎・丹三郎兄弟は当地原島村の出身で、兄弟で小田原後北条氏に仕えたとされる。丹三郎友連は文明八年(1476)に生まれで、東京都西多摩郡奥多摩町の開発に努め、自らの名を付けて「丹三郎村」としている。
 子の弥次郎友乗も北条氏に仕えるが没落し、丹三郎村に土着して開拓に努めたという。
遺構  現在の原島地区は宅地化が進み、遺構はおろかその所在地すらも掴みにくくなっている。一部水路が流れる所があり、その辺りが昔の趣を感じさせる程度しかない。

城名 平戸氏館 読み ひらどしやかた
所在地 埼玉県熊谷市平戸? 所在地地図
別名   コード 11_06_001_10200
築城年 平安末期 主な城主 平戸太郎兵衛
廃城年 不詳 形態
   
歴史  成田氏系図に成田太郎助広の子に九郎という者がおり、後に当地に住み平戸太郎兵衛を名乗ったという。更にその子孫には川原氏・野沢氏などがいる。
遺構  平戸の地名は現在もあるが、ここに平戸氏が居住していたかは不明。江戸期には屋敷が設けられ、北側に馬場があったという記録が『藤井家所蔵目録(立正大古文書研究会編)』より残る。

城名 秋葉氏館 読み あきばしやかた  
所在地 埼玉県熊谷市上之字秋葉 所在地地図
別名   コード 11_06_001_10300
築城年 平安末期 主な城主 秋葉七郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史  『平家物語』に出た秋葉七郎の屋敷があったとも伝えられる。