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上里町(かみさとまち)
 埼玉県北西部に位置し、神流川や烏川を越えると群馬県に至る。
現在も国道17号線(旧中仙道)やJR高崎線、関越自動車道が町内を走り通行の盛んな町である。

 中世においては神流川がもたらす氾濫原により農業が盛んで、安保氏を始めとした丹党の武士が多く居住していた。戦国期になると上州との境目という事もあってその関係は深くなり、戦国末期には神流川合戦が行われるなど、他の地区にもれなく戦乱に晒された地区でもあった。
 
当ページ収録城館跡一覧 早見表
阿保境館 金井氏館 金窪城 吉祥院館
志水氏館 石蔵寺館 堤堀ノ内 勅使河原氏館
長浜氏館 南城
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 阿保境館 読み あぼさかいやかた
所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂
阿保境
所在地地図
別名   コード 11_05_003_00100
築城年 不詳 主な城主 不詳 
廃城年 不詳 形態  
   
歴史
 縄文期〜近世までの複合遺跡で、発掘調査の結果発見された館。居住者などの詳細についてはまだ分かっていない。
遺構  中世においては三期に渡り改築されたとしている。現在では工場敷地内にて遺構は見れないが、外周の一辺が163mを測る薬研堀や建造物の跡、それに終始使われたとされる井戸跡がみつかっている。

城名 金井氏館 読み かないしやかた 
所在地 埼玉県児玉郡上里町七本木
字本郷
所在地地図
別名   コード 11_05_003_00200
築城年 室町期 主な城主 金井三郎政経
斉藤定盛?
廃城年 不詳 形態 館?
   
歴史
 金井氏は『武蔵國兒玉郡誌』によれば新田義重の後裔であるといい、新田蔵人の子三郎長義が金井を称したのが始まりだという。淡路守頼義になると新田庄由良郷(群馬県旧新田郡新田町金井)に住み、以後経政・政時を経て三郎政経と続く。
 政経は筑前守を称して、金窪城主斉藤摂津守定盛の娘を娶りこの地に館を構えたのだという。
 以後江戸期に至ってもこの地に住んでいたといい、金井三郎衛門義澄には名主役を勤めて万治元年(1658)に岡上次郎兵衛景能が縄入(田畑の測量)をする際に土地の案内をして水帳を管理したという。
遺構  七本木神社と金井家を含んだ地域が館跡と伝え、僅かながら堀に見える溝と神社の土の高まりがそれらしさを伝えている。

城名 金窪城 読み かなくぼじょう
所在地 埼玉県児玉郡上里町金久保
内出
所在地地図
別名 太揶城
金久保城
コード 11_05_003_00300
築城年 治承年間
(1177〜1180)
主な城主 斉藤摂津守定盛
廃城年 元禄一一年
(1698)
形態  
   
歴史
 治承年間(1177〜1180)に加治家季が築き、元弘年間(1331〜1333)には新田義貞四天王の一人畑六郎左衛門時能が鎮守したという。
 後に大永年間(1521〜1527)には斉藤別当実盛子孫の盛光が城主となり四代ここに居住したが、天正十年(1582)の神流川の合戦にて落城。同十九年(1591)に甲斐より川窪信俊が来往し、三代目の時代の元禄十一年(1698)に廃城したという。(以上現地碑文より)
遺構  北面に堀の名残が残り、集落内も折のある道が残っている。

城名 吉祥院館 読み きっしょういんやかた
所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂
字大門北
所在地地図
別名   コード 11_05_003_00400
築城年 大同元年
(806)
主な城主 不詳
廃城年 不詳  形態
   
歴史
 伝承に伝わる安保氏の菩提寺。大同元年(809)に安保上人により開基され、のちの治承四年(1180)に安保刑部丞実光が再興した。付近の度々の戦火により伽藍が数回焼失してしまったりする。
遺構 周囲には所々に土塁があり、板碑や宝篋印塔が数多く発見されたという。

城名 志水氏館 読み しみずしやかた
所在地 埼玉県児玉郡上里町神保原町
字樋越
所在地地図
別名 しみず屋敷 コード 11_05_003_00500
築城年 鎌倉期 主な城主  
廃城年 不詳  形態  
   
歴史
 志水氏は丹党出身の武士で、小島重光の弟三郎光俊が志水氏を名乗った事により始まるという。今までその居館について謎が多かったが、小島氏の館跡に近いこの地に「しみず屋敷」なる地名が残ると言う。
遺構  現在水田になっており、その所在地について今も謎が残る。

城名 石蔵寺館 読み せきぞうじやかた
所在地 児玉郡上里町堤字石倉 所在地地図
別名   コード 11_05_003_00600
築城年 不詳  主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館 
   
歴史
石蔵寺に残る館跡であるが、その詳細についてはいまだ分かっていない。
遺構 石蔵寺が館跡と思われ遺構が残り、北側には御陣場川が流れている。その内側には土塁と思われる土の高まりが存在している。

城名 堤堀の内 読み つつみほりのうち
所在地 児玉郡上里町堤字堀の内 所在地地図
別名   コード 11_05_003_00700
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
遺構 石蔵寺付近に地名のみを残している。遺構の所在などは一切不明だが、付近には水路が流れる。

城名 勅使河原氏館 読み てしがわらしやかた
所在地 児玉郡上里町
勅使河原元屋敷
所在地地図
別名 勝場館
中原館
コード 11_05_003_00800
築城年 鎌倉期 主な城主  
廃城年 不詳  形態  
   
歴史
 丹党の勅使河原氏の菩提寺である大光寺付近にあったとされる館跡。勅使河原氏は秩父武峯の三男元房の子直房が勅使河原氏を称している。
遺構  明確な遺構は見当たらず、僅かに土の高まりがあった程度であったという。大光寺境内にその土塁があるというが当方は未確認である。

城名 長浜氏館 読み ながはましやかた
所在地 埼玉県児玉郡上里町長浜
字城
所在地地図
別名 浮浜城
長浜城
コード 11_05_003_00900
築城年 平安末期 主な城主 長浜三郎信光
笠原掃部
廃城年 天正年間 形態
   
歴史
 長浜氏は丹党の武士で、安保実光の弟三郎信光が当地に住して長浜氏を称したという。神流川沿いの防衛拠点として重視されたようで、天正年間の廃城時には後北条氏家臣笠原掃部が城主になったと伝わる。
遺構  周辺に堀を巡り、水田地との比高差は1m程あった。しかし最近になって破壊されたという。

城名 南城 読み みなみじょう
所在地 児玉郡上里町
金久保字松原
所在地地図
別名   コード 11_05_003_01000
築城年 明応年間
(1492〜1500)
主な城主 大畠長門守昌広
川窪信俊
廃城年 不詳 形態 館跡 
   
歴史
 大畠昌広が満願寺を廃して居館とし、孫の広基・広忠まで住したという。同氏は大永四年(1524)に滅亡した。
 現在の陽雲寺は天文九年(1540)に斉藤左衛門尉盛光が開基となり、後に天文十九年(1591)、武田信玄の甥である川窪信俊が金窪郷の領主となり、養母となった信玄夫人の三条殿(陽雲院)を伴って当地に来て、三条殿は現地にて歿した。
遺構  北面には土塁や堀をよく残し、北東隅を欠けさせ折を作っている。

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<<主要参考文献>>
上里町史 通史編 上巻 上里町教育委員会 (1996)
上里町史 資料編 上里町教育委員会 (1992)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
武蔵國兒玉郡誌 埼玉県郷土史叢刊 (1927)
現地案内板