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桶川市(おけがわし)
 埼玉県東部に位置する都市である。名称の由来は諸説があり、芝川や鴨川などの水源となった「起き川」から由来する説、またオキは広々とした田畑を意味し、カワは縁辺という事から広々とした風景を見渡す事ができる土地を意味する説などがある。文書などに「桶皮」「興川」などと書かれる事があった。

 中世には現在の東京都足立区から旧吹上町に至る中世足立郡を領した足立右馬允遠元の館の候補地があり、川田谷地区にはこの遠元より出でた河田谷氏が住んでいたとされる。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
足立氏館 加納城 倉田氏館 岡村館
小高屋敷 坂田堀ノ内 白旗館 砂ヶ谷戸遺跡
ぜーけ 泉福寺館 武城 牧野陣屋
三ツ木城 諏訪北館 法願寺館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 足立氏館 読み あだちしやかた
所在地 埼玉県桶川市末広
字大久保
所在地地図
別名   コード 11_01_015_00100
築城年 平安末期 主な城主 足立右馬允遠元
廃城年 不詳 形態
   
歴史
足立遠元の館跡の一つ
 当地は足立右馬允遠元の居館の候補地の一つで、『新編武蔵風土記稿』桶川宿の項に書かれている通称「一本杉」といわれる辺りであるという。
 足立氏は『足立氏系図』では藤原北家の勧修寺流の出とされ、『尊卑分脈』では藤原北家魚名流であったりと多少の違いがあるが藤原氏からの出という点で共通している。
遺構  現地は桶川市総合福祉センターなどが建ち並び、かって館があったであろう雰囲気を失っている。

城名 加納城 読み かのうじょう
所在地 埼玉県桶川市加納
字常敷
所在地地図
別名 加納古塁
本木氏館?
コード 11_01_015_00200
築城年 不詳 主な城主 本木氏?
廃城年 戦国末期 形態 平城
   
歴史
鴻巣七騎の一人本木氏
 戦国期頃に使われていたとされる城で、伝承すらも伝えていなかった。僅かに福島東雄著『武蔵志』に「加納古塁」として紹介されるのみである。
 城主として挙げられる第一候補として、「鴻巣七騎」の一人に数えられる本木某なる武士の存在がある。鴻巣七騎とは戦国末期に岩付城主太田氏に仕えた鴻巣郷周辺に居住していた在地土豪の事であり、当地桶川市加納からはこの本木氏なる武士が居たと伝えられる。
 天正十八年(1590)六月一日、豊臣秀吉の部将浅野長吉から鴻巣郷内の在所で帰農するように命ぜられると、本木氏は他の鴻巣七騎の武士らと共に当地に帰農し、江戸期には有力農民となったと考えられる。
遺構  本曲輪付近は既に「城跡団地」の一角となっており、その名残を見出す事はできない。

城名 倉田氏館 読み くらたしやかた
所在地 埼玉県桶川市倉田
字入谷
所在地地図
別名 倉田孫四郎館 コード 11_01_015_00300
築城年 不詳 主な城主 倉田孫四郎基行
廃城年 不詳 形態
   
歴史
児玉党越生氏の血縁者
 越生町の法恩寺にある『法恩寺年譜録』に見られる文治二年(1186)の倉田孫四郎の居館と伝える。倉田の姓は越生郷倉田村より名乗ったという。
 倉田氏は児玉党の越生次郎家行の叔父であると言うが、他の児玉党系図には倉田孫四郎の名は見当たらない。
遺構  倉田地区の屋敷林にあたるところに浅くも堀が残っている。

城名 岡村館 読み おかむらやかた
所在地 埼玉県桶川市川田谷
字滝ノ台
所在地地図
別名 太郎兵衛屋敷 コード 11_01_015_00400
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
居住者不明の館跡の一つ
 歴史的経緯の不明の城館で、『埼玉の中世城館跡』には太郎兵衛屋敷と記録されている。なお、『桶川市史自然地誌編』によると土地台帳上の「滝の台」「「宮越」「栗原」は、武蔵国郡村誌の小字名においては「岡村」で、同市の行政上の区分としても「岡村」という名前で現在も使用されているようである。
遺構  現地は耕地および宅地になっており、遺構を発見する事はできなかった。所在地としては台地の東辺にある為、東を流れる江川を見下ろす台地端に存在していたと想像される。

城名 小高屋敷 読み こだかやしき
所在地 埼玉県桶川市加納
字大加納
所在地地図
別名   コード 11_01_015_00500
築城年 不詳 主な城主 小高氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
松山城兵小高氏の屋敷
 『桶川市史古代中世資料編』によれば、小高氏の旧宅を中心とした林の中に屋敷跡があったという。この小高氏は松山城の落武者であるという伝承を伝え、同氏の墓地には天文年間の板石塔婆(板碑)が現存しているという。
 当地が松山道という古道に面している事を踏まえると、松山城が街道筋に築いた砦で、そこに小高氏が居住していたのではないかと考えられる。
遺構  2010年6月現在は資料に書かれる林は既に伐採されており、その微高地のみが畑や草を生やしながら放置されている。道沿いに深さ20cmの堀は不法投棄されつつも現存しており、資料に書かれる通り水をたたえている。

城名 坂田堀ノ内 読み さかだほりのうち
所在地 埼玉県桶川市坂田
字堀ノ内
所在地地図
別名   コード 11_01_015_00600
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
名称のみ残す堀ノ内
 堀ノ内という名称からも館跡があったと思われるが、遺構や伝承などを特に残していない。
遺構  周辺は宅地化が進んでおり、徐々に遺構の規模は分からなくなってきている。屋敷林の残る微高地もその周辺を区画整備の波が押し寄せてきている。

城名 白旗館 読み しらはたやかた
所在地 埼玉県桶川市上日出谷
字宮
所在地地図
別名   コード 11_01_015_00700
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
居住者不明の館の一つ
 上日出谷地区の西に位置する館で、西は江川が作り出した低地に接しており、西側への眺望も開けている。歴史的経緯や伝承などは特に分からない。
遺構  氷川神社境内が館跡と言われるが、館跡を思わせる遺構は見つからない。周辺も振興住宅地になってしまっている為、遺構は喪失してしまっている可能性がある。

城名 砂ヶ谷戸遺跡 読み すながやといせき
所在地 埼玉県桶川市川田谷
字地神
所在地地図
別名   コード 11_01_015_00800
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 城柵?
   
歴史
合戦の陣城跡か
 川田谷地区の台地東端に位置し、遺構の北と南には東の江川より侵食された小支谷に削られている。調査により東西に伸びる深さ1mの堀に城柵の物と思われるピットという穴が掘られていたと『桶川市史古代中世資料編』は書かれている。これらの情報から恒久的に使われる館跡というより、一時的に設けられた陣城であった可能性が考えられる。
遺構  現地は宅地化されており、発掘された場所も家屋か田畑になっており詳しい場所は分からなかった。

城名 ぜーけ 読み ぜーけ
所在地 埼玉県桶川市上日出谷
字愛宕
所在地地図
別名   コード 11_01_015_00900
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館?
   
歴史
有力農民の屋敷跡か
 歴史的経緯が不明であるが、ぜーけ(在家)という地名が残るために中世期における屋敷があったと思われる地である。
 「在家」とは中世の荘園にあって領主である公家や社寺などに在家役と呼ばれる雑税を納めた農民を指し、そういった有力農民が屋敷や田畑を構えていた地名である事を示すと『桶川市自然地誌編』は解説している。
遺構  同地は現在は区画整備がなされており、館跡を偲ぶ所が大変少なくなっている。しかしながら元から住んでいる旧家は存在している様子なので、在家農民の子孫である可能性は少なからず残されている。

城名 泉福寺館 読み せんふくじやかた  
所在地 埼玉県桶川市川田谷
字寺下
所在地地図
別名   コード 11_01_015_01000
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 
遺構  

城名 武城 読み たけじょう
所在地 埼玉県桶川市川田谷
字武城
所在地地図
別名   コード 11_01_015_01100
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
伝承不明の武城
 今まで伝承が伝わってこなかった城館で、郡村誌や桶川市の行政上の区としては「竹ノ内(館ノ内の転訛)」と呼ばれ土地台帳上では「武城」と呼ばれている事から、歴史的経緯は伝わっていないにせよ中世期の城館がこの地にあった事を示している。
遺構  川田谷地区の台地東部に位置しており、その東側は江川によって低地がなされている。現在も竹林内に堀の一部が現存しているが、円弧の内側に向かって堀や土塁を備えた特殊な形状となっており、その全形はいかなる形状をしていたのか今後の課題になりそうである。

城名 牧野陣屋 読み まきのじんや
所在地 埼玉県桶川市川田谷
字大平
所在地地図
別名   コード 11_01_015_01200
築城年 戦国期? 主な城主 牧野半右衛門康成
牧野内匠頭信成
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
歴史
徳川氏の旗本牧野氏の陣屋
 当陣屋は中世期には在地土豪の館跡であったと発掘調査によって明らかになったが、その居住者や歴史的経緯は現時点では明らかになっていない。
愛知県豊橋市吉田城 江戸期になり石戸領領主となった牧野氏は三河国出身の武士である。牧野半右衛門康成は永禄七年(1564)に牧野家初代である父定成と共に今川氏真に属し、三河国吉田城外(現愛知県豊橋市今橋町)にて徳川家康と交戦するも、翌年その家康に仕える事となった。以後長篠の合戦などの戦に牧野氏は家康配下の武将として活躍し、天正十八年(1590)頃に家康が関東に入国する際、牧野氏も武蔵国足立郡石戸(現埼玉県上尾市・桶川市・北本市にまたがる地域)に5千石を拝領した。当陣屋はその頃に改築され、利用された物と思われる。康成は慶長元年(1596)に従五位下讃岐守に就任した後、慶長四年(1599)に京都にて五十二歳にて没した。
 牧野家三代目である信成は康成の三男として遠江国にて産まれ、慶長四年に父の病没と共に家督を継いだ。翌年には関ヶ原の合戦に参戦し、江戸幕府内にて活躍をしていった。寛永十年(1633)にはその所領は一万千石に及び、正保元年(1544)には下総国関宿城(現千葉県野田市)を与えられた。その時に石戸領五千石は嫡子親成が拝領したという。慶安三年(1650)、信成は七十三歳にて没した。
 以後牧野氏は代々石戸領を継承しつつ明治維新まで至ったという。
遺構 牧野氏陣屋発掘調査の光景 写真中央に堀跡が見つかっている。 当地は圏央道の建設地に当たり、平成十九年に「大平遺跡」として発掘調査が実施された。それにより地中から古くは縄文中期〜古墳時代前期頃の住居が発見され、戦国期頃に使われたと思われる中世期の堀跡が発見され、牧野氏はこの館跡を利用して陣屋運営した事が明らかになった。
 2010年6月現在も陣屋の中心に建てられた薬師堂は現地にあり、圏央道桶川北本インターチェンジ料金所の傍らにひっそりとたたずんでいる。

城名 三ツ木城 読み みつきじょう
所在地 埼玉県桶川市川田谷
字城山
所在地地図
別名   コード 11_01_015_01300
築城年 不詳 主な城主 石井丹後守
廃城年 不詳 形態 平城
   
歴史
 『新編武蔵風土記稿』に足立右馬允遠元の居館と伝えている。しかしながら現存している遺構の規模などから『旧埼玉縣史』では戦国期の城としてこの説を否定している。足立遠元の子遠村が川田谷を号している事から、この川田谷氏の居館であった可能性も残されていると思われる。
遺構  城自体は私有地となっており、現在の所竹が群生している。北に向かって三角形の土塁が現存しており、その間の堀は深さ10mを測り遺構の保存状態は南部分を除けば大変良い。かっては湿地帯だった桶川市城山公園に未来の公園化の構図と当三ツ木城の解説板が設置されている。

城名 諏訪北館 読み すわきたやかた
所在地 埼玉県桶川市川田谷
字諏訪北
所在地地図
別名 諏訪北U遺跡 コード 11_01_015_01400
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 川田谷地区の北端に位置しており、すぐ北西は北本市の石戸堀の内がある。歴史的な背景や伝承などは一切伝わっていないようである。
遺構  屋敷林沿いに道があり、その脇に最深1m程の窪みが見られる。根除け堀より深いので構え堀であった可能性が高いと思われる。
 
城名 法願寺館 読み ほうがんじやかた  
所在地 埼玉県桶川市川田谷
別名   コード 11_01_015_01500
築城年 不詳 主な城主 福田左衛門惟康
廃城年 不詳 形態
   
歴史
 『日本城郭全集』に福田左衛門惟康という者が住んだ館があると紹介があるのみで、その詳しい事は分からないとしている。
遺構  現在、法願寺という寺自体どの辺りにあったかも分かってない。


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<<主要参考文献>>
桶川市史 第一巻 通史編 桶川市 (1990)
桶川市史 第三巻 古代中世資料編 桶川市 (1985)
桶川市史 第八巻 自然地誌編 桶川市
埼玉の中世城館跡 埼玉県 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)