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長瀞町(ながとろまち)
 埼玉県秩父郡にある町で、町の中央を荒川が流れ岩畳をなしており、風光明媚な地として観光が盛んな町である。以前は野上町と言い、昭和47年に現在の「長瀞町」に改称したという経緯がある。

 中世においては丹党白鳥氏系の本貫地であったが、室町期頃になると東から猪俣党藤田氏が侵攻してきたようで、その藤田氏により当町で最も大きな天神山城が築かれるに至った。荒川沿いの街道筋という事もあり、天神山城を筆頭とした多くの中世城館跡が町に点在している。
 また、日本で一番大きい板碑である「野上下郷の板石塔婆」が仲山城の付近にある。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
井戸氏館 岩田氏館 桐原氏館 白鳥氏館
田城 天神山城 仲山城 野上氏館
藤矢淵氏館 矢那瀬館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 井戸氏館 読み いどしやかた  
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
井戸字梅ヶ井?
 
別名   コード 11_04_004_00100
築城年 不詳 主な城主 井戸五郎直家
廃城年 不詳 形態
   
備考  井戸氏は丹党出身の武士で、岩田政広の弟政成が井戸・山田を領した事より始まる。この政成の長子直家は井戸五郎と名乗っている。

 『埼玉県史』によると井戸氏の居館は大字井戸字梅ヶ井という井戸が中心かとしているが、その真相は不明である。

城名 岩田氏館 読み いわたしやかた
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
岩田
所在地地図
別名   コード 11_04_004_00200
築城年 平安末期 主な城主 白鳥七郎行房
岩田七郎政広
廃城年 不詳 形態
   
備考  岩田氏は丹党の出で、丹武平の子行房が最初白鳥七郎を称したのが始まりである。その後七郎二郎基政と続き、この基政の子政光・政広兄弟が初めて岩田氏を称した。特に弟岩田七郎政広は『吾妻鏡』に承久三年(1221)の宇治合戦に岩田七郎の名で載っている。政広の子政信は岩田・藤矢淵の両地を領した事から藤矢淵氏の祖でもある。この岩田氏の領地は全国規模で流行した青石塔婆(板碑)の原材料である「緑泥片岩」の産地であった事から、周辺の武士に比べ経済的に豊かであったと思われる。
 室町期になると東方より山内上杉氏の家宰である猪俣党藤田氏が侵入してくる中、岩田氏はその藤田氏と婚姻関係を持つ事によりその配下となる事に成功した。その為、当主岩田六郎は通例であった秩父神社の遷宮式に行われる流鏑馬の射手役を断っている。これは立地的な関係もあり、同じ丹党総領家中村氏より、山内上杉氏に繋がりのある猪俣党藤田氏に属する方に利があった事の現れであろう。
 戦国末期になってくると河越夜戦が起こり、山内上杉氏の勢力は後退し、代わりに小田原北条氏の勢力が及んでくると藤田氏は北条氏に属する。これに伴い岩田氏も北条氏に属する事となる。この時の岩田氏当主は河内守幸清であった。また、藤田氏に養子に入った秩父新太郎(北条氏邦)の筆頭家老として天神山城を守った岩田対馬守義幸の名がある(日本城郭大系)が、この義幸は四方田美男氏著『鉢形落城哀史』の系図によると幸清の四代前の当主も同名であるようで、同名の一族なのかも知れない。
 上記の『鉢形落城哀史』によれば小田原北条氏配下になった岩田河内守幸清は当地を離れ相州小田原へ移住したが、天正十八年(1590)に北条氏が滅亡すると相州糟谷(現神奈川県伊勢原市下糟屋)に隠れ、さらに武州榛沢郡藤田郷本寄居村(現大里郡寄居町末野)に蟄居した時に歿し、善導寺後方の山(花園城)麓に埋葬されたという。これが岩田氏最初の墓となり、以後岩田氏は寄居町に住み続けているという。

 居館地は定かではないが、白鳥神社や白鳥橋がある付近にあったと見られる。

城名 桐原氏館 読み きりはらしやかた  
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
矢那瀬
 
別名   コード 11_04_004_00300
築城年 平安末期 主な城主
廃城年 不詳 形態
   
備考  

城名 白鳥氏館 読み しらとりしやかた
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
岩田?
 
別名   コード 11_04_004_00400
築城年 平安末期 主な城主 白鳥四郎政家
廃城年 戦国期? 形態
   
備考  白鳥氏は武蔵七党丹党出身の武士で、『丹党系図』と『武蔵武士』では丹二郎太夫武平の七男で丹経房の弟でもある行房が秩父郡白鳥庄に住み白鳥七郎と称した事から始まったいう。
 『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったが、白鳥氏の直系は岩田氏に代わった。以後の白鳥氏は傍流として存続する。
 『安保文書』応永二十五年(1418)足利持氏の御教書の文面に白鳥六郎の名が残っており、後に戦国期になると猪俣党藤田氏が当地に侵略し、この時白鳥氏は滅亡させられたとも伝わる。

 白鳥神社のある辺りとも考えられるが、詳しい場所については分かっていない。

城名 田城 読み たしろ
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
井戸字田城
所在地地図
別名   コード 11_04_004_00500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 崖城?
   
備考  伝承によれば当地に城があり、それゆえに田城の地名が残るのだという。居住者などを特に伝えていないが天神山城の家臣屋敷とも言われている。

 大手桜のある辺りがその伝承地と言われている。滝の沢が周囲を囲むように荒川に落ちており、秩父地方によく見られる砦の立地条件を満たしている。

城名 天神山城 読み てんじんやまじょう
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
岩田字城山
所在地地図
別名 白鳥城
根古屋城
コード 11_04_004_00600
築城年 天文年間
(1532〜1555)
主な城主 藤田右衛門佐重利
北条安房守氏邦 
廃城年 天正十八年
(1590)
形態 山城
   
備考  武蔵七党猪俣党に属した藤田氏によって築かれたとされる山城で、天文年間(1532〜1555)に藤田右衛門佐重利によって築城されたと伝える。
 天文十五年、河越夜戦において小田原北条氏が山内・扇谷両上杉氏に対し勝利を収めると、北武蔵の土豪達はそろって勝者である北条氏になびいた。藤田氏も同じで北条氏康より三男氏邦を婿養子として迎える事でその下に属し、花園城や当城をこの秩父新太郎に継がせた。そして藤田右衛門佐康邦は用土城に退去し、用土新左衛門と名乗った。
 氏邦は父氏康の今後の戦略が上州方面に向かうにあたり、当城の所在地では不適切と判断した。永禄三年(1563)に鉢形城へ移る事にし、鉢形城に本拠を移してから北条安房守氏邦と名を改めた。その後当城には実弟四郎右衛門佐氏光(北条氏康六男)が入城したというが、氏光は豆州戸倉城(静岡県駿東郡清水町、戦国期は伊豆国に属していたという)や武州小机城(神奈川県横浜市港北区小机町)などの城主を歴任している事が多いので、実質上は家臣の岩田氏が城代として入ったものと考えられる。
 天正十八年に鉢形城と共に落城し、以後廃城となった。

 当地は私有地になっており大手口はゲートによって侵入禁止になっている。本曲輪には模擬天主が建っていたりして破壊が進んでいるが、それでも比較的遺構は残されている。

城名 仲山城 読み なかやまじょう
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
野上下郷小坂字城山
所在地地図
別名 野上城 コード 11_04_004_00700
築城年 正和元年?
(1312)
主な城主 阿仁和兵助橘基保
阿仁和兵衛橘直家
廃城年 不詳 形態 山城
   
備考  仲山城は阿仁和氏によって築かれたもので、元々大和国阿仁和庄(現所在地不明)に居住していた。阿仁和氏(阿仁輪とも書く)は京都在任の北面武士であった。基保は信仰心篤い人物であったので、夢で神のお告げを受けたという事で一族を引き連れて関東に下った。これを聞いた新田義貞は阿仁和氏を探し家臣に加えるように上州新田金山城(群馬県太田市)の次男義興に指示した。新田義興は阿仁和基保が武州六所明神(現東京都府中市宮町にある大国魂神社)で参籠中に発見し、その家臣に加える事に成功した。その領地として秩父の地を与え、正和元年(1312)に当地に住み着きこの城を築いたという。この基保には子が二人おり、男子に家督を継いだ直家、娘は能登時国に嫁したという。
 後に基保の長子直家がその跡を継いだ。しかしこの直家が秋山城(旧児玉町)の城主秋山新九郎継照の侍女に恋した事から両者の関係はもつれ、この秋山継照に攻められる事となってしまった。北朝暦延文二年(南朝暦正平十二年・1357)の事で、直家は樋口河原において秋山氏を始めとした竹沢右京亮(小川町)や児玉町の猪俣党らによって攻められ敗死し、当城も落城したと伝えられる。
 直家の妻芳野御前は武蔵総社六所明神の宮司の娘で、落城寸前に神のお告げがあった能登国に亡命しており、直家の十三回忌である応安二年(1369)当地を訪れ、子の正家・正吉ら三十五人と共に供養の為の板碑を建てた。これが現在日本一の大きさを持つ「野上下郷石塔婆」で、地上高5.35mもある巨大な板碑で、昭和三年(1928)に国史跡に定められた。
 その後の仲山城の歴史は分かっていないが、堀切などの遺構が作られている辺り鉢形城の支城として組み込まれ整備されたのであろうか、そして鉢形城落城時に廃されたものと思われる。

 比高差120m程の山頂には狭いながらも曲輪と堀切が残る。

城名 野上氏館 読み のがみしやかた
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
本野上
所在地地図
別名   コード 11_04_004_00800
築城年 不詳 主な城主 野上三郎政経
野上三郎為氏
廃城年 不詳 形態
   
備考  野上氏は丹党出身の武士で、『武蔵武士』によれば岩田(藤矢淵)政信の弟政経が現在の本野上・中野上・野上下郷を領した事により野上三郎と称した事から始まったという。
 またいつの時代か野上三郎為氏という武士が居たと言うが、為氏は上記の政信の血縁者(直系?)であると思われるが、それを示す資料がない。

 居館は『岩田系図』や『秩父通誌』では本野上にある総持寺であるとしているようである。また野上下郷小字辻という所に、野上三郎為氏の墓があるという。野上下郷にある洞昌寺付近は間瀬・出牛峠への交通の要所であるため、ここに館を構えた事も充分考えられる。なお、近くには慶長元年(1596)の福田家板石塔婆がある。

城名 藤矢淵氏館 読み ふじやぶちしやかた  
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
長瀞(旧藤谷淵村)?
 
別名   コード 11_04_004_00900
築城年 不詳 主な城主 藤矢淵七郎直村
(直行?)
廃城年 不詳 形態
   
備考  藤矢淵氏は丹党出身の武士で、藤谷淵とも書く。
 『武蔵武士』によれば岩田七郎政広の長子政信は岩田・藤矢淵を領した事から藤矢淵氏の祖とされている。政信の長子広高が岩田氏を継ぎ、次子である直村が藤矢淵七郎と称し、藤矢淵氏を継いだという。また、『井戸葉栗系図』によれば直村の名が直行となっているようである。
 南北朝期に活躍した新田義貞配下の部将畑時能が、この地より出たと言われる。この事からも憶測の域から出ないが畑時能はこの藤矢淵氏の末裔である可能性も秘めているようである。

 現在の大字長瀞付近はかっての藤谷淵村であったが、長い月日を経て藤矢淵氏に関する情報も途絶え、その居館はいずこであったか不明になっている。

城名 矢那瀬館 読み やなせやかた
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町
矢那瀬字中内手
所在地地図
別名   コード 11_04_004_01000
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
備考  虎ヶ岡城の城代である矢那瀬大学らが根小屋として利用していたと思われる場所で、虎ヶ岡城が天正十八年(1590)に落城すると矢那瀬大学は姓を大野に改め、現地に帰農したのだという。

 虎ヶ岡城の南麓に「中内手」「城下」など根小屋であったと思われる地名が現在も残されている。遺構と思われる地形は農地化の為見つける事ができなかった。
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<<主要参考文献>>
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
軍記 武蔵七党 下巻 川又辰次 編 (1985)
秩父丹党考 (補訂第二版) 井上 要 著 (1996)
歴史群像シリーズ14
 「戦国北条五代」
学研 出版 (1989)
城郭資料集成
 「中世北武蔵の城」
梅沢太久夫 著 (2003)