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所沢市(ところざわし)
 埼玉県南西部に位置する都市。東京都心から近距離という事もあって、開発は早くから進んでいる。それだけに城館跡の保存状態はあまりよくない。

 古くは鎌倉街道上道が走り、現市街地は柳瀬荘とも呼ばれ、室町期においては「野老沢(ところざわ)」という呼び名であったようである。中世においては武蔵七党の一つである村山党が勢力を伸ばしており、領主に山口氏とその支族が柳瀬川流域を支配していたようである。
 戦国期においては東に大石氏により滝の城が作られ、この近隣においては要衝の地となっていた。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
北秋津城 滝の城 勝楽寺城 山口城
久米氏館 荒波多氏館    
城館遺構まがい編(下記は全て仮称です)
上安松屋敷 牛沼屋敷 上山口館 近衛殿屋敷
北野中丸 北野館 北野西館 神米金館
坂之下館 日比田中丸 日比田屋敷 本郷名古屋
三ヶ島館 堀之内館 海谷館
↓市内の城館所在地図です。城館名をクリックするとリストに移動します。(工事中)


薄黄色の城館が本サイトにおける城館まがい地となります。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 北秋津城 読み きたあきつじょう
 
所在地 埼玉県所沢市北秋津
字峰際
所在地地図
別名 大堀山館 コード 11_02_002_00100
築城年 鎌倉期? 主な城主 久米氏?
廃城年 不詳 形態 砦?
   
歴史
歴史経緯が不明の遺構
 歴史背景が不明な館跡である。 
 「柳瀬川流域の歴史と文化」の著者である栗原仲道氏はここを大石遠江守信重の館としている。
遺構

城名 滝の城 読み たきのじょう
 
所在地 埼玉県所沢市城 所在地地図
別名 本郷城 コード 11_02_002_00200
築城年 室町期? 主な城主 大石信濃守重定
廃城年 戦国末期 形態 崖城
   
歴史
武蔵守護代大石氏
 滝の城とは雅名(風流な呼び名)であり、通常は「本郷城」と呼ばれていた説が強い。城内に一筋の滝があり、そこから「滝の城」という呼ばれ方をされ一般化したようである。築城された時期については詳しくわかっていないが、間宮士信編纂の『小田原編年録』において大石氏が住んだとされ、大石信濃守定重がこの滝の城に住んでいたという説がある。
 大石氏は清和源氏木曽義仲の子孫であるという。義仲より七代後裔にあたる大石遠江守重信は木曽讃岐守家教の三男で、関東管領上杉憲顕に仕えていた。観応二年(1351)新田義宗が上野国で挙兵して鎌倉へ攻め寄せた武蔵野合戦の時には、先陣として比企郡笛吹峠にて新田軍と交戦した。その戦功として延文元年(1356)に足利基氏(室町幕府初代将軍足利尊氏の四男)より入間・多摩地方十三郷を拝領し、武蔵国目代職に任命されると共に武蔵国守護代になった。
 以後、重信は二宮(現在の東京都あきる野市二宮)に住んだと考えられ、武蔵国守護である上杉氏の命令を下位の者に通達する文書が残されているという。そして上杉氏の権力を基に武蔵南部の在地中小武士団である「武州南一揆」を掌握して、それを軍事基盤としたという。
 大石重信から始まった武蔵国守護代の地位は子の憲重、孫の憲儀と続いたが、永享十二年(1440)に憲儀が死去すると武蔵国目代職と守護代の地位は長尾景仲がなり、更に憲儀の子房重は関東管領上杉氏の下で、享徳四年(1455)に古河公方足利成氏方と分倍河原にて交戦し戦死してしまった。
 その後房重の子である顕重は根拠地を二宮から要害である高月城(東京都八王子市高月町)に移し、顕重の子定重は若き頃はこの滝の城に在城し、父の跡を継いで七年経過した永正十八年(1521)に高月城より滝山城(東京都八王子市高月町)へと本拠を移したという。
大石氏の衰退と北条氏の侵攻
 大石定重の跡を継いだ定久の代に天文十五年(1546)の河越夜戦が起こる。この戦いで主君である上杉氏連合軍が敗れると、大石氏の領地にも小田原北条氏の脅威が及んできた。大石氏は他の戦国大名のように在地土豪を直接家臣化する事ができておらず、背後に存在していた関東管領上杉氏が居なくなった時点で北条氏に屈しざるを得なかったのである。
 かくして大石定久は北条氏に降伏し、当主北条氏康の次男である氏照を養子にする形でその跡と滝山城を氏照に譲り、戸倉(東京都あきる野市戸倉)へ隠居した。こうして滝の城は北条氏照直轄の支城となった。
 北条氏の勢力が北に伸びるにつれてその領内に位置する滝の城の軍事的役割は一旦終わりを告げる。その間は清戸(東京都清瀬市中清戸)番衆の緊急事態の起きた時に使用されるいわば「詰の城」として交代で番をしていた文書が残る。
八王子城の支城としての落城
 天文十八年(1590)に豊臣秀吉による関東討伐が開始され、北条方である滝の城にも戦火が及んできた。八王子城同様にこの城でも篭城戦が行われたが多勢に無勢、八王子城より先に落城してしまったようである。
 かくして滝の城はその役割を終え、城は廃された。
 
遺構  現在本曲輪であった「城山神社」付近を中心に「滝の城址公園」として一部整備されて、遺構が見易くなっている

城名 勝楽寺城 読み しょうらくじじょう
 
所在地 埼玉県所沢市勝楽寺
字根古屋
所在地地図
別名 根古屋城
竜谷城
コード 11_02_002_00300
築城年 戦国期 主な城主 山口小太郎高忠
廃城年 不詳 形態 山城
   
歴史
山口氏の詰めの城
 『所沢市史 上巻』において諸説があるが村山党山口氏の所領である事から、山口氏による築城であると推定している。『山口氏系図』によれば山口小太郎高忠が明徳から応永の頃(1390〜1428)に築城したとも書かれている。
 後年高種の代には小田原の北条氏康が北上してきたので、それと戦ったものの破れて以後山口氏は北条氏の従属する事になった。それに伴い周囲に堀と土塁が築かれ、遺構がより複雑になったと見られる。
 その後も山口氏一族が山口領を支配し続けたようで、山口平六が山口内の大鐘・藤沢分・小野分四十貫文を領していた。また、山口平四郎資信が北野天神社の縁起を元亀三年とした表装修理を行っている。城自体は戦国末期まで使用され、周囲の城同様に天正十八年(1590)小田原北条氏が滅亡した後に廃城になったと思われる。
 この城の周辺には築城者である高忠の名を採った「小太郎坂」や、殿様の領地や居館があった時に名づけられる「殿ヶ谷」という地名があったという。
遺構
 現在は山口貯水池敷地内になって立ち入る事はできなくなっている。それゆえに浸水していない所に関しては保存状態は良好であるようだ。
 『所沢市史上巻』によれば、山口貯水池に突出した尾根上に主郭を囲むように空堀や土塁があったとされ、陸続きである北尾根沿いには竪堀などの防衛設備が見られるという。主郭の東には「東郭」を配し、北西側には「馬出郭」を配置するなど北条氏による改修工事が見られるという。
 なお、他の文献やサイトにおいては「根古屋城」と記載されている事が多いが、当サイトにおいては他の根古屋城との混同を防ぐため「勝楽寺城」の名称を使用している。

城名 山口城 読み やまぐちじょう
 
所在地 埼玉県所沢市山口
字児泉
所在地地図
別名 児泉城 コード 11_02_002_00400
築城年 平安末期 主な城主 山口小七郎家継
廃城年 戦国期? 形態
   
歴史
村山党山口氏の居館
 旧打越村内にあった村山党山口氏の館跡である、字の児泉は(ちごいずみ)と読む。
 山口氏は村山党の村山頼家の子家継が、山口の地に住したことより発する。戦国期には勝楽寺城(根古屋城)へ移ったとされている。
遺構  現在残っている土塁は戦乱の時代に規模を拡張した物で、市街地となった現在でもその一部がかろうじて残されている。

城名 久米氏館 読み くめしやかた
 
所在地 埼玉県所沢市久米?  
別名   コード 11_06_002_00500
築城年 不詳 主な城主 久米右近将監家時
廃城年 不詳 形態
   
歴史
村山党久米氏の館跡
 久米氏は村山党の出身である。山口氏の祖である六郎家俊の孫に家時が居り、この家時が久米の地に住み、その地名を姓とし久米右近将監と名乗ったのが始まりであるという。しかしその活躍に関しては『吾妻鏡』などの軍記物には名が無く、以後の久米氏の動向は明らかになっていない。
 『太平記』において鎌倉幕府勢が久米河にて陣取り上州新田勢を迎え撃った事が描かれている事からも、鎌倉街道上道沿いであった事からこの地は度々戦火に晒されていたと思われる。
遺構  久米氏の遺構については謎が多く、その所在地も明らかになっていない。久米地区は現在埼玉県の久米と東京都の久米川に別れているが、東京都の「久米川」は「久米側」とも取られる事から、東京都側に館跡があったのではという説が有力視されている。

城名 荒波多氏館 読み あらはたしやかた
 
所在地 埼玉県所沢市荒幡
字本村
別名   コード 11_02_002_00600
築城年 不詳 主な城主 荒波多三郎
廃城年 不詳 形態
   
歴史
村山党荒波多氏の居館
 荒波多氏は村山党山口氏の出で、祖山口七郎家継の曾孫である某(名前不明)が当地に住み荒波多三郎を称したという。しかしその後の活動などについては文献が乏しくよく分かっていない。
 後に南朝歴正平年中(1346〜1369)に信越の諸氏と共に当地にて南朝勤王の兵を挙げた山口高清はこの荒波多氏の子孫であるといい、のちに北朝の足利氏によって攻め滅ぼされてしまったという。
遺構  現在の本覚院の西に「藤の木戸」と呼ばれる場所があり、この本覚院が荒波多氏の居館であったのではないかと言われている。

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<<主要参考文献>>
所沢市史 上 所沢市 (1991)
柳瀬村・松井村・吾妻村郷土誌
(所沢市史調査資料別集4)
所沢市 (1982)
所沢市史 地誌 所沢市 (1980)
柳瀬川流域の歴史と文化 栗原仲道 著 (2000)
志木市史 通史編 上 志木市 (1990)
軍記 武蔵七党 上巻 川又辰次 著 (1985)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)

中世城館遺構まがい編
 <注意>下記の場所に関しては、管理人が様々な地名・地形・立地条件などにより、推定した城館遺構の可能性を示唆しているものであり、必ずしも城館跡とは限らない事を最初に断っておきます。


城名 上安松屋敷
(仮称)
読み かみやすまつやしき  
所在地 埼玉県所沢市上安松
字屋敷前
別名   コード 11_02_002_10100
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  柳瀬川のほとりにあると想像される屋敷。詳細については一切不明。


城名 牛沼屋敷
(仮称)
読み うしぬまやしき
 
所在地 埼玉県所沢市牛沼
字屋敷脇
別名   コード 11_02_002_10200
築城年 不詳 主な城主  
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  神明神社西側に「屋敷脇」という地名を残す。東川が蛇行して流れているのを利用して作られた江戸期の名主屋敷であろうか?


城名 上山口館
(仮称)
読み かみやまぐちやかた
所在地 埼玉県所沢市上山口
字中内手
別名   コード 11_02_002_10300
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳  形態 館?
    
備考  旧大鐘村地内に「中内手」という地名あり、山口氏に関連した館であろうか?背後の「竜神社」は一段と高く、勝楽寺城の支城として死角を補う為に活用していた可能性も考えられる。


城名 近衛殿屋敷
(仮称)
読み このえどのやしき
 
所在地 埼玉県所沢市勝楽寺
別名   コード 11_02_013_10400
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館?
    
備考  勝楽寺の大坊の南の山に同地名があったという。現在山口貯水池敷地内で立ち入れない為、遺構が残っているか確認できていない。


城名 北野中丸
(仮称)
読み きたのなかまる   
所在地 埼玉県所沢市北野
字中丸
(現在:小手指南四丁目変更)
別名   コード 11_02_002_10500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  柳瀬川のほとりにあると想像される屋敷。詳細については一切不明。現地は東に延びた舌状台地上にあり、北側の河川が削った地形を背後とした可能性もある。


城名 北野館
(仮称)
読み きたのやかた
  
所在地 埼玉県所沢市北野
字西内手
(現在:北野南一丁目に変更)
別名   コード 11_02_002_10600
築城年 不詳 主な城主  
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  全徳寺付近の台地を利用したと思われる場所。南東部分のみが尾根続きであるが、それ以外は周囲は3〜4m程高くなっている。


城名 北野西館
(仮称)
読み きたのにしやかた
  
所在地 埼玉県所沢市北野
字後内手
(現在:北野南三丁目に変更)
別名   コード 11_02_002_10700
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳  形態 館?
    
備考  南側から伸びる舌状台地上に「後内手」と「前打手」という地名を残す。台地の中央部分にある茶畑は南以外周囲より高くなっている。南側が追手口か?


城名 神米金館
(仮称)
読み かめがねやかた
  
所在地 埼玉県所沢市神米金
字内手
別名   コード 11_02_013_10800
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館?
    
備考  鎌倉街道堀兼道沿いに隣接した箇所にあるが、開発が進み遺構を思わせる地形は見当たらなかった。近くに砂川という小川が流れる。


城名 坂之下館
(仮称)
読み さかのしたやかた   
所在地 埼玉県所沢市坂之下
字乙館出
別名   コード 11_02_002_10900
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  柳瀬川流域にあり、「館出(たてだし)」という地名も伝わる。滝の城とは東川を挟んで東向かいに位置する為、支城であった可能性も考えられる。


城名 日比田中丸
(仮称)
読み ひびたなかまる
  
所在地 埼玉県所沢市日比田
字中丸
別名   コード 11_02_002_11000
築城年 江戸期? 主な城主  
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  陣城などで付けられる「中丸」が地名に残るのみで、特に遺構を見る事ができなかった。


城名 日比田屋敷
(仮称)
読み ひびたやしき   
所在地 埼玉県所沢市日比田
字屋敷前
別名   コード 11_02_002_11100
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳  形態 館?
    
備考  東川のほとりに「屋敷前」の地名を残す。


城名 本郷名古屋
(仮称)
読み ほんごうなごや
  
所在地 埼玉県所沢市本郷
字名古屋
別名   コード 11_02_013_11200
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館?
    
備考  東所沢駅南には「名古屋」の地名を残す。おそらくは滝の城の根古屋があった場所であろうと予想される。


城名 三ヶ島館
(仮称)
読み みかじまやかた   
所在地 埼玉県所沢市三ヶ島
字内手
別名   コード 11_02_002_1130
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  寶玉院周辺に「内手」の地名を残す。北側は砂川によって天然の堀を持っている。また、更に北の三ヶ島農協付近は勝楽寺城の馬場であったという。


城名 堀之内館
(仮称)
読み ほりのうちやかた
   
所在地 埼玉県所沢市堀之内
別名   コード 11_02_002_11400
築城年 不詳 主な城主  
廃城年 不詳 形態 屋敷?
    
備考  狭山丘陵より発した尾根筋を利用した館跡だと思われる。背後には物見に適した尾根が控えており、東から北の眺望に優れる。
 現在は宅地化され、痕跡の詳細は不明。


城名 海谷館
(仮称)
読み かいとやかた
  
所在地 埼玉県所沢市北野
字海谷
別名   コード 11_02_002_11500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳  形態 館?
    
備考  海谷(かいと)の音が武士の住処であった「垣戸」に通じる事からいずれかの武士が住んでいた可能性がある。
 北野地区の南端の椿峰周辺にあったとされる。昭和20年代までは土塁が残っていたというが、その後の住宅整地により遺構は消滅した。