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北本市(きたもとし)
 埼玉県東部に位置する都市で、大宮台地北部に位置する。東は元荒川により低地となり、西も荒川によって低地となっている。近世には中仙道の街道筋になっており、現在も都市化が進行している。以前の大字界は非常に複雑で日常生活に支障をきたす事が多い為、昭和四十年後半より地名番地事業を実施し、現在残されている大字はごく僅かになっている。

 中世期には歴史背景が資料に残されていない事が多く、当市に御家人石戸左衛門尉なる武士が登場する程度である。戦国期に入ってくると石戸城が松山城・岩付城・河越城の中間地点にあるので、数回戦場と化す事があった。また、鴻巣〜桶川にかけて「鴻巣七騎」なる在地土豪がいたといい、当市にも大島氏・加藤氏・深井氏らが居住していたと伝えられている。
 近世になると旗本牧野氏の知行地や天領となった。また中仙道の宿が置かれる事があったが、後年桶川〜熊谷の中間を鴻巣にする事が便利であるなどの理由で、現在の鴻巣市に宿を移転している。市名である「北本」は「北本宿」が短縮されて名づけられたものである。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:石戸氏館
 2:石戸城
 3:上手館
 4:榎戸館
 5:大久保館
 6:大嶋氏館
 7:大宮館
 8:加藤氏館
 9:八幡館
10:深井氏屋敷
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 石戸氏館 読み いしとしやかた
所在地 埼玉県北本市石戸宿字堀の内(現石戸宿三丁目) 所在地地図
別名 堀ノ内館
石戸堀の内館
コード 11_01_016_00100
築城年 不詳 主な城主 石戸左衛門尉
(源範頼?)
廃城年 不詳 形態
   
備考  石戸郷を所領した鎌倉幕府御家人である石戸左衛門尉なる武士の居館と伝わる。また口伝によれば蒲冠者範頼の城域であったと伝えるが、西の川向である吉見町にゆかりのある人物ゆえの言い伝えであるとも思える。明確な歴史を伝えない館ではあるが、遺された遺構の規模からしてかなり力を持った武士の館であった可能性が大きい。

 石戸神社を中心に館跡があったと思われ、神社の北側の雑木林の一部には堀の名残と思える窪地が見られる。また北里研究所メディカルセンター駐車場沿いの道にも館跡の名残を見る事ができる。各資料にあるように当遺構は上記の堀跡を北にしておにぎりの形に似た形状だったと思われる。

城名 石戸城 読み いしとじょう
所在地 埼玉県北本市石戸宿字城山耕地(現石戸宿六丁目) 所在地地図
別名 天神山城
足戸の砦
コード 11_01_016_00200
築城年 長禄年間?
(1457〜1460)
主な城主 藤田八右衛門
毛利丹後守
依田大膳亮
廃城年 戦国末期 形態 平山城
   
備考  石戸城は長禄年間に太田道灌によって築かれたと伝承があり、その家臣である藤田八右衛門が入城したという。『新編武蔵風土記稿』に大永五年(1525)、岩付城主太田資頼が岩付城を追われてこの城に落ち延びたと記されている事から、これ以前には石戸城があった事を物語っている。
 石戸は「石津」に通じる事から西の和田吉野川(現荒川)の渡河地点であり、また近くを鎌倉街道が南北に縦走していた事からも交通の要衝であった。それであるが故に各勢力の争奪の的となる事が多かった。
 『関八州古戦録』によれば永禄五年(1562)北条氏邦が秩父・鉢形勢を率いて、上杉方の毛利丹後守が守るこの城「足(石)戸の砦」を攻めている。この戦で北条方は東側の沼地に一晩で土橋を造り、これを使い城を攻めた。これが「一夜堤」と呼ばれるもので、現在もその堤は公園の歩道として残されている。落城後は北条氏家臣依田大膳亮が当城に入城したとあるという。
 天正十八年(1590)に徳川家康が関東に入国すると、石戸城は廃されたという。

 現在本曲輪付近は民家と雑木林になっていて、遺構の保存状態はあまり良い方ではない。今後発掘調査が行われる事となった場合、埋没した堀などから新たなる発見があるのではと期待の高まる城である。

城名 上手館 読み うわでやかた
所在地 埼玉県北本市古市場字上手
(現古市場一丁目、宮内五丁目)
所在地地図
別名 古市場古塁? コード 11_01_016_00300
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
備考  近年になるまで中世期の館であると認識されていなかった遺構で、歴史的経緯も所有者などの伝承も伝わっていなかった。地名である「ウワデ」が館、城に由来するものであると『北本市史第三巻下』では結んでいる。また、同書は『武蔵志』にある「古市場古塁」が当地である事も指摘している。

 当地は新日本ガス北本工場の敷地になっており、西の市道沿いには土塁と思われる土盛が(平成22年5月現在)フェンス越しに見学できる。

城名 榎戸館 読み えのきどやかた
所在地 埼玉県北本市下石戸下字蔵引 所在地地図
別名 北本40遺跡 コード 11_01_016_00400
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
備考  北本市の他の館跡同様ここも近年になり中世期の館跡であるという認識がなされるようになった場所で、この付近の通称「榎戸」より名づけられたのだという。『埼玉県の中世城館跡』などに書かれる「北本40遺跡」とはここを指す。この地の歴史的経緯については資料も伝承も伝わっておらず、未だに分かっていない。

 公団北本団地の東に江川の支流が流れており、突出した台地上に「コ」の文字を描くように堀があるというが、今現在未確認である。

城名 大久保館 読み おおくぼやかた
所在地 埼玉県北本市中丸 所在地地図
別名   コード 11_01_016_00500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
備考  歴史的経緯などを一切伝えていない遺構で、屋敷堀であったと思われる。

 県道蓮田鴻巣線が遺構を貫通するように敷設されており、すぐ南は桶川市になる。一見雑木林に見えるが比較的良い状態で堀が残る。

城名 大島氏館 読み おおしましやかた  
所在地 埼玉県北本市宮内  
別名   コード 11_01_016_00600
築城年 永禄七年頃
(1564)
主な城主 大島大膳亮久家
廃城年 不詳 形態
   
備考  大島氏は『大島氏系図』によると清和源氏の流れを組み、その祖を新田太郎義重の孫である里見伊賀守義成の子大島修理亮時継としている。大島氏は新田義貞に仕えて上州新田郡大嶋村(旧尾島町か?)に住み、新田氏が滅亡した後は大嶋村にて代々潜伏していたという。後に小田原北条氏が隆盛を増すと、大嶋土佐守の二子大炊介と大膳介は北条氏康に仕える事になり、後年武州箕田郷鴻巣庄を与えられ、開拓するようになったと代々言い伝えられてきたという。
 また、『新編武蔵風土記稿』によると伊豆国大島を本国としており、永正・大永(1504〜1527)の頃に小田原北条氏に仕えたという。大膳亮久家の代である永禄七年(1564)に感状を賜って、その頃に鴻巣領宮内村に移り住んだのだという。この大膳亮久家には実子がおらず、土佐守善久の三男を養子に迎えて、大膳亮重富と名乗らせたのだという。
 大島大膳亮(重富?)は岩付城主太田十郎氏房に仕え、後に大島大炊介・矢部新左衛門・矢部兵部・小川図書らと共に帰農したという。

 宮内地内は開発が著しく進み、大島氏が居館としたその地もどの辺りであったのか分からなくなっている。

城名 大宮館 読み おおみややかた
所在地 埼玉県北本市高尾字大宮
(現高尾六丁目)
所在地地図
別名 阿弥陀堂遺跡 コード 11_01_016_00700
築城年 鎌倉期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
備考  今まで記録に残されてなかった館で、平成四〜五年にかけて発掘調査を実施した所、館跡に伴う規模の大きい堀が発掘された。該当地に小字大宮があったのでそれにちなみ「大宮館」という名称が付いた。
 立地としてはこの辺りは大宮台地の最高所に位置する場所で、西眼下には荒川(当時の和田吉野川)を見下ろす絶好の地形にあり、鎌倉街道の枝道が南の石戸郷から北上してきている事を踏まえると、この地もまた交通の要衝であった事が窺える。
 発掘の結果は二重の堀が検出され、外堀の断面は「箱薬研堀」で、幅4.1m深さは2mの大型なもので、一部を掘り残して土橋をなしていたという。31mほどの空間(曲輪か?)を経て内堀があったという。また、出土品として輸入量が少なく高価であったとされる中国竜泉窯系の「青磁片」が発掘されており、これらから館は一三世紀には使われていたのではないかと推定されている。

城名 加藤氏館 読み かとうしやかた
所在地 埼玉県北本市 所在地地図
別名 幸左衛門屋敷 コード 11_01_016_00800
築城年 戦国期 主な城主 加藤修理亮宗安
廃城年 不詳 形態
   
備考  加藤氏は岩付太田氏に仕えた小池氏から出ており、小池長門守久宗の次男修理亮宗安が当地に住み、訳があって母方の姓である加藤を名乗った事から始まるという。この加藤修理亮は岩付太田氏に仕えた「鴻巣七騎」の一人にも数えられていて、当地の在地土豪として活躍していたと思われる。
 以後子孫は帰農してこの地に住み続けており、『新編武蔵風土記稿』に記載されている旧家幸左衛門なる人物は、先の修理亮宗安の子孫であるという。

 幹線道路である国道17号バイバス沿いにありながら、当地は水田耕地が比較的残されている。子孫である加藤氏の敷地にはかっての堀跡と言われる40mほどの溝が残されていて、昭和20年頃には今よりよく堀が残っていたという。また、東の安養院も屋敷の一部であったとされている。

城名 八幡館 読み はちまんやかた
所在地 埼玉県北本市山中字八幡
(現本宿五丁目・山中二丁目)
所在地地図
別名 伊奈代官屋敷 コード 11_01_016_00900
築城年 不詳 主な城主 伊奈氏?
小川図書?
廃城年 不詳 形態
   
備考  歴史的経緯は不明だが、伝承によれば伊奈氏が居館としていたという。また堀跡もまた残されていたという。一説には伊奈氏が一時的にここに住んだともされているが、むしろ伊奈氏より派遣された代官の屋敷と見た方が良さそうである。
 『大島氏系略』による言い伝えでは小田原北条氏が滅亡した時、「鴻巣七騎」の一人である小川図書が、当山中村に帰したと伝えている。その小川図書が帰農した場所が仮説になるが、当地である可能性も残されている。

 山中の地名は雑木林の中である意味が込められていると思うが、現在では宅地および耕地になっており以前の面影を残していない。館跡推定地の中央を今は国道17号が貫通している。
 『北本市史第三巻下』の掲載地図では「北本青果市場」が館跡内にあるが、現在は六階建てのマンションになっている。

城名 深井氏屋敷 読み ふかいしやしき
所在地 埼玉県北本市深井 所在地地図
別名 対馬屋敷 コード 11_01_016_01000
築城年 戦国期 主な城主 深井対馬守景吉
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
備考  深井氏は上州白井城主である長尾左衛門尉景春の流れをくみ、景春の次男長尾小四郎景行の頃より上杉憲政に仕え、鴻巣周辺を領していたという。
 景行の子である六郎次郎景孝は当地深井村にて産まれ、深井六郎次郎と称した。しかし、天文二年(1533)岩槻大戸の合戦(一説には鴻巣市下谷)にて、景孝は二十一歳の若さで戦死してしまった。
 景孝の子である対馬守景吉は二歳で父を失うが、当地にて成長して岩付城主太田氏資の家臣となった。主君氏資が永禄十年(1567)の三船山合戦にて戦死すると、景吉は深井に帰農したともいわれる。しかし、景吉は完全に帰農した訳ではなく、太田氏房の元で子の深井藤右衛門好秀と共に糟壁(現春日部市)の代官や、岩付城の蔵奉行などの要職に付いていたという文書が残されている。
 天正十八年(1590)に徳川家康が関東に入国すると、景吉は現在の鴻巣領宮地村に所領を賜り、子孫は以後現在の鴻巣市宮地に住んでいる。なお、深井の堀ノ内が通称で「対馬屋敷」と呼ばれるのも、戦国末期に対馬守景吉の屋敷があったからである。

 『新編武蔵風土記稿』に「堀ノ内」なる地名が対馬守の屋敷と記すが、その所在地は現在伝わっていない。『北本市史第三巻下』では建治(1275〜1277)・建長(1249〜1255)の板碑が所在し、帯状の低地帯がある深井の寿命院をその屋敷跡と仮定している。この寿命院の裏林に井戸跡と言われる窪地があるというが、これについては未確認である。
 

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<<主要参考文献>>
北本市史 第一巻 通史編
 自然 原始 古代・中世 近世編
北本市 (1994)
北本市史 第三巻下
    古代・中世資料編
北本市 (1990)
北本市文化財調査報告書
 第10集 「北本地名誌」
北本市 (1980)
阿弥陀堂遺跡 第1・2次調査 北本市 (1997)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)