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吉田町(よしだまち)
 埼玉県西北部に位置していた町、現在は秩父市と合併し、秩父市吉田地区となっている。戦国時代の通信手段である竜勢というロケットを打ち上げる祭りを行っている全国でも珍しい町でもある。

 中世には城峰山の平将門伝説の残る城が多くある。また、戦国期になると小田原北条氏と甲斐武田氏の抗争の渦に巻き込まれ、当町も戦場と化す事があった。このページに掲載されている山城の中には、滑落すると命を落とすの危険もある山城もあるので注意して訪問していきたい。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
石間城 女部田城 小暮城 秩父氏館
寺山砦 鳥方氏館 比丘尼城 吉田陣屋
竜ヶ谷城
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 石間城 読み いさまじょう
所在地 埼玉県秩父市吉田石間
字城山
所在地地図
別名 城峰山城 コード 11_04_002_00100
築城年 平安末期 主な城主 平 将平?
廃城年 不詳 形態 山城
   
歴史
将門の弟将平の城
 別名である城峰山で知られる山で、標高1032mの山頂にあったという伝承が残る。城主は平将門の弟将平の居城で、将門兄弟は第五十代桓武天皇の曾孫である高望王の孫にあたる。
 平将門は伯父の下総介良兼が自身の領地を侵したとし争いを起こし、合戦の末に良兼と伯父国香を討ち取った。国香の子貞盛は父の敵である従兄弟の将門と戦う事となるが、将門が優勢となり京に落ち延びた。
 これと同じ頃に武蔵国内において武蔵権守興世王と足立郡司武蔵武芝は対立し合い、六孫王源基経をも巻き込む騒動になっていた。これに将門が介入して源基経は狭服山(諸説があり所在地不明)に立て篭もり、興世王と武芝は将門の仲介で和睦をした。
 だが武芝の兵が源基経の陣を取り囲み、基経は京に「興世王と将門が謀反」として訴えた。この事もあって将門は関東一円を制圧し、自らを新王と称して独立をしようと試みた。だが、天慶三年(940)に将門を討つべく平貞盛と藤原秀郷は共同で将門に挑み、将門は敗れて敗死した。これを後世になり「承平・天慶の乱」と呼ばれるようになった。
 当城もこの事件の時に藤原秀郷の軍に攻められ、落城したものと思われる。
遺構
 現在の城峰神社境内がその遺構と言われている。石間城落城時に将門が隠れたという洞穴は現在発見されていない。

城名 女部田城 読み おなぶたじょう
所在地 埼玉県秩父市吉田
上吉田
所在地地図
別名 城山
野城
コード 11_04_002_00200
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 戦国期 形態 山城
   
歴史
土坂峠を見据える物見台
 上吉田の小川戸集落南に築かれた山城で、築城年や築城者などを特に伝えていない。日尾城の出城と言われる事からも日尾城主である諏訪部遠江守の支配下にあった物見の砦であろうか。
 土坂峠へ伸びる谷沿いを全て見渡せる位置に作られており、永禄十二年(1569)にこの土坂峠を越えた甲斐武田勢をいち早く捉えた。
遺構
 遺構の規模は曲輪が二つ配置して堀切を一つ設けただけの簡単な作りであるが、南側を除く三方が絶壁に近いことからも自然の地形を生かした砦であるといえる。

城名 小暮城 読み こぐれじょう
所在地 埼玉県秩父市吉田
下吉田字小暮
所在地地図
別名   コード 11_04_002_00300
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
伝承不明の謎の館
 平成十一年(1999)に新しく発見された城で、伝承などをまったくなかったので、誰が住んでいたかなどの詳しい情報がまったく分かってない。秩父氏の居館である鶴ヶ窪城とは600mの近距離なので、その支城として用いられた可能性が考えられている。
遺構
 河段丘陵の段差を削る沢を堀に利用した城で、西側を除く三方が自然の織り成す要害と化している。この場合陸続きである方向に堀切を設けたりするのだが、当城では一部にしかその痕跡が見られなかった。代わりに先端部に近い所には土居が設けられている。
 現状は耕地だったものが荒地になっており、藪が非常に生い茂っている。できる限り回って見てみたが、見落としがあったかも知れない。

城名 秩父氏館 読み ちちぶしやかた
所在地 埼玉県秩父市吉田
下吉田
所在地地図
別名 鶴ヶ窪城 コード 11_04_002_00400
築城年 平安末期 主な城主 秩父平氏
廃城年 不詳 形態
   
歴史
名門平家秩父氏
 一説によれば承平・天慶の乱の時、平将門方である石間城を攻める時に藤原秀郷がここを本陣として利用したという。その後は将門の養子であった村岡良文の裔である平家秩父氏の居館となった。
 秩父氏は関東一円に強大な勢力を誇るようになった坂東八平氏の一つで、村岡五郎良文の孫である武蔵権守将常の子武基が秩父別当として秩父を領したという。武基より五代後には畠山重忠がおり、他にも江戸氏・小山田氏・河越氏・といった末裔がいる。
 周辺に居住していた武蔵七党の武士たちと違い、格式高い由緒ある武士「高家」であった秩父氏は、周辺の武士たちにとって頭の上がらない存在であった。その為武蔵七党の一つ児玉党は、経行の末子行高を秩父重綱の養子とさせ秩父氏の声名を利用した。この系統は後に「平児玉」と呼ばれ、秩父地方のみならず上州南部にまで勢力を拡大し、その子孫に小幡氏・倉賀野氏・片山氏・奥平氏らが開発領主となっている。
秩父氏のその後
 秩父氏はその後戦国期まで続いていたようで、鉢形城城主北条氏邦に仕えた秩父孫次郎重国がいる。天正十八年(1590)に鉢形城が落城すると孫次郎は吉田の阿熊村に落ち延び、その地の小字を取って彦久保と姓を改め、現在も子孫の方がお住まいになっているという。
 なお、この地にあったという若宮八幡社は畠山重忠が勧請したという言い伝えも残っていたが、明治三十四年(1901)に学校が設置された。
遺構
 現在その館跡は秩父市立吉田小学校の敷地になっており、西隣りの吉田幼稚園にはかって古道が縦断していたという。吉田川が北西から東を削り、南はその支流の関川が深い谷を構成している。

城名 寺山砦 読み てらやまとりで
所在地 埼玉県秩父市吉田
久長字寺畠
所在地地図
別名 物見平 コード 11_04_002_00500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
麓に謎の平場を有する物見台
 伝承を伝えていなかった城で、その歴史的経緯は不明だが、規模を考えると物見の砦というのが有力説である。
遺構
 天徳寺の背後の三角山が砦であり、狭い山頂に曲輪を置き、その背後を二本の堀切で区切っている。また北西山麓には広い謎の平場が残る、これが兵舎を置いた場所ではないかという説もあるが詳細不明である。

城名 鳥方氏館 読み とりかたしやかた
所在地 埼玉県秩父市吉田
下吉田字取方
所在地地図
別名   コード 11_04_002_00600
築城年 平安末期 主な城主 鳥方三郎義家
廃城年 不詳 形態
   
歴史
児玉党鳥方氏の居館か
 鳥方氏は別名「取方」とも書き、児玉党の血を引く武士である。有道遠峰(維行)の子経行が桓武平氏の流れを組む秩父氏と血縁を結んだ事により「平児玉」と呼ばれるようになり、「武蔵七党系図」によればその子行重は秩父平太を称した。行重より四代孫の義家が鳥方三郎を称した事から始まる。また『武蔵武士』によれば大浜義助の弟義家が鳥方(島方?)次郎を称したとも伝える。
遺構
 赤平川と吉田川の合流地点付近を取方と言い、諏訪社や稲荷社を始めとして古くからの塚があるのみで、館跡を思わせる遺構等は特に残されていない。また、地元では特に屋敷などがあったという言い伝えは無いようである。

城名 比丘尼城 読み びくにじょう
所在地 埼玉県秩父市吉田
石間字出入
所在地地図
別名   コード 11_04_002_00700
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
険峻な山頂に作られた村の城
 伝承に残らない山城で、半根古と呼ばれる集落の背後の山にある。石間城の支城という節があり、石間城落城の時に城主の奥方がこの城に隠れ住んだという伝説が残る。
 城の周囲があまりにも急崖に囲まれているため、一般的には村人が戦の時に隠れる城(村の城)として使われたのではないかと言われる。ここより南の山は「兵出山」と呼ばれ、この山深い地でも戦が起こっていた事を想像させられる。
遺構
 埼玉県内において最も訪問が困難と思われる城館跡で、比高差237mもある上に周囲が壁を思わせる急崖に囲まれている。遺構は山頂から三つの平場がある上、背後の尾根筋には堀切があるという。やや遺構が簡素な上に麓から遠く離れた所である事を考えると、南北朝期に作られた山城の特徴を出している。

城名 吉田陣屋 読み よしだじんや
 
所在地 埼玉県秩父市吉田
下吉田
 
別名 陣屋 コード 11_04_002_00800
築城年 江戸初期 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
備考 現在未調査につき詳細不明。

城名 竜ヶ谷城 読み りゅうがやじょう
所在地 埼玉県秩父市吉田
久長字竜谷山
所在地地図
別名 吉田の楯  コード 11_04_002_00900
築城年 戦国期 主な城主 久長但馬守
廃城年 戦国期 形態 山城
   
歴史
武田軍を退けた吉田の盾
 地元からも忘れられた山城であったようで、伝承が乏しい。一説には北条氏邦の感状に記される「吉田之盾」と書かれている城と言われる。築城年は不明であるが、久長但馬守が築城とある事から、戦国期に作られた城と思われる。
 永禄十二年(1569)の甲斐武田軍の侵入の際、その猛攻を防いだ事もあって、北条氏邦より感状を授かるに至ったという。
遺構
 各資料からも遺構の作りが雑であると書かれる通り、築城しようとしていたが何らかの理由により築城放棄された可能性が高い。恐らくは上記の甲斐武田軍に対する備えとして、急遽造成された城であったが戦が終わって放置された物と考えられる。
 遺構を見てみると大きく二ヶ所の平場があり、それらを遮る比較的大きな堀切が区画している。本曲輪と思われる南側の平場は、尾根筋にしっかりと堀切を作っている。また隣接する二の曲輪と思われる平場は削平が甘く、途中で放棄されているのが分かる。しかしながら尾根筋にはしっかりと堀が築かれており、部分的に折の付いた浅い段が見られる。
 築城途中で放棄されたという不名誉を得た城ではあるが、考えを変えれば中世期の山城がどういう工程で築城されるのかを示した貴重な遺構であると思う。
 竜ヶ谷城への経路は北尾根筋に林道が建設されているので、そこからの城に向かって歩くのが良いと思われる。


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<<主要参考文献>>
秩父・中世吉田町の城’01 吉田町 (2001)
鉢形落城哀史 四方田美男 著
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
軍記 武蔵七党 下巻 川又辰次 編 (1985)
城郭資料集成
 「中世北武蔵の城」
梅沢太久夫 著 (2003)