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狭山市(さやまし)
 埼玉県南西部に位置する都市である。市内に航空自衛隊入間基地があり、鉄道も都心新宿に向かう事もあって市内は急速に発展していった。 市名の「狭山」は元々現入間市に該当する地名であるが、昭和29年の合併の際に入間川・入間・堀兼・奥富・柏原・水富の各町村長の投票の結果、茶業関係者が多かった事もあって「狭山」の名称が採られ、代わりに「入間」を狭山と呼ばれた現入間市が使用するという複雑な事情がある。

 中世には市内を鎌倉街道上道が縦走しており、戦火の絶えない地域であった。特に南北朝期には足利基氏が数万騎で入間川に滞在していた事もあり、狭山市の中世を語る上で最も影響してくる。それに伴い入間川周辺に遺構がまとまっている傾向が見られる。
 また、市南部は渇水地域で深い所まで井戸を掘ったすり鉢状の「七曲の井」などが作られていた事もあって、中世期の遺構は少ない。
 近世には川越藩の統治下になり、渇水地域であった入曽付近を水野新田として開発するなどした。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:青柳屋敷
 2:入曽屋敷
 3:入間川御殿
 4:柏原氏館
 5:柏原城
 6:小山ノ上遺跡
 7:馬智屋敷
 8:三ツ木氏館
 9:義貞砦
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。

城名 青柳屋敷 読み あおやぎやしき 右奥の雑木林が屋敷跡と思われる。
所在地 埼玉県狭山市青柳
字新屋敷
別名   コード 11_02_004_00100
築城年 文禄四年
(1594)
主な城主 三ツ木勇右衛門
廃城年 不詳 形態 屋敷
    
歴史
開発領主三ツ木氏の新たな屋敷
 三ツ木氏館に居住していた三ツ木氏の末裔が新たに屋敷を作ったのが当地で、文禄四年(1594)に三ツ木勇右衛門がこの地に新しい屋敷を構えたという。
 この青柳地区は三ツ木氏の屋敷以外にも「本村」「宿屋敷」「堀切」などの小字も残るので、古くからの集落があったものと考えられる。
 
遺構  明確な遺構は見当たらないが、青柳地区内を流れる久保川が湾曲した内側が川面より比高が2m程高くなっており、見晴らしもそれなりにある。戦国末期の屋敷なので構え堀などは無かった可能性もある。

城名 入曽屋敷 読み いりそやしき 入曽屋敷と思われる場所と少し折の入った道、手前には小川という小流が東へ流れる。
所在地 埼玉県狭山市南入曽
字的場・屋敷裏・出口
別名   コード 11_02_004_00200
築城年 不詳 主な城主 入曽十二衆
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
歴史
八王子城主北条氏照に仕えた武士団の屋敷
 戦国末期に小田原北条氏に仕えた武士集団「入曽十二衆」が住んでいたとされる。『新編武蔵風土記稿』南入曽村の項に、旧家者仁左衛門の祖先が入曽十二衆の一人小沢高中の子孫であると見られ、八王子城の北条陸奥守氏照に仕えていた事が分かる。北条氏滅亡後はそのまま当地に土着したものと思われる。
 余談であるが入曽の語源は入間からという説もあり、「入間」と草体で書いた所「入曽」と読み間違えられてしまい、それ以降入曽となったようである。そういった経緯からも入間の地とも言えそうである。
 
遺構  入曽駅より東に約00m程の所を鎌倉街道上道が通っており、「屋敷裏」「出口」「的場」の地名から考察すると、金剛院の東当たりに屋敷があったと考えられる。金剛院の前より東に向かって小川(こかわ)が流れており、その部分の道路がクランクしている。
 北側に不老(としとらず)川が流れているが、すぐに水が無くなってしまう欠水地帯為、鎌倉街道でもこのあたりは難所とされていた。にも関わらず「七曲の井」の様に深い井戸が掘られた事からも、昔からこの地は重要な地としての認識があった事を伺わせる。

城名 入間川御所 読み いるまがわごしょ 入間川御所推定地の現状、斜面は恵林寺の墓地で埋め尽くされている。
所在地 埼玉県狭山市入間川
字根曲輪?
所在地地図
別名   コード 11_02_004_00300
築城年 鎌倉期? 主な城主 足利左馬頭基氏
廃城年 不詳 形態 不詳
   
歴史
鎌倉を守護する入間川
 入間川は鎌倉街道上道にある要害として鎌倉時代末期より重要視されていた。元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉幕府を襲撃するにあたり、幕府側はこの入間川を拠点に迎撃する予定であったが、落ち度があり遅参した事によって新田軍の入間川渡河を許してしまい、小手指原の合戦にて合戦をするも敗北し、後日の鎌倉幕府滅亡のきっかけを作ってしまった。
 それだけに鎌倉方を守る者にとって上州の兵をこの入間川で迎撃できるかは、非常に重要事項であった事を示すといえる。
 
武蔵野合戦と入間川の地
 観応三年(1352・南朝歴正平七年)の「観応の擾乱」で足利尊氏・義直兄弟が骨肉の争いをしている間に、上州では新田義貞の遺児である義興・義宗兄弟が上州にて挙兵し、武蔵野合戦が勃発した。南朝方総勢十万騎の中には児玉党・丹党・村山党・横山党・猪俣党といった武蔵七党が含まれていた。
 鎌倉を脱した尊氏は石浜にて兵を整え、義興と義宗が南北に分かれたのを知ると北に居る義宗に狙いを定めて武蔵野へ出陣した。この時入間川を始め小手指原・高麗原でも激しい戦闘が行われ、結果北朝の尊氏が勝利して義宗軍は鳩山町の笛吹峠へ退いた。この報を聞いた鎌倉の義興ら将兵も相模の河村城へ退いた後に越後へと落ちていった。
 南朝方には上記に挙げた武蔵七党が付き、北朝方には河越・江戸・豊島・高麗・金子・高坂らが付いたこの武蔵野合戦は、武蔵武士同士の熾烈な戦いでもあった。
 
足利基氏、数万騎で入間川に滞陣
入間川御所推定地より北方を望む、写真下は恵林寺本堂。 文和四年(1355)尊氏は四男の左馬頭基氏(当時一四歳)を入間川に派遣して鎌倉守護とする事にした。これには執事畠山国清ら相模・武蔵の武士が付き添い、入間川にて南朝方の動きをけん制した。数年間多くの武士が入間川に滞在していた事が手伝って、当入間川の発展の基礎を築いたと思われる。
 後年、基氏が入間川の地を去った時期については諸説があり、新田義興が謀殺された延文三年(1358)辺りと思われていたが、『狭山市史 通史編T』では『鎌倉大日記』において康安元年(1361)に畠山国清が基氏の勘気を被り、一回鎌倉に逃げた後伊豆へ逃れた事を入間川退去の時期を示しているとしている。つまり国清が一度鎌倉へ逃れたのも基氏が入間川に滞陣していたからとしている。
 基氏が去ったのち、付き添った武士たちも去って再び入間川の地は元の状態になったと思われる。
 
遺構  足利基氏が滞陣していた場所は諸説があり、もっとも有力なのが市内の徳林寺であるとしている。同寺は入間川が構築した自然堤防上に位置し、北側の眺望は大変良い。この立地条件から見ても本陣を置くのに適した場所であったと言える。
 直接遺構と言える地形は市街化などによって失われているが、徳林寺付近の「根曲輪」という地名のみがそこに本陣があった可能性を示している。

城名 柏原氏館 読み かしわばらしやかた 現在の柏原字上宿の遠景
所在地 埼玉県狭山市柏原
字上宿
 
別名   コード 11_02_013_00400
築城年 不詳 主な城主 柏原太郎
廃城年 不詳 形態 館?
    
歴史
畠山重忠に従う五騎の一人
 柏原氏は『武蔵七党系図』において丹党に名を連ねる武士であるが、その系図が明らかになっていない。
 『吾妻鏡』によれば柏原太郎は畠山次郎重忠の配下の武士であったようで、長野三郎重清(重忠の弟)、大串小次郎重親(重忠が烏帽子親)、榛沢六郎成清(重忠の乳母兄弟)、本田次郎親常(重忠の遠縁)らと共に、頼朝の進発の先陣を務める重忠に従う五騎の一人として名を連ねている。
 しかし柏原太郎の記述はこれだけで、いつの間にかその活躍を見ることができなくなっている。
 
遺構  居館推定地である字上宿は鎌倉街道上道の枝道が通過する地点で、今でも古くからの集落密集しているため館跡の場所すらも分からなくなってしまっている。

城名 柏原城 読み かしわばらじょう 脇の桜に彩られた柏原城
所在地 埼玉県狭山市柏原
字城の越
所在地地図
別名 上杉砦・城山砦 コード 11_02_004_00500
築城年 室町期? 主な城主 山内上杉憲政
廃城年 不詳 形態 崖端城
   
歴史
度重なる戦場になった砦
 いつ頃からこの砦があったのかは定かではない、一説によれば入間川御所を守る砦の一つともされているので、おそらくその頃からこの地は陣屋として活用されていたと思われる。眼下の入間川は鎌倉防衛拠点の一つとされ、この地は入間川を挟んで南がよく見渡せるので、古くは新田義貞らがこの砦を一時的に利用した可能性は充分考えられる。ただ、文献には足利基氏が入間川御所に在陣するまで合戦があったという記録は残されていない。
 
山内上杉氏による河越城奪還戦の砦
 天文十四年(1545)から小田原北条氏によって奪われた河越城を取り戻すべく、扇谷・山内上杉両氏と古河公方足利晴氏らが総勢八万の軍勢をもって河越城へ押し寄せた。その際当城は山内上杉憲政が小田原方に対する備えとして入城したとされる。
 この時河越城には福嶋綱成以下三千名のみであった。翌年十五年四月になり小田原北条氏三代目氏康は八千の軍勢を引きつれて武州府中に着陣したが、これでもまだ寡兵であった。そこで氏康は足利・上杉ら連合軍に対して戦を仕掛け、その度に敗れて引くという作戦を繰り返し、ついには降伏を申し込む。
 「既に勝敗は決した」という雰囲気が連合軍に蔓延し油断した所を氏康は見逃さなかった。四月二十日の夜に寡兵を持ってして連合軍を襲撃、連合軍八万は不意を突かれて混乱し、更に城内からも福嶋綱成が討って出て来た事によりまともな戦もできず敗走、この柏原城もまたこの夜戦において落城したという。
 
遺構
 周辺の遺構は農地化されて喪失しているものの、主郭部分はよく現存しており狭山市内でも良好な保存状態で残る。『新編武蔵風土記稿』の絵図には西側に二重の土塁が表現されているというが、今は見る事ができない。
 現在残されている遺構を見ると、主郭を取り巻く土塁と堀は三ヶ所突出させ折をつけており、攻め手に対して横矢(横からの攻撃)を掛けられる戦国期頃の築城技術が用いられている。
 規模は小さいながら巧妙であり、見ごたえのある遺構である。

城名 小山ノ上遺跡 読み こやまのうえいせき 小山ノ上遺跡の現状、写真右側の道路となった場所より堀と虎口と思われる土橋が発掘されている。
所在地 埼玉県狭山市柏原
字小山上
所在地地図
別名   コード 11_02_004_00600
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
発掘と共に現れた伝承不明の館
 道路造形前の発掘調査にて現れた遺構で、県道堀兼根岸線敷設の際その一部において発見されたものである。入間川を望む台地上において堀跡とそれに付随して掘立柱遺構を含んだ柱列が発見され、その性格上城館跡としての可能性がより深まり、新たに「小山ノ上遺跡」と名づけられた。
 堀跡より青石塔婆も三基発見されており、いずれも貞和五年(1349)、延文三年(1385)、応永十六年(1409)とある事からこの遺構が南北朝期に使用されていたと見られている。また、発掘された須恵器には「小山」と読みうる墨書土器が三点出土している事もあり、時代背景としては足利基氏の入間川御所在陣の頃、下野の小山氏にゆかりのある遺構であった可能性がある。
 
長沼氏と小山坊
 当柏原郷は柏原氏の領地であったが、畠山重忠の非業の死と共に柏原氏も姿を消した。代わりに下野国小山氏の庶流である長沼氏が深く関わってくるようになる。
 長沼氏は小山朝政の弟である五郎宗政が現在の栃木県真岡市(旧芳賀郡ニ宮町)長沼に所領を持っていた事から長沼氏を称するようになった。建暦三年(1213)二俣川で死した畠山重忠の末子重慶が日光山麓で謀反を企てているという知らせが幕府に届き、この長沼宗政が重慶を討ち果たしている。後に寛喜二年(1230)の長沼宗政書状に嫡子時宗に所領を譲る旨を書いた折、武蔵国柏原郷と出てくる事から当時柏原郷は宗政の所領であった事がうかがえる。
小山坊は民家の庭先に「山王薬師」と名を変え今もある。  上宿集落は崖を境に下宿集落と分かれており、境界となるはけ下には小山坊と呼ばれる堂宇があるという。建久の頃(1190〜1199)小山朝政は眼病を患っていた。朝政は保養の為領地下野国に帰る途中でこの地に野営し、夢の中でこの地に霊水がある事を知った。翌日、野営地側の盛土を掘ってみると薬師如来像が出土し、更に霊水も噴出した。これにより朝政の目も回復したので一宇を建立したのだという。
 これらの事を見ると柏原郷が鎌倉期には小山氏と深い関わりがあった地域であった事が分かる。
 
遺構  発掘された遺構は現在県道造成の際掘り下げられて喪失している。柱列のあった場所は現在は宅地となっており埋没している。

城名 馬智屋敷 読み まちやしき 馬智屋敷があったと推定される場所の遠景
所在地 埼玉県狭山市青柳
字東馬智屋敷・西馬智屋敷
別名   コード 11_02_004_00700
築城年 不詳 主な城主 馬智木太郎
廃城年 不詳 形態 屋敷
    
歴史
地名にのみ名を残す謎の屋敷 
 小流である久保川沿いに屋敷があったと言い、そこには馬智木太郎が住したとの事である。しかし、彼の人がいつの時代の人物か不明である。
 
遺構  現在古くからの宅地となっており、明確な遺構を発見する事ができなかった。しかしながら道路の形状にやや特徴があり、一部折のある道路の辺りが屋敷の範囲を示しているのではないかと思う。

城名 三ツ木氏館 読み みつぎしやかた
所在地 埼玉県狭山市東三ツ木
字上ノ屋
別名   コード 11_02_002_00800
築城年 南北朝期 主な城主 金子和泉守国重
廃城年 不詳  形態
    
歴史
名門金子氏の一族
 三ツ木氏は元々武蔵七党村山党の金子氏から出たとされる。鎌倉幕府が滅亡し、和泉守国重は金子領三ツ木村(現在の入間市西三ツ木)に落ち延び、そこで名を三ツ木和泉守国重に改めたという。
 更に国重は当地に来て開発に勤しみ村落をなした。この事から開発領主である国重の姓を取って三ツ木村とした。後年近くに同じ三ツ木村があるのが不便で紛らわしいので頭に東・西を付けて分別するようになった。
 
遺構  現在当地は鉄道が通った事もあり、開発が著しく遺構を見る事は難しい。

城名 義貞砦 読み よしさだとりで
所在地 埼玉県狭山市柏原
字御所ノ内
所在地地図
別名   コード 11_02_004_00900
築城年 鎌倉末期? 主な城主 新田義貞
廃城年 不詳 形態 不詳
   
歴史
倒幕軍の砦
 上州の新田義貞が鎌倉幕府討伐の際に利用したとされる。しかし幕府側に入間川に着陣される前に入間川を渡河し、小手指ヶ原(現所沢市)で合戦をしているので、この地に滞在していた時間はごく短かったものと思われる。
 小字「御所ノ内」の名称もあるように、ここは足利尊氏の四男基氏の入間川御所の候補地の一つともされている。しかし、ここに基氏が陣を構えたとすれば背後に入間川のある「背水の陣」となってしまう為、高台で北方の見通しの良い入間川御所に構えていたと考える方が自然であると思える。
遺構  砦は現在農地および宅地となり見る影もない、しかしこの周辺で最も高いところに所在しており、戦の際の陣地としては最適な地形を抑えている。鎌倉街道の枝道が東に150mほどの所を通っていたとされており、
 なお、これより北に600mほど行った所に土塁らしき小塚も残されているが、こちらの使用用途などに関しては不明である。

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<<主要参考文献>>
狭山市史 通史編 T 狭山市 (1996)
狭山市史 中世資料編 狭山市 (1582)
狭山市史 地誌編 狭山市 (1989)
武蔵国柏原郷と小山一族 吉田 弘 著 (1994)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)