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東松山市(ひがしまつやまし)
 埼玉県の地図上のほぼ中央に位置する市で、現在においても比企郡中でもっとも発展している市である。
 中世には北部を藤原氏より出た比企氏らが、南部を武蔵七党児玉党らの武士が主に領地を得ていた。室町期になると近隣の街道の交錯するこの地に松山城が築かれ、多くの合戦があった。それもあって市内の城々は松山城の支城として、整備されて活躍する事になった。
 近世には松山城に松平家広が入城し城下町の整備を受けるものの松山城は廃城となって宿場町のみが残って東松山市の基礎となった。また、旗本の領地として幾つかの陣屋が営まれていた。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:岩殿山陣城
 2:青鳥城
 3:大西遺跡
 4:押垂氏館
 5:唐子陣場
 6:宿ヶ谷戸遺跡
 7:小代館
 8:菅沼氏陣屋
 9:高坂館
10:野本氏館
11:萬松寺館
12:比企氏館
13:森川氏陣屋
14:渡辺氏陣屋
※当地図は平成の大合併以前のものです。また、河川の形状は中世頃の流れを推定して描いた物です。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 岩殿山陣城 読み いわどのやまじんしろ 足利基氏塁の東にある大堀切
所在地 埼玉県東松山市岩殿
字油免
所在地地図
別名 足利基氏塁 コード 11_03_001_00100
築城年 平安末期? 主な城主 比企能員?
足利基氏
廃城年 不詳 形態 陣城
   
歴史
足利基氏の陣城
 『新編武蔵風土記稿』に足利尊氏の子の鎌倉公方基氏の陣塁と伝えている。これは貞治八(1369、南朝歴正平二十三年)年八月に武州岩殿山にて芳賀伊賀守高貞入道禅可と合戦した折、基氏がここを陣塁として利用して芳賀勢に勝利したと『桜雲記』に書かれているという。
 しかしながら基氏が合戦時にこの陣城を築いた訳ではなく、元々あった館跡をそのまま陣城として改修して使用した物であるという。それは近くの岩殿山正法寺は古刹で、その参道沿いは古くから栄え、それを支配していた豪族が館を構えていた可能性が高いからである。この事もあって当地は合戦時に軍を駐屯させるのに都合が良かったと思われる。
 かくして芳賀勢を破った基氏はその勢いで軍を進め、芳賀禅可と宇都宮氏綱を討つ為に下野の夫玉へ赴いているので、陣城としての役割を一旦終える。その後当地の記録は見つかってないが、記録見当たらないだけで館として再利用された可能性もあり得る。
比企能員の館の一つ?
 『東松山市の歴史 上巻』によれば足利基氏が陣城にする以前の手掛かりが正法寺に現存する版本に「比企判官旧地」と書かれている所に注目している。
 比企判官とは「比企氏の乱」で滅亡に追いやられてしまった比企能員の事で、正法寺の境内に「判官塚」という比企能員を祀った塚もあるという。
 ここが能員の旧領である事を踏まえると、館が築かれた時代は鎌倉初期という事になりそうである。
遺構
 遺構は南になだらかな斜面に作られており、空堀と掘り残しの土塁で構成されている。傾斜に堀を設ける遺構は滑川町の三門館など比企郡の城館跡にいくつか見られ、この地方の特徴となっている。
 平地部分は宅地および農地化されているものの、傾斜部分の遺構は比較的残されている方である。南を流れる九十九(つくも)川に向かって遺構があった可能性も考えられるが、今となってはそれを見つける事はできない。

城名 青鳥城 読み おおどりじょう 青鳥城本曲輪を東から見た所
所在地 埼玉県東松山市石橋
字城山
所在地地図
別名 石橋城 コード 11_03_001_00200
築城年 不詳 主な城主 青鳥判官藤原恒儀
斧沢修理大夫
山田伊賀守直安
廃城年 不詳 形態 平山城
   
歴史
館から要害に発展した城郭
 『新編武蔵風土記稿』には天長六年(829)に死去した青鳥判官藤原恒儀が築いたとされるが、真実かどうかは不明である。残されている遺構からも最初、丘の南端を利用して作られた館であった事が想像される。『神戸妙昌寺縁起』によれば城主の名に斧沢修理大夫の名を挙げてる。
 青鳥城が本格的に歴史上に姿を現すのは室町期になってからで、永享十二年(1440)に上杉憲実が将軍足利義教の命によって結城合戦に赴く際、唐子・野本に陣取ったと記録があり、その頃にはこの辺りは街道筋であった様子である。青鳥城も駐屯地として活用されていたとする説もある。
松山城の支城として活躍
 青鳥城の活躍が明確になるのは戦国期の後北条氏時代になってからになる。『小田原衆所領役帳』によれば「狩野介四十貫目比企郡青鳥居、久米新左衛門四十五貫松山筋石橋」とあり、青鳥城がこれらの武士によって警護されていた事をうかがわせる。そして戦国末期になってくると松山城主上田氏の家臣山田伊賀守直安が城主になっていたと伝える。
 天正十八年(1590)に豊臣方の侵攻時においても記録見られないが松山城と運命を共にし、城主無き状態で落城したものと考えられる。その後松山城で篭城戦に参加していた城主山田直安は徳川家康に三百石の旗本にとt里立てられ、慶長五年(1600)二月に没している。
遺構
二の曲輪の邪折(ひずみおり) 二の曲輪の東端は関越自動車道が開通した事によって破壊されているものの、城の大分部は残されている。本曲輪が崖端に築かれており、その周りを二の曲輪で囲むように配置されており、使用する内に城の規模を拡張したのがよく分かる。
 それ以外にも三の曲輪の存在も伺われる地形が残されているものの、農地および宅地化されているのでその範囲は分かっていない。

城名 大西遺跡 読み おおにしいせき
所在地 埼玉県東松山市宮鼻
字大西
所在地地図
別名   コード 11_03_001_00300
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
街道筋にあった遺構
 発掘調査によって新たに発見された遺構で、詳しい歴史はよく分かっていない。当遺構は平安期の住居が主に見つかり、その中に溝状遺構も発見された。
 この周辺には児玉党小代氏が居住しており、当地もそれにゆかりのある遺構であったと想像されるが、推測でしかない。
遺構  現在宅地化されており、遺構を見る事ができない。『東松山市史 資料編第一巻』によれば、発見された溝状遺構は上部幅2.5mで深さ2.5mあり、中世城館に見られる「箱薬研」の形態を持っていたという。

城名 押垂氏館 読み おしたりしやかた
所在地 埼玉県東松山市下押垂?  
別名   コード 11_03_001_00400
築城年 鎌倉期 主な城主 押垂左衛門尉時基
廃城年 不詳 形態
   
歴史
野本氏の一族
 押垂氏は比企能員の娘婿である笠原十郎親景の子時基が、野本左衛門尉基員の養子となって野本の南部押垂に居を構えた事より始まる。『吾妻鏡』においては「押垂左衛門尉基時」と書かれているという。
遺構  『東松山市の歴史上巻』では「おそらく都幾川の氾濫で壊滅したのであろう」と書かれている。しかし、上押垂地区に「上屋敷」「下屋敷」、下押垂地区にも似た様な小字が残されている事から、宅地化による遺構喪失であった可能性が高いと思われる。
 今後の研究による所在地判明に期待したい所である。

城名 唐子陣場 読み からこじんば
所在地 埼玉県東松山市上唐子 所在地地図
別名 太田道灌陣場 コード 11_03_001_00500
築城年 不詳 主な城主 太田道灌
廃城年 不詳 形態 陣場
   
歴史
太田道灌が陣を取った地
 『新編武蔵風土記稿』によれば当地白山神社はかって太田道灌が陣地を取ったという説がある。中世頃にはこの辺りに高坂より菅谷の鎌倉街道への街道があったとされており、当時は軍勢を駐屯させるのに適した場所であったと想像される。
遺構  現在も白山神社はあるが、周辺は宅地化されており遺構を思わせる地形は見られない。

城名 宿ヶ谷戸遺跡 読み しゅくがやといせき 宿ヶ谷戸遺跡のあった場所、今は関越自動車道になっている。
所在地 埼玉県東松山市西本宿
字宿ヶ谷戸
所在地地図
別名   コード 11_03_001_00600
築城年 南北朝〜室町? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
高速道路敷地になった謎の遺構
 歴史などが不明な遺構の一つで、昭和四十八年に発掘調査を行った際、南北朝期から室町期頃の堀と井戸跡が発見されたという。その主たる発見物は窯跡であったという。
遺構  現在関越自動車道敷地内となっており、遺構は喪失してしまっている。

城名 小代館 読み しょうだいやかた 小代館を南から眺めた所。
所在地 埼玉県東松山市正代
字中形
所在地地図
別名 岡の屋敷
小代氏館
コード 11_03_001_00700
築城年 鎌倉期 主な城主 悪源太義平
小代行平
廃城年 不詳 形態
   
歴史
悪源太義平の屋敷「岡の屋敷」
 高坂台地の東先端に位置していたのでここは「岡の屋敷」と呼ばれ、最初は鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母兄である悪源太義平の屋敷の一つであったという。
 ここに義平の屋敷があった理由として、源氏とこの地を治めていた児玉党が古くから主従関係にあり、この地に住んでいた児玉党小代氏も義平とは主従関係にあった事。また、児玉経行の娘は義平の乳母であった事もあり、この地に屋敷を持ったのだろうと『東松山市の歴史上巻』は推定している。
 上州多胡郡に住んでいた義平の伯父である義賢が、武蔵でも有力な武士である秩父重隆の婿養子に迎えられて武蔵国大蔵(埼玉県嵐山町)に大蔵館を設けた。それから度々ここに通うようになり、上州はおろか武蔵の武士たちにも義賢の影響が及ぶようになってきた。
義平を祀る御霊神社 これに相模・武蔵の支配権を奪われると脅威を覚えた義平とその父義朝は、義賢を討つ事にし久寿二年(1155)に大蔵合戦が勃発した。この時義平はこの「岡の屋敷」より襲撃したと見られており、この合戦により義賢と義賢の養父である秩父重隆は死亡した。
 後に「平治の乱」によって義平が処刑されると、いつしか岡の屋敷は家臣である小代氏が住むようになった。そして主君義平を祀った「御霊神社」を子孫代々篤く崇敬するように小代行平は遺訓を残している。
児玉党小代氏
 小代氏は武蔵七党児玉党出身の武士で、入西原(埼玉県坂戸市)を治めていた入西三郎大夫資行の子遠弘(広)が当地入西郡小代郷に住んだ事から小代氏が始まったとされる。悪源太義平の家臣であった小代氏は、義平所有の「岡の屋敷」を譲り受け、居住するようになったと考えられている。
 遠広の末子である八郎行平は、平安末期に源頼朝に仕え、一ノ谷の合戦や奥州征伐において戦果を挙げて、文治五年(1189)に安芸国山県郡壬生庄(現在の広島県山県郡北広島町壬生)の地頭職に命じられた他、越後国青木郷・中河保の地頭職を幕府より与えられている。行平は建暦三年(1213)の和田義盛の乱においても幕府側として活躍したという。
青蓮寺境内にある小代重俊の板碑 行平の孫に重俊平内左衛門尉という者がおり、現在の青蓮寺境内に残る板石塔婆はこの重俊を供養したものであるという。
 宝治元年(1247)に三浦泰村の反乱時に重俊の子小代重泰が戦功を立てたので父重俊が肥後国野原庄(現在の熊本県荒尾市)の地頭職に補任された。
 今まで小代館に居住しながら西国の領地は地頭代に任せていた小代氏であったが、文永八年(1271)に幕府は『関東御教書』を発行し、赴任に赴いて蒙古の襲来や悪党の取り締まりを行う様に促した。この時重俊は高齢であった為、重俊の子供たちに発せられた物で、小代氏の野原庄赴任は建治元年(1275)になってであった。総領家の重泰は府本の梅尾城に入り、政平は増水、泰経は荒尾、資重は一分にそれぞれ赴任していった。
 重俊は小代の地で死去し、その遺徳を偲び弘安四年(1281)に一族の手によって青蓮寺の板石塔婆立てられたのであった。
肥後国に移住した小代氏
 かくして肥後国に移住した小代氏は早々に所領没収の危機に瀕していた。世代は重泰の子伊重の代になっており当の伊重もすでに七五歳の高齢であった。原因は不明だが鎌倉時代後期という事もあって執権北条氏の得宗専制政治の犠牲であった可能性が高い。伊重はこれまで祖先の残した功績を一巻の書物に書き残したという。その後小代氏が戦国期まで存続した事を踏まえると所領没収は免れたのであろう。
 時代は下って南北朝期に足利尊氏が九州に逃れた際、野原庄の小代重峰がこれに従った。この時代になっても本貫地(今で言う本籍)はこの地にあった為、重峰の軍忠状(戦での功を書いた書)には「武蔵国小代八郎次郎重峰」と載せられている。
遺構
 秩父山塊の東端の高坂台地先端に築かれており、低地(氾濫原)との比高差はおおよそ6mほどある。遺構自体は現在正代集落となってしまっており、ほぼ見る事ができなくなっている。
 『東松山市史』に掲載されていた図を参考にして作成した図を見ると、舌状台地の東端の部分部分に空堀や土塁があった事が発掘調査などにより分かり、一般的な方形館ではなく、幾つもの堀で区切られた遺構であった事を想像される。

城名 菅沼氏陣屋 読み すがぬましにじんや 菅沼氏の陣屋より近くにあったと思われる浄空寺
所在地 埼玉県東松山市上唐子? 所在地地図
別名   コード 11_03_001_00200
築城年 主な城主 菅沼定吉
廃城年 形態 陣屋
   
歴史
旗本菅沼氏の領地
浄空寺境内に残る菅沼氏歴代の墓 菅沼氏は三河国の豪族の出で、島田・田峯・野田・長篠の四家の内、田峯家の出であるという。
 定氏・定吉親子が天正十八年(1590)徳川家康に従って関東に移住し、旗本としてこの付近に領地三千五十石を授かり、菩提寺として現在の浄空寺を開基したという。
 定吉より二代後に定政・定勝兄弟がおり、それぞれが領地を分けたが、その後も浄空寺を菩提寺としてし続けたのだという。
遺構  周辺の江戸初期の旗本達の動向傾向から考察すると、菩提寺であるこの浄空寺付近に陣屋があったと思われるが現在その場所はよく分かっていない。

城名 高坂館 読み たかさかやかた 高坂館の残っている土塁を北側より望む、高済寺の本堂も見える。
所在地 埼玉県東松山市高坂
字一番町
所在地地図
別名 高坂刑部館
加賀爪氏陣屋
コード 11_03_001_00800
築城年 不詳 主な城主 高坂五郎
加賀爪隼人正政尚
廃城年 不詳 形態
   
歴史
秩父平氏と児玉党の高坂氏
 高坂氏は秩父平氏出身と児玉党出身のニ流がある。秩父平氏出身の高坂氏は秩父重綱の子で河越重隆の弟に高坂五郎がおり、これが高坂氏の祖とされている。また、武蔵七党児玉党の小代氏から出た高坂彦三郎直行がいる。歴史上で主に活躍しているのは秩父平氏出身の高坂氏の方である。
 南北朝期になると高坂氏は秩父平氏の一族として活動する事になる。元弘の変(1331)の時、幕府軍が楠木正成の立て篭もる赤坂城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)を攻めた時、高坂出羽守が従軍している。そして建武二年(1335)の箱根・竹下の合戦においては新田軍に属して戦っている。
 下って観応三年(南朝歴正平七年、1352)には武蔵野合戦が勃発し、この時高坂兵部大輔、同下野守、同下総守らが足利尊氏方に付いたと『太平記』に残る。
平一揆と高坂氏
 こうして急成長していった高坂氏は他の平姓武士らと共に「平一揆」という武士集団を結成する。その中核になったのが河越氏で、彼らは鎌倉公方である足利基氏(尊氏の子)の命によって度々上洛し豪勢な装備によって都の人々を驚かせていたという。これは彼ら平一揆の一党の経済基盤が豊であった事を示すものであろうか。
 康安元年(南朝歴正平十六年、1361)に畠山国清が足利基氏に対して反乱を起した際、平一揆も伊豆に出陣しその戦功によって高坂兵部大輔はかって畠山国清の領地だった伊豆国の守護に補任される事になった。
 こうして鎌倉公方足利基氏の下で着々と実力を蓄えた平一揆であったが、基氏の死後状況が変わってくる。貞治七年(南朝歴正平二十三年、1368)鎌倉公方に対して平一揆は突如叛旗を翻し、河越氏の居館である河越館(現在の埼玉県川越市上戸)に立て篭もってしまった。この反乱の事を後年「平一揆の乱」と呼ばれ、鎌倉公方が幼い氏満に代が変わり、足利義満が将軍に就いた事を祝辞するべく関東管領(山内)上杉憲顕が上洛した隙を狙った蜂起であった。
 この「平一揆の乱」の原因は『中世武蔵人物列伝』においては河越氏が相模守護職であったものの、上杉氏の台頭によって解任された事とし、『東松山市の歴史』では領地にめぐる問題があったのではないかと推測している。高坂氏も比企郡戸森郷(現在の比企郡川島町戸守付近)の領主権をめぐり高 尾張守入道常珍(高 師業)争っている。
平一揆以後の高坂氏
 平一揆方は南朝の新田義宗らと連携して河越館で激しい抵抗をしていたが、上洛していた上杉憲顕が参戦、更に関東から甲斐国に至る国人を総動員して、ついに平一揆は鎮圧された。反乱者に対しての処罰として領地没収を行っており、反乱に加担していた高坂左京亮重家も比企郡戸森郷や居住地である高坂郷までも没収され高坂氏は衰退した。
 これ以降の高坂郷は、一旦合戦で戦功のあった犬懸上杉朝房の所領となったが、のちの康暦元年(南朝歴天授五年、1379)に将軍義満が建立した京都の鹿王院に寄進されている。
 かくして関東で一大勢力としていた平一揆は崩壊し、関東管領上杉氏の影響力が大きくなった。戦国期には後北条氏家臣に高坂刑部なる人物を『新編武蔵風土記稿』に見るが、平姓高坂氏であるかは不明である。
旗本加賀爪氏
 天正十八年(1590)に豊臣秀吉によって後北条氏が滅亡すると、関東には東海から徳川家康が転封されてきた。この地域も徳川氏の支配下になり、この高坂館には比企郡を領した旗本加賀爪氏の陣屋として新たなスタートをする事になった。
 加賀爪(加々爪とも書く)氏は室町期関東管領として強い勢力を持った上杉氏の末裔であるという。『加賀爪氏系譜』によれば扇谷上杉重顕の孫である朝顕が武蔵国八条(現在の埼玉県八潮市八条)を領した事より八条上杉氏の祖となっている。
 この朝顕には男子に恵まれず、娘の亀寿が駿河の今川満範(今川了俊の末子)の妻となって男子四人を生んでいる。その中の末子である満朝が、外祖父である八条朝顕の養子となって跡を継ぎ、八条修理亮満朝を名乗っている。この満朝は馬術に優れていたとされ、系譜図においても「当流馬上手」と付記されている。
 満朝の長子中務大夫兵庫頭満定がおり、その満定の子政定が今川範政(今川宗家6代目)の養子となって今川家で育てられ、後に加賀爪氏の祖となって今川氏家臣となった。その領地は遠州山名庄新池郷(現在の静岡県袋井市新池)にあったという。
土塁の上にある加賀爪し歴代の墓 政定より四代孫の備前守政豊の代に、主君今川氏真が徳川家康によって滅ぼされると、政豊は徳川家康に仕えた。
 政豊の子隼人正政尚は幼少の頃より家康に仕えて、長久手合戦にて戦功を挙げている。この政尚が文禄元年に武蔵国比企郡(高坂村、正代村、早俣村)・相模国高座の両郡を領する事になって、高坂氏の居館であったここに陣屋を設ける事になり、同所に高済寺を開いた。
 甚十郎忠澄は家光まで三代に仕え、関ヶ原の合戦には秀忠軍に従軍し、出世をしていった。来航禁止のポルトガル船を沈め、キリシタンに弾圧を加えるなどの熾烈な任務をこなし、最終的な石高は九五〇〇石にも及んだ。
 忠澄の子甲斐守直澄も父の跡を継ぎ、加賀爪氏は最大一万三千石の大名にまでなった。
 しかし、直澄の養子の土佐守直清が跡を継いだが、天和元年(1681)に領地問題で領地を没収されて、加賀爪氏は断絶した。
 加賀爪氏の墓は土塁の上に今も残されている。
遺構
都市計画により近年削り取られた土塁 遺構は高済寺を北にして広がっていたが、現時点では高済寺付近以外の遺構は喪失してしまっている。また、高済寺付近の土塁も近年の都市開発によって土塁が削られてしまっている。
 高済寺にある土塁の一部はかっての古墳を取り込んで作られたと見られ、その上には加賀爪政尚を始めとした加賀爪氏歴代の墓所となっている。

城名 野本氏館 読み のもとしやかた
 野本氏館の将軍塚を南東方向より望む。
所在地 埼玉県東松山市下野本
字下野本
所在地地図
別名   コード 11_03_001_00900
築城年 不詳 主な城主 藤原利仁?
野本左衛門尉基員
廃城年 不詳 形態
   
歴史
利仁将軍と野本氏
 当地に館を構えて住んだと言い伝えられているのは、最初魚名流藤原利仁将軍とされ、延喜年間(901〜922)に利仁は武蔵守に任じられた際この地に住んだという。近くの将軍塚には利仁将軍社が祀られていある。
 野本氏の祖となったのは堀川院滝口基親の子基員であり、上記の利仁将軍の後裔で『尊費卑分脈』には竹田氏の出であると書かれている。基員がこの地に居を構えて野本左衛門尉と名乗った時期については、野本氏は基員以前に武蔵国在住の注記が見られない事から十二世紀後半であるとされている。そして貞永元年(1232)基員は八三歳にて死去したという。
 基員には実子がおらず下河辺政義から時員を、笠原親景から基時をそれぞれ養子としてもらいうけている。その内基時は押垂の開発領主として赴任し押垂氏になり、時員は六波羅探題の北条時盛に仕え能登守を名乗っている。摂津守護として活躍していた時員であったが、北条時氏が六波羅探題であった(1224〜1230)頃のある日、郎党が四方田左衛門を馬から引きずり下ろす狼藉が起きた。四方田はこれに激怒しており時員は狼藉を働いた郎党を斬罪にした。しかしまだ怒りが収まらないので、幕府は時員の摂津守護職を解任し、その身柄を肥田八郎左衛門尉に預けている。
 時員の長子時秀は嘉禎二年(1236)八月、叔父の押垂基時と共に将軍頼経が新造御所への移転の際の黄牛を牽く役を果たした。また、時秀の弟行時は建長二年(1250)十二月、父時員と同様の名国司として功績なく臨時内給(天皇より与えられる臨時の年収)を望んだものの、幕府によって却下されている。
遺構
 無量寿寺の境内が館跡で、境内には土塁の一部が残るという。かっては堀が二重に残されていたようであるが、現在では国道407号バイバス線が貫通しており、かっての姿をみる事ができない。

城名 萬松寺館 読み ばんしょうじやかた 萬松寺入口
所在地 埼玉県東松山市柏崎
字堀の内
所在地地図
別名   コード 11_03_001_01000
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
詳細不明の謎の遺構
萬松寺境内より松山城を望む。 『埼玉県の中世城館』に館跡と紹介されているのみで、その歴史は詳しく書かれていない。『武蔵國郡村誌六巻』の柏崎村の項に村の東に「鴻城」という小字が書かれており、現在の小字においても萬松寺より谷向かいの東側の地域に名づけられている。
 崖下の市野川を挟んで松山城が近距離にあり、かつ土塁(古墳?)を松山城の方角に向けている事を踏まえると、松山城を攻めるときに攻め手によって築かれた「対の城」であった可能性も考えられる。
遺構
萬松寺に残る古墳と思われる塚 萬松寺の境内一帯が遺構であったと思われ、同寺の墓地の一部に古墳を利用したと思われる土塁らしき遺構が見られる。また山門付近にも堀などの遺構があったとも思えるが、現在は喪失しているようで見当たらない。

城名 比企氏館 読み ひきしやかた 比企氏館の比定地付近の様子
所在地 埼玉県東松山市大谷
字中内手?
所在地地図
別名 比企能員館 コード 11_03_001_01100
築城年 平安末期 主な城主 比企能員
廃城年 不詳 形態
   
歴史
比企氏出自の謎
 比企氏は藤原秀郷を遠祖とする一族で、秀郷より七代のち波多野三郎遠光が比企郡の郡司として比企郡に所領を得た事より始まるとされる。
 しかし、『東松山市の歴史上巻』では野本氏らと同じ利仁将軍の末裔であるという説を挙げている。それは野本氏も比企氏も通字として名に「員」を付ける人物がいる事、利仁伝説を持つ岩殿観音と正法寺の再興者が比企能員である事から野本氏と比企氏は同族ではないかと仮説を立てている。いずれにしても詳しい系図が失われているので、不明な点は多い。
 遠光の子籐太遠康が初めて比企氏と称し、この遠康の子掃部允遠宗は京に上がって源為義・義朝親子に仕えた。この遠宗の妻が源頼朝の乳母の一人「比企尼」である。乳母とは信頼できる有力武士の妻が選ばれ、単なる授乳者ではなく養育者としての重要性と権力を有するものであった。
 比企尼は頼朝が平治の乱で伊豆蛭ヶ小島に流罪になった時でも生活面など色々と支えてきた。この支援があったからこそ頼朝は鎌倉幕府を開くまでに至っていると言われている。
  頼朝の不遇時代を支えた比企尼の支援は、後の養子である藤四郎能員の鎌倉幕府における地位を高めるものへと繋がった。
のどかな風景の残る比企尼山
比丘尼山遠景
比企氏の隆盛
 恩義を感じていた頼朝は比企尼の甥の比企能員を重用する。能員はそれに応えるべく戦功を挙げていく。元暦元年(1184)五月に和田義盛と共に木曽義仲の子、志水冠者義高の残党討伐に赴き、同年六月には平家追討使源範頼に従って平家討伐に赴いている。
 文治五年(1189)の奥州討伐において北陸道大将軍に任じられ、上野国(現群馬県)の軍勢を率いて越後国(現新潟県)から出羽国(現山形県から秋田県)に入っている。その翌年建久元年(1190)に藤原泰衡の郎党大河兼任が起した反乱を制圧して山道大将軍に任じられ、上野・信濃両国の守護職に任じられている。
北条氏の陰謀
 こうした能員の全盛も次第に陰りを見せるようになってきた。二代将軍頼家に娘を嫁がせ将軍家の外戚として力を付けた能員は、同じ外戚である北条氏と対立を深めてきたのであった。
 建仁三年(1203)に頼家が危篤状態に陥った時、北条時政が西国を頼家の弟実朝に、東国を頼家の長子一幡に分ける事を決めた。これを不服に思った能員は病床に伏していた頼家に時政の専横を訴えたが、これを時政の娘で頼家の母である北条政子に聞かれてしまっていた。
 後日法事を理由に能員を名越邸に招いた時政は、天野遠景と仁田忠常らに能員を討たせた。それを知った比企一族および郎党は、一幡を旗頭に「小御所」と呼ばれた一幡の屋敷に立て篭もった。攻め手に多くの負傷者を出させたものの、畠山重忠ら鎌倉の軍兵によって皆殺しにされてしまった。の事件を通常「比企能員の乱」と呼ばれている。
 後の文応元年(1260)に北条政村(時政の子義時の五男)の娘が急に病気になり、これは比企能員の娘讃岐局が大蛇となって息女を噛んでいる為だという。政村は息女にとり付いた悪霊を退散させるべく若宮別当僧正を招請し、讃岐局を供養をしたという。
遺構  現在比企氏の屋敷とされる明確な場所ははっきりしておらず、遺構の保存状態も不明である。しかし大谷地区には字中内手の地名があり、近くに「城ヶ谷沼」という貯水池がある事からもその付近に館跡があったと比定されている。

城名 森川氏陣屋 読み もりかわしにじんや
所在地 埼玉県東松山市大谷
字北の前
所在地地図
別名 森川美濃守陣屋
大谷陣屋
コード 11_03_001_01300
築城年 天正二十年
(1592)
主な城主 森川金右衛門氏俊
廃城年 寛永年間?
(1624〜1643)
形態 陣屋
   
歴史
森川氏の陣屋
 森川氏は徳川家康に仕えていた武士で、天正十八年(1590)に家康が関東に移封されると、森川氏俊は当比企郡大谷村や山田村(滑川町)・杉山村(嵐山町)など二千石を領し、天正二十年(1592)この大谷村に陣屋を築いたという。
 氏俊の父は織田信秀に仕えていた堀場氏兼で、氏俊は永禄八年(1565)に徳川家康に召抱えられ、母方の姓である森川を名乗る事を命じられたという。それ以来家康の家臣として多くの戦に参加した。
宗悟寺境内にある開基森川氏の墓
宗悟寺の森川氏墓所
遺構 陣屋の一部ではないかと考えている水路 陣屋をこの地に構えたという事は記録に残されているものの、明確な場所はよく分かっていない。江戸期に入っての陣屋である事を踏まえると戦闘時の要害であるより政治的政庁であった可能性が高く、この見解からすればおのずと陣屋は比較的平地に築かれたものと考えられる。
 宗悟寺の西におおよそ300m程の所に陣屋の一部であったろうと思われる地形があり、ここが森川氏の陣屋第一候補地ではないかと思われる。

城名 渡辺氏陣屋 読み わたなべしじんや この付近では風格のある字曲輪にある了善寺
所在地 埼玉県東松山市上野本?
別名 野本陣屋 コード 11_03_001_01400
築城年 不詳 主な城主 渡辺半蔵守綱
廃城年 元禄十一年
(1698)
形態 陣屋
   
歴史
野本陣屋の渡辺氏
 渡辺氏は三河国の住人で、平安末期に活躍した嵯峨源氏渡辺綱の末裔を名乗る一族である。年代は定かではないが渡辺道綱が三河国額田郡浦部村(現在の愛知県岡崎市国正町)に占部城を築き、以後代々松平氏に仕えた。
「槍の半蔵」守綱
 渡辺半蔵守綱は弘治三年(1557)より徳川家康に仕えている。守綱は槍の名手で「槍の半蔵」の異名を取って戦功を重ね天正十二年(1584)の長久手の合戦には旗本足軽頭になっていた。
 天正十八年(1590)に家康が関東に入国するにあたり、守綱は二千石の加増をされ比企郡の内三千石、五ヶ村(現在の東松山市野本・下青鳥・今泉・葛袋および比企郡川島町長楽)を拝領した。『東松山市の歴史 中巻』において「守綱以来在所として陣屋を置いてきた野本村に・・・」の下りや所領の中央付近という事で野本にその陣屋があったと思われる。
 その後守綱は慶長五年(1600)には上杉攻めと関ヶ原の合戦に家康の旗本として参戦し、その戦功によって翌年近江国坂田郡に千石の加増をされ、その後遠江国榛原郡六千石も預かっている。
 建長十九年(1614)に家康の九男で初代尾張徳川氏の義直に、子である重綱と共に仕える事となり、守綱は元和六年(1620)に名古屋にて死去した。
野本藩の確立とその後
 渡辺忠綱は上記の守綱の孫で、慶長九年(1604)に重綱の子として生まれた。元和六年(1620)に父重綱より比企郡三千石を分知し、将軍徳川秀忠に仕えた。しかし三年後の元和九年(1923)に二十歳の若さで病没し、比企郡三千石は天領(幕府の直轄領)となった。
 渡辺吉綱は慶長十六年(1611)に重綱の五男として生まれ、兄忠綱の死去した元和九年(1923)に将軍秀忠に仕え、翌年の寛永元年(1624)に天領となった比企郡の旧領に新田を加えられた三五二〇石余りを与えられた。吉綱は三代将軍家光にも仕え、慶安三年(1650)にはのちの四代将軍家綱に属した。
 翌、慶安四年(1651)に家光が死去し家綱が将軍職に就くと、吉綱は書院番頭・留守居を経て寛文元年(1661)に側衆、大阪定番の役職を歴任した。これに伴い所領も増やされ河内国志紀・古市・丹北の三郡と和泉国大鳥・泉両郡の内一万石を加増され、計一万三五二〇石の大名に列せられた。これにより野本村に大名陣屋を築き「野本藩」が確立した。吉綱は寛文八年(1668)に死去している。
 その後方綱・基綱と続き、元禄十一年(1698)に比企郡の領地を近江国野洲・栗太・蒲生・高島の四郡に移され、陣屋もその時和泉国大鳥郡大庭(おば)寺村(現在の大阪府堺市)に移した事により野本藩は消滅し、大庭寺藩が成立した。さらに享保十二年(1727)に和泉国泉郡伯太(はかた)村(現在の大阪府和泉市伯太町)に陣屋を移し伯太藩となっている。
遺構  上野本地区にあると書かれるが、それに相応しい地形も地名も見当たらない。下野本には字曲輪の地名がある為そちらの可能性も考えられるが、所在地については現在は分かっていないところが多い。
 字曲輪にある了善寺は境内も広く、渡辺氏とも何らかの関係があったと思ったが、渡辺氏の墓は同寺境内より見つけられなかった。

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<<参考文献>>
東松山市の歴史 上巻 東松山市 (1985)
東松山市の歴史 中巻 東松山市 (1985)
東松山市史 資料編第一巻
原始・古代・中世 遺跡・遺構・遺物編
東松山市 (1981)
川島町史 通史編 上巻 川島町 (2007)
中世武蔵人物列伝 埼玉県立歴史資料館 (2006)
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
武蔵武士 (下) 成迫政則 著 (2005)
北武蔵を駆け抜けた武士たち 戸島鐵雄 著 (2006)
跡標(みちしるべ) 八潮市郷土研究会 (1975)
新編 岡崎市史 中世2 愛知県岡崎市 (1989)