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神川町(かみかわまち)
 埼玉県北西部に位置する町で、鎌倉街道上道の主要道が町内を通っていた。南西部は山地であるが、その大部分は神流川が作り出した平野が広がっている。
 町内は安保氏が本貫地とし、室町期になると御嶽山に長井氏が山城を築くなどしていた。隣の上里町と同じく丹党ゆかりの館跡が町内に多い。また室町戦国期に入っても武蔵国と上野国を結ぶ街道筋として重要な地であり、御嶽城は小田原北条氏と甲斐武田氏による争奪戦にまで至った。
 神流川向こうの群馬県藤岡市との地域的な密接も多く、藤岡市側の歴史と併せて今後も考慮していく必要がある。
 
当ページ収録城館跡一覧 早見表
安保氏館 池田館 御嶽城 岡部屋敷
中新里城 阿保境館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 安保氏館 読み あぼしやかた
所在地 埼玉県児玉郡神川町
元安保字上宿
所在地地図
別名   コード 11_05_005_00100
築城年 鎌倉期 主な城主 安保次郎実光
廃城年 戦国末期? 形態
   
歴史
丹党安保氏
安保氏は武蔵七党丹党の出身で、秩父基房の子新里丹三大夫恒房が新里、安保の地を領し、その子次郎実光が安保を家名としたのが始まりとされる。

実光はの館跡で、当初は居住地程度であったのが次第に規模を拡大し、鎌倉街道が後世に湾曲している事から、中世期に規模拡大をなされたと思われる。
遺構
集落内にはいたる所に水堀が引かれ、その形状も折が見られる事から、戦国期の館跡の様相をみせている。

城名 池田館 読み いけだやかた
 
所在地 埼玉県児玉町神川町
池田字池田口
所在地地図
別名 卜部屋敷
池田城
コード 11_05_005_00200
築城年 室町期 主な城主 卜部修理
松本左京大夫
廃城年 不詳 形態 館?
   
歴史
御嶽城の出城
金鑽御嶽城主長井実永の家臣である卜部修理が、御嶽城の支城として築いたと「児玉郡誌」にある。
後に甲斐武田氏家臣の松本左京大夫がこの地に至り、開拓したという。
遺構 守神神社の北には堀や土塁がいくつか残る。守神神社解説板に松本氏に関する記述が書かれており、現在も子孫の方がお住まいである。

城名 御嶽城 読み みたけじょう
所在地 埼玉県児玉郡神川町
渡瀬御嶽山
所在地地図
別名 金鑽御嶽城 コード 11_05_005_00300
築城年 南北朝期 主な城主 長井斎藤別当実永
長井豊前守政実
廃城年 戦国末期 形態 山城
   
歴史
御嶽城と長井氏
築城は斎藤別当実盛の後裔、長井実永であるという。
延元二年(1337)、北畠顕家が上洛するべく利根川を渡河する際に足利方との合戦になり、実永兄弟が参戦したものの兄弟揃って戦死したと伝えられており、主が消えた御嶽城はしばらく歴史上から姿を消す。
御嶽城再建
文明十二年(1480)に阿保吉兼が放置されていた御嶽城を再建したという。各地で戦乱が相次ぎ、平野部はもちろん国境沿いの信州路や甘楽方面への眺望の良さが再利用されたきっかけとなっている。
後に天文三年(1534)には安保弾正金隆が金鑽神社に多宝塔を寄進しているので、少なくてもこの頃までは安保氏が御嶽城を支配していたようである。
御嶽城のその後
戦国期に入ると斎藤実盛の末裔を称する長井豊前守政真が城主となっており、金鑽村薬師堂に対して永禄十三年(1570)付けの寄進状を残している。
この政真死後は子である右衛門尉信実が城主になるも小田原北条氏に抵抗し、城を追われて越後の上杉景勝を頼っている。北条氏が支配していた時期の事は詳しい資料がないので不明である。
天正十八年(1590)の小田原の役の際、北陸勢として先鋒の功績を挙げた信実が再び御嶽城主となった。信実は晩年は右馬允に任じられ上州三ツ山城も支配下に置いた。しかし、妻子を江戸に送らなかった罪により播磨国(兵庫県)へ流され御嶽城は廃城となり、信実は配所にて慶長十九年(1614)に死去した。
遺構
金鑽神社の御神体である御嶽山が城域で、山頂を中心に尾根全てに堀切や曲輪を配置している。
主郭の西側に居住空間とも取れる広い削平地形が見られ、作り方が日尾城や机の城に類似する事から小田原北条氏による改修もうけていると考えられる。

城名 岡部屋敷 読み おかべやしき
所在地 埼玉県児玉郡神川町
新里字西前畑
所在地地図
別名   コード 11_05_005_00400
築城年 平安末期 主な城主 岡部六弥太忠澄?
新里三郎光明?
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
岡部氏屋敷の一つ
伝承として猪俣党の岡部六弥太忠澄が陣屋であったと伝わる。
丹党新里氏
しかし、地名が新里である事や西北の光明寺寺伝などから、丹党の新里三郎光明の館跡である可能性も考えられる。
新里氏は武蔵七党丹党出身で、秩父黒丹五郎基房の子である丹三郎大夫綱房が新里安保の領地を有して新里・安保を家名とした事から始まる。直接この地に関わりを持ってくるのは光明の代で、系譜には見られないが綱房の子孫である事が考えられる。
遺構 屋敷の北東隅は宅地になっているものの、一部に土塁が残る。

城名 中新里城 読み なかにいさとじょう
所在地 埼玉県児玉郡神川町
中新里字北城・南城・東城
所在地地図
別名   コード 11_05_005_00500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 陣城?
   
歴史
広大な面積を誇っていた土塁
東西約三〇〇m、南北約二四〇mにも及ぶ広大な敷地を持つ。
歴史的経緯は不明であるが、「神川町誌」は戦国期に安保氏館を援護する為に、用土新左衛門がこの地を「中城」と呼び守備した可能性を指摘している。
用土新左衛門が守備するのみにしては、城の規模が大きい。これから予想されるのは小田原北条氏は街道筋に巨大な駐屯地を作り、周囲の武士達の集合場所として活用していたので、ここもその一つだったのではと考えている。
遺構 中新里地域の東城神社より西側が城域であったといい、明治時代の『迅速測図』にもその土塁が描かれていた。
現在は土地改良によりその殆どを見る事ができない。『神川町史』には地籍図から土塁の所在地を示している。

城名 阿保境館 読み あぼさかいやかた
所在地 埼玉県児玉郡神川町
大御堂字阿保境
所在地地図
別名 p樹(さいかき)原
檜下遺跡
安保郷屋敷?
コード 11_05_005_00600
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
経歴不明の謎の遺構
土地開発がなされるまでまったく知られていなかった館跡で、開発前の地図には掘割と思われる名残がある。発掘調査がなされ、そこから出た遺物には十三世紀中ごろから十六世紀初頭までの物が多かったという。
安保氏ゆかりの館跡である可能性もある。
遺構 現地は工場敷地となってしまい、その姿を見ることができない。

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<<主要参考文献>>
神川町誌 神川町 (1989)
神川町遺跡調査会発掘報告第5集
「安保氏館跡」
神川町遺跡調査会 (1995)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)