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吹上町(ふきあげまち)
 埼玉県北部に位置していた町で、北足立郡の最北部に位置していた。古くから陸道や河道が交錯する土地柄であり、現在も国道17号線やJR高崎線などの縦走する。現在は鴻巣市と合併をし、鴻巣市吹上地区となっている。

 中世期は町内に津之戸氏が居住していたとされるが、どちらかと言えば北の忍領(現行田市)との関わりが強く、戦国末期に豊臣秀吉による小田原攻めの際には、石田三成が二万六千の兵を率いて忍城を水攻めする為に築いた石田堤の一部が町内を通っており、現在も部分的に残している。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
1:大芦館
2:小谷城
3:霜田氏館
4:角戸館
5:吹上砦
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 大芦館 読み おおあしやかた
 
所在地 埼玉県鴻巣市
吹上大芦字中内手
所在地地図
別名   コード 11_01_017_00100
築城年 室町期 主な城主 堀口行義?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
新田一族である堀口氏隠棲地
 かっての大芦村には南朝方の新田氏遺臣である堀口行義が住み着いたという言い伝えがある。堀口氏は清和源氏新田氏の出で、大舘宗氏の兄堀口次郎貞氏が現在の群馬県太田市(旧新田郡尾島町)堀口に住んでいた、その孫には堀口貞満・行義兄弟がおり、元弘三年(1333)の新田義貞の挙兵には堀口党を率いて義貞に従軍している。後年足利尊氏が台頭し、新田義貞は延元三年(南朝歴・1338)に越前国にて戦死すると堀口兄弟は離れ離れになり、弟の行義は新田庄に戻り再起を図ったという。
武蔵野合戦とその後
 正平七年(南朝歴・1352)足利尊氏は弟直義と対立して混乱しているのに乗じて新田義貞の遺児義宗・義興兄弟が挙兵し、宗良親王を奉じて鎌倉に攻め入ったが尊氏の戦術に翻弄されて比企郡嵐山町の笛吹峠将軍沢に退いた。この時入間野で百姓をして隠れ住んでいた行義の兄堀口貞満が陣所に現れて、我が子を連れて故郷堀口へ帰ってくれるよう頼みに来たという。
 この後南朝方には利が無く大敗し、大将新田義宗は越後国へ走り、行義は甥を連れて堀口へ目指したが足利方の追及が厳しく故郷に帰る事が出来なくなってしまった。止むを得ず迷い込んだ大きな芦の原であった当地大芦に隠れ住み、この辺りを開発する事になったという。
 
遺構  

城名 小谷城 読み こやじょう 現在の小谷城があったとされる地は堤防内になっている。
所在地 埼玉県鴻巣市
吹上小谷字城山
所在地地図
別名 小屋城 コード 11_01_017_00200
築城年 戦国期? 主な城主 小宮山内膳
小宮山弾正
廃城年 不詳 形態
   
歴史
忍城の支城
 『新編武蔵風土記稿』小谷村旧跡の項に「城山と呼べる所なり」と載せ、小宮山内膳が住していたと伝える。しかしながら小宮山内膳という人物がいつ頃の人なのかは今も不明である。「吹上町史」ではこの内膳の子孫に小宮山弾正という人物がおり、弾正は小田原の役の際に成田氏長に従って小田原城に入城した事から、小宮山氏支配において最後の人物であると指摘する。
(戸塚村にも小宮山氏がおり、戸塚城に住する)
 「成田氏分限帳」に小宮山弾正の名が残されている事からも、当城は忍城成田氏の支配下にあったと思われ、天正十九年(1591)に成田氏が下野烏山城に転封された時に、小谷城もその役割を終えて、廃城になったと思われる。
 元々は「小屋城」と言ったそうだが、それが転じて「小谷城」になったと言われる。
 
遺構  現在荒川の堤防内にあったとされ、度重なる大水によって城の遺構は壊滅的破壊をこうむっており、荒地と宅地に変わっている。かろうじて堤防脇に城の堀が僅かに残る程度である。

城名 霜田氏館 読み しもだしやかた 霜田氏という武士が住んだとされる地と手製の解説板。
所在地 埼玉県鴻巣市
吹上下忍字角戸
所在地地図
別名   コード 11_01_017_00300
築城年 戦国期 主な城主  
廃城年 不詳 形態
   
歴史
謎の武士霜田氏
 「埼玉の古城址」様より情報提供を受けて調査した館跡で、町史およびその他の資料にはその名を見られない。有志の方により立てられた自作の案内板に詳しい経歴が書かれる。
 
遺構  周辺は農地と宅地になっており、城館に関わるような遺構は見つける事ができなかったが、旧家も多くあり古くから集落のあった事を伝える場所である。

城名 角戸館 読み つのとやかた
津之戸氏が居館としていた場所の有力候補地。
所在地 埼玉県鴻巣市
吹上下忍字角戸
所在地地図
別名 津之戸氏館 コード 11_01_017_00400
築城年 平安末期 主な城主 津之戸三郎為守
廃城年 不詳 形態
   
歴史
鎌倉武士津之戸氏の館
 津之戸三郎為守は源頼朝に仕えた武士である。津之戸氏は常陸国司であった菅原孝標の子次郎為広が津之戸氏を名乗って興ったと見られ、三郎為守は次郎為広の子である。
 この為守は「新編武蔵風土記稿」などには多摩郡上保谷村(現在の東京都西東京市)が出身地であるとされているが、「吹上町史」は出身地を名に載せるしきたりがあった事を挙げ否定している。
 その後の津之戸氏の足取りは資料などが残されておらず、不明である。
 
遺構  現在、館跡は宅地化および農地になっているが、宅地は周辺の水田より一段高い所にあって古の屋敷の趣がある。しかしながら明確な城館遺構は見当たらず、時代背景からも鎌倉期頃のごく簡素な館であったと思われる。

城名 吹上砦 読み ふきあげとりで 現在の吹上地区内、市街化が進み遺構を偲ぶ物は見当たらない。
所在地 埼玉県鴻巣市
吹上地区内?
 
別名   コード 11_01_017_00500
築城年 南朝暦弘和二年
北朝暦永徳二年
(1382)
主な城主 上杉朝宗
木戸範秀
廃城年 不詳 形態
   
歴史
小山義政討伐の陣地
 「埼玉県史」にその存在が書かれており、それによると天授六年(1380、北朝暦では康暦二年)六月に小山義政が宇都宮国綱と争い兵を集め、翌年弘和元年(1381、北朝暦では永徳元年)二月に鎌倉公方足利氏満配下、上杉朝宗と木戸範秀(範季とも)がこれを破り降伏させた。
 しかし、翌年に小山義政は再び下野国糟尾城(元栃木県上都賀郡粟野町、現在は鹿沼市で粕尾城とも書く)にて再び背いたために、朝宗と範秀の両将は武蔵白旗一揆(少数武士団の集まりで、旗が白かった事からこの名が付いた)と共に当吹上砦で軍備を整え、下野国に向かい小山義政を討ったのだという。
 
遺構  当砦は吹上村大字吹上にあったとされるが、現在はその所在地は不明である。当時より奥州道や信越道などの街道が交錯している地域だけに、交通の要衝であった。

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<<主要参考文献>>
吹上町史 吹上町 (1980)
吹上郷土読本 吹上町 (1991)
吹上地域の地名
(大字・小字)
鴻巣市コスモス大学校
第19期生
(2008)
吹上のむかしのはなし 吹上町 (1992)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)