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本庄市(ほんじょうし)
 埼玉県北西部に位置する都市で、江戸時代には中仙道の宿場町として栄えた。現在でも元の発祥地である児玉町を合併し、新幹線の停車駅「本庄早稲田」駅ができるなど、発展を遂げている。

 中世においては児玉党の嫡流がこの地の栗崎館に居を構え、庄氏を名乗る。市名もこの庄氏が後に本庄氏を名乗ったことから由来している。
 戦国期においても市の東部に五十子陣城が築かれるなど、戦乱の最中に置かれていた様子で、上州と武州の中間として要衝の地であった事は言えるようである。
 
当ページ収録城館跡一覧 早見表
五十子城 今井氏館 大久保遺跡 小島氏館
北堀館 久々宇氏館 栗崎館 庄氏館
滝瀬氏館 滝瀬陣屋 富田氏館 原屋敷
東五十子城 本庄城 南荒居氏館 牧西氏館
四方田氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 五十子城 読み いかつこじょう
現在の五十子城遠景、手前に流れるのは小山川で右の橋は国道17号
所在地 埼玉県本庄市東五十子
字城跡
所在地地図
別名 五十子陣 コード 11_05_001_00100
築城年 長禄元年?
(1457)
主な城主 山内上杉房顕
廃城年 戦国末期? 形態 陣城
   
歴史
関東管領上杉氏の要害
 古河公方足利成氏方との戦いにおいて、関東管領山内上杉氏が築いたとする要害。
 享徳三年(1454)十二月に関東管領上杉憲忠は古河公方足利成氏により殺害され、それ伴い関東は利根川を境に公方足利方と管領上杉方に分かれ、享徳の乱と呼ばれる戦が起きた。当城はこの際に管領上杉氏によって築かれ、『鎌倉大草紙』には長禄元年(1457)には「五十子陣」と見られる事からこの頃には築かれていたものと考えられている。
 五十子城といってもこの陣城の他に東五十子城、東本庄館、六反田遺跡などの砦郡の総称として用いられたものである。
長尾景春の乱
 文明五年(1473)、山内上杉氏の執事職(家宰)である長尾景信が死去し、当主上杉顕定は景信の弟である尾張守忠景を執事職とした。これに不満を持った景信の嫡子景春は、密かに古河公方方と内通して上州白井城に退いた。
 この執事職というのは関東の政治全般に関与して在地領主の領土を安堵し、山内上杉氏家臣同士の訴訟の裁決をするという役割を持っていた。それと同時に長尾一族においても宗家同然の存在感と発言力を持つなど、白井長尾家の勢力を強大なものへと押し上げる主要因であった程の重要職であった。
 景春は自分の私怨のみならず、これからの時代に必要なのは在地領主であると考え、在地領主の為の小地域封建領主化を目指し、それを保護する権力を打ちたてようと各地の在地領主たちに蜂起を促した。当時声名の高かった太田道灌にも主君顕定を亡き者にする協力を得る為、五十子陣城へ向かう途中の寄居町飯塚に居る道灌の元へ景春は馬を飛ばして面会した。道灌は景春の陰謀に驚き、事態を重く見て顕定に「景春を即座に誅すべき」と進言したが、顕定や叔父の忠景は聞き入れなかった。
 その後景春の根回しは多くの在地領主たちを味方に付け、文明八年(1476)六月に景春は武州鉢形城に移った。後に太田道灌が駿河国に出陣している隙を見て蜂起した。そして五十子城の補給路を断ち、五十子陣城を孤立化させた。翌年九年正月に五十子城へ攻撃をしかけ、上杉顕定らを上州那波荘へ敗走させた。後に「長尾景春の乱」と呼ばれる事件である。
 駿河国より江戸に戻った太田道灌は景春に反撃をし、敗れた景春は五十子城を退いた。かくして顕定は同年五月に五十子城へ戻ることができた。
 長尾景春と太田道灌の戦いはこうして始まり、四年後の景春が立て篭もる熊倉城落城に至るまで武蔵国の各地にて抗争を繰り広げる事となった。
遺構  昭和三十一年頃までは土塁があったとされるが、国道17号線の建設や工場跡地となった事により遺構は破壊されたようである。今も小字に「城跡」と城郭関連の地名を残す。

城名 今井氏館 読み いまいしやかた
所在地 埼玉県本庄市今井
字北廓
所在地地図
別名 北廓遺跡 コード 11_05_001_00200
築城年 平安末期 主な城主 今井太郎兵衛行助
鈴木氏
廃城年 不詳  形態
   
歴史
児玉党今井氏の居館
 今井氏は武蔵七党の一つ児玉党出身の武士で、『武蔵武士』によれば蛭河家国の兄、行家の子太郎兵尉行助が今居氏を称した事より始まるという。
 『埼玉県の館城跡』に掲載される「久城田(ぐじょうた)」はこの今井氏の居館として推測しているが、水田地帯になってその場所も分からなくなっている。他の館跡のケースを当てはめるなら、現在も宅地になっている当「北廓遺跡」を今井氏の居館であったとみるのが妥当だと思われる。
鈴木氏の統治時代
 後に鈴木氏が戦国期に入ってから西今井村に居住していたという事から、この頃には今井氏は去り同氏の館跡を改修して住んだという可能性があるという。
 初代は鈴木山城守といい、小田原北条氏に仕えていた。出自は不明だが『本庄市史通史編U』では鈴木氏の家紋が「鳥居に稲穂」である事から紀伊国の熊野神社の神官の流れをくむ一族で、後に今井氏を称するものの、児玉党とは関わりが無いと推測している。
 北条氏滅亡時には鉢形城に属していて、城兵の助命嘆願して開城した主君氏邦を感謝しており、北条氏の家臣であった事を自負していたという。
遺構  現在は閑静な住宅地になっており、今井氏の属する児玉党が信仰した金鑽神社がその名残を伝えているのみであった。
 本庄市の発行している資料によれば金鑽神社の南、元太平食品工業の工場敷地を囲むように堀が巡っていたようである。

城名 大久保遺跡 読み おおくぼいせき 
所在地 埼玉県本庄市栗崎
字大久保山東谷
所在地地図
別名 薊(あざみ)山 コード 11_05_001_00300
築城年 南北朝期? 主な城主 義良親王?
廃城年 不詳 形態 陣城?
   
歴史
南北朝期における合戦の舞台
 現在大久保山と呼ばれる場所は、旧名「薊山」と呼ばれる。水田地帯の多いこの周辺において丘陵部になっており、幾たびか陣城として活用されていた様である。延元二年(南朝暦:1337)に、奥州の官軍(南朝方)が武州薊山にて合戦をし、勝利したとの記録がある。
遺構  現在早稲田大学本庄校舎敷地内になっており、具体的な調査は行っていない。この辺りは平地が多いにも関わらず丘陵になっており、南側には小山(身馴)川が東流し天然の堀としている事からも、たびたび合戦における陣地として利用された可能性も充分考えられる。

城名 小島氏館 読み おじましやかた
所在地 埼玉県本庄市小島
本伝
所在地地図
別名   コード 11_05_001_00400
築城年 平安末期 主な城主 小島四郎重光
廃城年 不詳 形態
   
歴史
丹党小島氏の居館
 小島氏は武蔵七党の一つ丹党出身の武士で、『井戸葉栗系図』によれば秩父(勅使河原)丹五基房の子四郎重光が賀美郡小島村に住した事により始まるという。
 『吾妻鏡』第二十五に宇治合戦にて負傷した小島三郎、同六郎、同七郎らの名が見られ、後に鎌倉幕府が執り行う正月の的始式において、射手として小島弥二郎家範や小島又二郎らの名が見られる。
遺構  長松寺境内に遺構をよく残す。河段丘上にあった事から本庄城の西の守りを固めていた館の可能性もある。

城名 北堀堀の内 読み きたぼりほりのうち
所在地 埼玉県本庄市北堀
字本田堀の内
所在地地図
別名 本田館 コード 11_05_001_00500
築城年   主な城主 本庄四郎左衛門時家
廃城年   形態
   
歴史
 伝承には本庄四郎左衛門時家が北堀丹波守を名乗ったとある。小字本田からとって本田館と呼ばれる事もある。
遺構  当サイトに寄せられた情報によれば、明治期に作られた山岳信仰の山から、東二十メートルほどの所にごく僅かな土塁の残りがあり、西側の堀のごく一部と東側の堀が西半分だけ残っているという。
 また、南側の堀の残りは(1997年頃)に埋められてしまったという。

城名 久々宇氏館 読み くぐうしやかた  
所在地 埼玉県本庄市久々宇  
別名   コード 11_05_001_00600
築城年 戦国期 主な城主 久々宇治部左衛門顕宗
廃城年 不詳 形態
   
歴史
藤姓那波氏の一族
 久々宇氏は上州那波氏から出てた一族で、久々宇に住した事によりその地名を名字としている。那波氏は元々籐姓で佐貫四郎大夫成綱の子季弘が上州那波郡(現在の群馬県伊勢崎市から玉村町に掛けての地域)に居住した事より始まった。
 季弘の孫娘が鎌倉幕府創設における忠臣大江広元の三男政広の元に嫁ぎ、政広が那波氏を継いだ。これ以後那波氏は大江流那波氏として那波郡の地頭職を預かる身になった。政広の子政茂は祖父広元譲りの政治力で建長六年(1254)に幕府の裁判機構を司る「引付衆」の四番方となり、鎌倉幕府で重職をなしていく。
 しかし、建武政府の樹立時には鎌倉幕府方に寄りすぎた為に対応に遅れた様で、那波氏の室町期は岩松氏や由良氏に押されその領地を蝕まれていった。
久々宇氏のその後
 久々宇氏を名乗った顕宗は那波宗俊の子であったが、弘治元年(1555)に父宗俊が新田金山城にて戦死すると那波氏を継ぎ那波駿河守と称した。
 後に小田原北条氏の勢いが上州に及び、天正十五年(1587)に那波駿河守顕宗は人質として久々宇因幡守の甥を厩橋城へ差し出しているが、この久々宇因幡守は那波氏の家臣であるという以外は関係が不明である。
遺構  付近は利根川や烏川の氾濫原で詳しい場所は分からないが、「ほりの内」や「久保屋敷」という地名が残るという。

城名 栗崎館 読み くりさきやかた
所在地 埼玉県本庄市
栗崎堀の内
所在地地図
別名   コード 11_05_001_00700
築城年 鎌倉期? 主な城主 庄氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
児玉党宗家の居館と伝わる
 児玉党本宗家である庄氏の館跡と言われる。武蔵七党の一つ児玉党の祖は、遠峯伊行とも有道遠峰とも言われている。
 内大臣藤原伊周に仕えて後に武蔵介として武蔵国に赴任したと言われる。治暦から延久の間頃(1065〜1073)に朝廷の御牧であった「阿久原の牧」の管理を任され、そのまま武蔵に土着したと言う。
 伊行の子弘行は「児玉有大夫」と称し、奥州後三年の役において八幡太郎義家の副大将として活躍していたという言い伝えもあり、児玉党が有力武士として活躍していた事を伺わせる。
庄から本庄へ
 弘行の孫である家弘の頃になると「庄」もしくは「荘」と改め、当栗崎館に移住してきたものと考えられている。時代が下るにつれ庄氏も多くなってきた事もあって家弘の孫にあたる庄太郎家長の子達は「本家の庄」という意味の本庄を名乗るようになっていった。これが当本庄市の名前の由来になっている。
遺構  現在も民家の敷地に土塁が残り、周辺も水路が流れている。

城名 庄小太郎頼家館 読み しょうこたろうよりいえやかた
所在地 埼玉県本庄市
北堀東本庄
所在地地図
別名 東本庄館 コード 11_05_001_00800
築城年 室町期? 主な城主 庄小太郎頼家?
廃城年 戦国期? 形態
   
歴史
昔は庄氏の館で時には砦に
 庄頼家の住んだ館跡と伝承があるが定かではない。
 室町期においては東にある五十子陣城の守りを固める砦の一つとして活躍したと言い、五十子陣の最深部に位置して身馴川を遡って五十子陣を攻められぬ様に
遺構  現地には稲荷神社が建っており、この辺りが館跡であったと言われている。地形として南に小山(身馴)川と男堀の合流地点にあり、丁度両川に挟まれた位置にある。

城名 滝瀬氏館 読み たきせしやかた
所在地 埼玉県本庄市
滝瀬
所在地地図
別名   コード 11_05_001_00900
築城年 鎌倉期 主な城主 滝瀬三郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
出自が二説ある滝瀬氏
 滝瀬氏の出身は猪俣党説と丹党説の二つがある。猪俣党説は横瀬氏からの出身で、横瀬重政の三子季重が榛沢郡滝瀬に住した事から始まったという。
 また丹党説によれば安保六郎光重の子光直が滝瀬郷に住んだ事により滝瀬五郎左衛門尉と名乗ったのが始まりという。両党共に『吾妻鑑』にみられる滝瀬三郎の祖であるという。
遺構  ほぼ宅地化等にされているが、一部に名残を残す地形がある。

城名 滝瀬陣屋 読み たきせじんや
所在地 埼玉県本庄市
滝瀬伊丹堂
所在地地図
別名 陣屋 コード 11_05_001_01000
築城年 戦国期? 主な城主 秋元越中守朝長
廃城年 不詳 形態 陣屋 
   
歴史
秋元氏の居住せし陣屋
 当地は深谷上杉氏に天文十年(1541)頃仕えた秋元氏ゆかりの陣屋であるという。秋元越中守景朝はその時秋元氏館のある上野台村とこの滝瀬村を領したという。
 景朝の子である越中守朝長は、天正十五年(1587)に父の遺領を継いだ。天正十八年(1590)に小田原の戦役が勃発し、豊臣方の大軍が深谷城に迫ってくると深谷城の留守を預かっていた朝長は多くの命が救われる道を選び深谷城を開城した。
 戦後、関東を領する事となった徳川家康の旗本として仕え、本領も安堵された。朝長は関ヶ原の合戦にも参戦し、上州惣社六千石をの知行を得て当地を去っている。本陣屋はその頃まで使われていた物と思われる。
遺構  滝瀬交差点付近にあったとされるが、集落の一部になってしまっており、遺構を見つける事ができなかった。

城名 富田氏館 読み とみたしやかた
所在地 埼玉県本庄市
西冨田
所在地地図
別名 代官屋敷 コード 11_05_001_01100
築城年 鎌倉期 主な城主 富田三郎親家
廃城年   形態
   
歴史
児玉党富田氏の居館
 富田氏は武蔵七党の一つ児玉党出身の武士で、庄家行の子三郎親家が富田を領土として受け富田氏を名乗った事より始まる。
 親家は怪力の持ち主であったようで、鼎を持ち上げ石をも砕く力を持っていたという。『吾妻鏡』によれば建保元年(1213)に和田義盛に与して捕らえられ、その怪力を一目見たいと将軍実朝の前に連れ出された。御所にあった奥州から取り寄せた鹿の大角二つを、親家は一度でへし折ってその場に居た人々を感嘆させた。この怪力を惜しんだ実朝は、親家の罪を許し召抱える事にしたという。親家の末子である六郎兵衛長家は、承久の乱の折宇治川の合戦にて戦死したという。
 なお代官屋敷とは後北条氏の時に鈴木氏が代官として居住した事に由来する。
遺構  鬱蒼と茂った茂みの中に堀があるといわれているが、現時点では未確認である。 

城名 原屋敷 読み はらやしき  
所在地 埼玉県本庄市
今井原屋敷
所在地地図 
別名   コード 11_05_001_01200
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
居住者不明の謎の屋敷
 地名のみが残る。古くには屋敷がそこにあったというが、誰がそこに住んでいたのかまでは伝わっていない。
遺構  

城名 東五十子城 読み ひがしいかつこじょう 
 
所在地 埼玉県本庄市
東五十子
所在地地図
別名   コード 11_05_001_01300
築城年 室町期 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館?
   
歴史
五十子陣城の砦の一つ
 五十子に陣城が置かれていた時の城下町があったと伝わる。享徳の乱による関東管領上杉房顕と古河公方足利成氏との争いは、西の上杉氏に五十子付近にいくつかの砦を作らせる事となり、東の公方方を河より渡河させない様に築かれた城の一つであった。
遺構  当時はこちらが交通の要であったという説もある。現在は宅地になっており、砦があった名残は失われてしまっている。

城名 本庄城 読み ほんじょうじょう
所在地 埼玉県本庄市
台町城山
所在地地図
別名   コード 11_05_001_01400
築城年 弘治二年
(1556)
主な城主 本庄宮内少輔実忠
小笠原掃部大夫親嶺 
廃城年 慶長十七年
(1612)
形態 平城 
   
歴史
児玉党宗家本庄氏の居城
 本庄城は本庄実忠が弘治二年(1556)に築いたという。それ以前この辺りは原野で民家もまばらであったという。それまでは栗崎館に居住していたというが、それまで大きな影響力をもっていた関東管領上杉憲政が後北条氏に追われ、本庄氏も周辺の在地土豪同様後北条氏に属する事となり、この本庄城を築く事になった。
 
遺構  本庄城は現在の場所より東側に位置し、徳川家康関東入国時に小笠原氏が現在の場所に移築したと言われる。

城名 南荒居氏館 読み みなみあらいしやかた  
所在地 埼玉県本庄市新井
字御陣場?
所在地地図 
別名   コード 11_05_001_01500
築城年 不詳 主な城主 南荒居四郎重直
廃城年 不詳 形態
   
歴史
丹党南荒居氏の居館
 南荒居氏は武蔵七党の一つ丹党から出た一族で、勅使河原有直の弟重直が南荒居を称したことから始まる。その比定地は榛沢郡新居郷であると言われる。
遺構  

城名 牧西館 読み もくさいやかた
所在地 埼玉県本庄市
牧西字東裏堀の内
所在地地図
別名 牧西堀の内
大明神城
コード 11_05_001_01600
築城年   主な城主 牧西四郎弘季
牧西左近四郎経季
廃城年   形態
   
歴史
児玉党牧西氏の居館
 庄權守弘高の子四郎弘季が当地に住み牧西氏を名乗ったという。また庄二郎弘定の孫左近四郎経季も牧西氏を名乗った。
遺構  

城名 四方田氏館 読み よもだしやかた
(しほうでん)
所在地 埼玉県本庄市
四方田堀の内
所在地地図
別名   コード 11_05_001_01700
築城年 平安末期 主な城主 庄權守弘高
四方田左衛門資綱
廃城年 不詳 形態
   
歴史
児玉党四方田氏の居館
 四方田氏は武蔵七党児玉党庄氏からの出で、庄太郎家長の弟弘長が児玉郡四方田に住した事により四方田三郎と名乗ったのが始まりとされる。読みである「よもだ」は漢字が同じでも「しほうでん」と読む事があり、また弘長の弟弘季・高綱も四方田氏を名乗っている。
 弘長は源頼朝に仕えた。
 室町後期頃になると四方田七郎高綱の後裔七郎村重が住んでいたようであるが、途中から本家本庄氏より弾正重忠が、四方田(しほうでん)村を後北条氏より与えられ、四方田(しほうでん)氏を名乗ったようである。
遺構  四方田地区の光明寺から東には今も四方田氏の館跡と言われる堀跡が残り、当時の面影を市内でもよく残している。
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<<主要参考文献>>
本庄市史 通史編T 本庄市 (1986)
本庄市史 通史編U 本庄市 (1989)
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
伊勢崎市史 通史編1
        原始 古代 中世
伊勢崎市 (1987)
長尾景春と熊倉城 荒川村郷土研究会 (1982)