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上尾市(あげおし)
 埼玉県の中央東部に位置する都市で、大宮台地上に都市の中枢があり、近世には中仙道が市内を通り発展を見せた。

 中世期には鎌倉幕府より所領を受けた足立氏の領地となっていて、当市もこの足立氏に関わりのある城館跡が多いと思われるが、現在発見されている遺構との関連について詳しい文献などは残されていない。
 江戸期にいたっても柴田氏や西尾氏が陣屋を築いたりと多くの城館があったとされるが、近年の市街化などにより破壊が進行し、遺構の保存状態は良くない地域である。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:吾妻氏館  2:愛宕山遺跡  3:天沼遺跡  4:雨沼T遺跡
 5:石神・山下遺跡  6:上城  7:上・宮下遺跡  8:糀谷遺跡
 9:在家遺跡 10:柴田氏陣屋 11:菅谷北城 12:曽我氏館
13:館山 14:秩父山遺跡 15:殿山城 16:長浪館
17:西尾氏陣屋 18:西通T遺跡 19:三輪氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 吾妻氏館 読み あずましやかた 現在の吾妻坂を望む、道路左はグランド造成のため喪失している。
所在地 埼玉県上尾市平方
字宿北
所在地地図
別名 宿北U遺跡 コード 11_01_014_00100
築城年 平安末期 主な城主 吾妻左衛門是好?
廃城年 不詳 形態
    
歴史
吾妻左衛門館と要衝平方
 吾妻左衛門が住んでいた吾妻坂の伝承を持つ地で、現地は北から南にかけて傾斜地になっている。県立上尾橘高等学校のグランド造成の為、遺構の一部は土取りされて永遠に喪失した。
 昭和57年の発掘調査によれば堀が二条、溝が十条、井戸跡が四基も見つかっており、南に突き出した舌状台地の中央部を占めた館跡であった事がわかったという。また南北に走る道路を挟んで東側には堀跡を利用して作られた道が現在もあり、道の形状から館跡の規模が若干ではあるが伺えるようである。
 永禄四年(1561)の今川氏判物写によれば平方口にて上杉氏と後北条氏が交戦したと記録される事から、戦国期においても各勢力の抗争の場として戦火に晒された地であった事が伺える。
 
遺構  県立上尾橘高等学校グランドになっているところが遺構のあった場所で、道路を境にしてすっぽりと土取りされてしまっており、名残を残していない。しかしその周辺はかっての「吾妻坂」を思わせる傾斜が残されている事から、今後の発掘調査によって色々と判明する事があると期待したい所である。

城名 愛宕山遺跡 読み あたごやまいせき 愛宕山遺跡のあった原市公民館の写真、北に隣接している原市小学校グランドにかけて遺構は存在していた。
所在地 埼玉県上尾市原市
字十八番地耕地
所在地地図
別名   コード 11_01_014_00200
築城年 江戸後期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
詳細不明の江戸期の屋敷跡
 当地は上尾市立原市公民館設立の為の発掘調査において、江戸時代後期頃と見られる堀が発見された。伝承などは特になく、『新編武蔵風土記稿』の書かれた当時には現役として機能していたと思われ、ここについては書かれていない。現地は西と北に向かって低地になっており、北にある原市沼川を挟んで向かい側には伊奈氏の陣屋がある。
 正確には公民館北にある原市小学校校庭が屋敷の内部になり、発掘された堀は南西部より湾入する小谷を更に掘ったもので、更に東へ伸びていたという。そして堀の北側(屋敷内部)にはピット群と門のような遺構が発見されたという。
 なお、原市小学校付近は学校北にある愛宕神社があったことで「愛宕山」と呼ばれるようになったという。
 
遺構  上尾市立原市公民館前に愛宕山遺跡の解説板が設置されている以外は、遺構があった事を思わせる物は特に残されていない。公民館奥の駐車場に若干木々に覆われているため、かって山林だった頃の姿を僅かに残している程度である。また隣接する原市小学校校庭の方が少し高くなっている。

城名 天沼遺跡 読み あまぬまいせき 遺構のあった秀明英光高校を望む、周辺は湿地帯で高校敷地は若干高まりがある。
所在地 埼玉県上尾市上野
字天沼
所在地地図
別名 タロウヤマ コード 11_01_014_00300
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
謎の遺構とタロウヤマ
 当地にあった台地の事を「タロウヤマ」と呼ぶものの、それ以外の事は伝えていない。「ヤマ」とは林を指す物だが、「タロウ」とは人名であるのかすらわかっていない。
 現在は秀明英光高等学校敷地になっており、同学校の建設に伴う発掘調査により屋敷の一部が検出されたもので、年代的に旧石器時代から中近世に至る複合遺跡である。北に150m伸びる荒川支流が作り出した舌状台地上に存在し、この台地の付け根部分は上幅3m程度の堀によって分断されていて、柵跡と建物一棟の跡が発見されたという。遺物が殆ど原始・古代の土器や石器ばかりなので、中世期の何時頃に使われた遺構であったかまでは測定できなかったという。
 
遺構  遺構の殆どが高校の敷地になっており、遺構を思わせる地形は北側に広がる低地程度であった。

城名 雨沼T遺跡 読み あまぬまいちいせき 遺構のあった平方公民館を望む、公民館前に発掘調査の内容を記した解説板がある。
所在地 埼玉県上尾市平方
字雨沼
所在地地図
別名   コード 11_01_014_00400
築城年 戦国期? 主な城主 永嶋氏?
廃城年 不詳 形態 屋敷?
   
歴史
永嶋氏伝来の屋敷跡か?
 当地は上尾市平方公民館設置のための発掘調査で発見された遺構で、天沼遺跡とは谷を挟んで向かい合う形に所在している。伝承などを伝えていないが、近年まで江戸時代からの名主筋である永嶋氏が住んでいた。現地の案内板ではこの永嶋氏ゆかりの屋敷なのではないかと推定している。
 発掘された遺構からは中世期の掘立柱建物が二棟発見されており、ほかにも堀跡などが見つかったという。遺物には「皇宋通宝」「至和通宝」「治平元宝」「元豊通宝」などの古銭が発見されており、これらの年代が(1039〜1078)である事から柱を据え置く際の建物の安泰を願う「地鎮具」として見られている。また、北に100mの地蔵院には文明九年(1477)の板碑があったことから中世期から居住する者が居た事を示している。
 
遺構  現在遺構は平方公民館が建築されており、遺構は見られない。公民館脇には発掘調査をした内容を記した解説板が設置されており、この地が原始〜近世初頭までの複合遺跡であった事を示している。

城名 石神山下遺跡 読み いしがみ
やましたいせき
現在の石神山下遺跡付近の光景、現在では工場団地の一画になっているが、西側に比べて地形が高いところにある。
所在地 埼玉県上尾市領家
字石神・山下
所在地地図
別名   コード 11_01_014_00500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷?
   
歴史
詳細不明の失われた遺構
 伝承や居住者などを一切伝えていない遺構で、昭和58年と同61年の発掘調査時点では殆どが畑であったという。
 元々石神遺跡と山下遺跡という独立した遺跡であったが、両方があまりにも関連が深い為に名前を連動して呼んでいるようである。地形的に北に向かって低くなっており、低地から台地の傾斜部に立地しているという特徴がある。堀と溝の多くが台地の斜面部から裾に等高線に沿った築かれ方をしていたという。
 
遺構  現在、台地上は領家ミニ工業団地となっており、低地も農園となっているようである。発掘調査をした現場の一部は雨水調節池となったりしている。遺構を示す案内板も解説板も見つからなかった。

城名 上城 読み かみじょう
 
所在地 埼玉県上尾市上平
字堀の内?
 
別名   コード 11_01_014_00600
築城年 平安期? 主な城主 成田氏?
廃城年 不詳 形態 館?
   
備考
上城の地はいずこか?
 『日本城郭全集』にのみ出自が見られる謎の城で、それによると成田氏が忍城に移る以前の城と伝わる。『鎌倉九代記』の「成田の館」とはこの場所を指すといわれる。『全集』にかかれた八幡社が旧上村地域に無い事などを理由に『上尾市史』においてはこの城の所在地が不詳と書かれている。
 これは私見ではあるが熊谷市にある成田氏館の現在の地名は「上之」である事から、『全集』の著者が成田氏館(上城)の事を上尾市大字上に求めてしまったのではないかと推定している。

城名 上・宮下遺跡 読み かみみやのしたいせき 上尾市消防署北分署付近の様子、発掘後埋め戻されて遺構のあった雰囲気は失われている。
所在地 埼玉県上尾市上
字長浪
所在地地図
別名   コード 11_01_014_00700
築城年 江戸後期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
西尾氏の陣屋説のある遺構
 伝承として「陣屋」の地名が南にあるものの、それ以上の事はわかっていない。上尾市消防署北分署の建設に伴う発掘調査によって発見された遺構で、発掘された遺物により十八世紀後半ではないかと推定されている。
 一説にはこの辺りを支配した西尾氏に関連した陣屋説もあるが、西尾氏の支配した時期と遺物の時代にズレがある。
 
遺構  現在上尾市消防署北分署のあるところが遺構の場所で、この辺りよりL字の堀が検出されたが、現在は埋め戻されている。消防署前には解説板も付いている。

城名 糀谷遺跡 読み こうじやいせき 糀谷遺跡付近の畑、西側が河川によって谷を作っており、当地はそれを見下ろす地形になっている。
所在地 埼玉県上尾市泉台3丁目
(旧:上尾市藤波字糀谷)
所在地地図
別名   コード 11_01_014_00800
築城年 江戸後期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷?
   
歴史
居住者不明の屋敷跡
 伝承や居住者などを一切伝えていない遺跡で、上尾市の西北端に位置しており、県道を挟んで向かいは桶川市となる。
 平成三年に発掘調査が行われた際、「井」字状に掘られた堀が検出され一部は食い違ったり、十字に交わったりしていたという。また堀の断面もまるで「W」字のような形状をしていたりと、従来の屋敷跡には見られない珍しい遺構であったという。
 
遺構  現在は宅地および農耕地になっており、西が低地になっている以外はいたって平坦な地形である。なお、遺構を示す表示物等は確認できなかった。

城名 在家遺跡 読み ざいけいせき 丸山団地の遠景、団地の中に多くの堀後が検出された。
所在地 埼玉県上尾市平方
字在家
所在地地図
別名   コード 11_01_014_00900
築城年 平安末期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 館(集落?)
   
歴史
在家と領民の集合居住地
 この地についての伝承や居住者などについては特に見られない。「在家」の地名から中世期の土豪、領主の屋敷やそこに住む農民の集合地であろうと『上尾市史』は解説している。
 発掘調査が行われ、堀が二八条、溝が二九条発見されており、その堀の作り方は遺構のある台地を区切るように作られていたという。このことから見ても遺構は館跡が一つあるだけの状態ではなく、幾つかの居館が台地上に共存して作られていた事を示しているようである。
 
遺構  現在も県立丸山団地となりながら、共存して生活する空間という概念は継続されているように思われた。なお、遺構は団地造成により埋め立てられて、その面影を見せない。

城名 柴田氏陣屋 読み しばたしじんや
所在地 埼玉県上尾市向山
字本山
所在地地図
別名   コード 11_01_014_01000
築城年 寛永元年?
(1624)
主な城主 柴田筑後守康長
廃城年 宝永年中
(1704〜1710)
形態 陣屋
   
歴史
旗本柴田氏の陣屋跡
 柴田氏は三河国の出身で、康忠が天正十九年(1591)に羽生城に入り、羽生領菖蒲・喜才(騎西)を賜るも文禄二年(1593)に没し、埼玉郡樋ノ口村正楽寺(現久喜市)に葬られた。
 嫡子康長が幼くして家督を継いだが、慶長十八年(1613)に家臣の不行跡の為に改易させられ、下野国足利に転封される。その後元和九年(1623)に罪を許されて、翌年より当地を含めた足立郡三千石を賜ったという。当陣屋も当時の物と思われ、『新編武蔵風土記稿』によれば康長より三代住み、康長の孫である和泉守康利の代に江戸に移り住み、宝永年中には陣屋は御林となっていたようである。
 足立郡の所領も元禄十一年(1698)に丹波国に移されたという。
 
遺構  宅地化が進行し、遺構は特に見られない。

城名 菅谷北城 読み すがやきたじょう
所在地 埼玉県上尾市菅谷
字北
所在地地図
別名   コード 11_01_014_01100
築城年 鎌倉期? 主な城主 丸七郎
春日八郎行元
鳩谷修理?
廃城年 江戸期? 形態
   
歴史
鎌倉期の菅谷北城
 鎌倉末期頃にこの辺りを領していたのは丸氏で、本領は安房国丸御厨(現在の千葉県南房総市、旧安房郡丸山町)であると考えられている。建武二年(1335)の中先代の乱に北条時行方に丸六郎なる武士が居たので、その血縁者である可能性がある。
 詳しい事は分かっていないが、上尾市史第六巻では観応期の足利氏一族の内乱の時、丸七郎が足利直義方に付いた為に所領を没収されたのではないかと仮定している。
 
春日氏の入城、その後
 観応三年(1352)に春日八郎行元が戦功により、丸氏に代わり桶皮郷菅谷村を足利尊氏より賜ったという。春日氏は江戸期の書物『寛政重修諸家譜』によれば藤原北家の出身で、冬継の子長良の孫である飛騨判官為孝が春日氏を名乗った事より始まるというが、確かな出自は分かっていない。春日氏は戦国末期までこの周辺で活躍しており、子孫と思われる春日兵庫助景定が岩付城主太田資正の有力家臣として現われ、伊奈町の春日山に陣屋を構えたと言い伝えられている。恐らく戦乱の時代になり当地での防御性が優れなかった為に、その居館を移した物と考えられる。
 また、『新編武蔵風土記稿』によれば鳩谷修理が城主であったのではないかと仮定している。
 
遺構  現在も一部宅地や農地になっているものの土塁は点在しており、上尾市内においては最も保存状態が良い。

城名 曾我氏館 読み そがしやかた
所在地 埼玉県上尾市柏座 所在地地図
別名 曾我殿館 コード 11_01_014_01200
築城年 鎌倉期? 主な城主 曾我十郎?
曾我五郎?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
幾つかの伝承を持つ曾我氏の館
 古くから曾我殿屋敷と言われ、曾我兄弟がここに住み武芸を習ったと伝えられていたという。
 『新編武蔵風土記稿』の柏座村の項や『日本城郭全集』では扇谷上杉氏に仕えた曾我豊後守や、成田下総守の家人である曾我兵庫助祐昌が住していた可能性を示している。
 その他伝承として小河川に架かるソガドノ橋の真下には川で馬を洗った時に使った金のタライが埋まっているという話や、その橋のところでソガドンに住んでいた曽我兄弟が刀を研いでいたという話も伝わっているという。
 
遺構  JR上尾駅周辺という立地条件によって、遺構は現在高層マンションと駐車場となっている。発掘された遺構には堀と土橋が見つかっている。

城名 館山 読み たてやま
所在地 埼玉県上尾市向山字新田
同市壱丁目字宮前
所在地地図
別名   コード 11_01_014_01300
築城年 平安末期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
森の中にたたずむ居住者不明の館跡
 「タテヤマ」「馬かけ場」という地名のみを残す謎の館跡で、その他の伝承および居住者などを一切伝えていない。「タテヤマ=館山」であることから中世期の武士の居館であった可能性を示しており、「馬かけ場(写真の奥に伸びる道路)」も200m程の長さがある。
 林の中からは土塁とまでも行かないような「土の高まり」が見られ、さらに道路脇からも堀跡が見られる。また館跡の北側の住宅地からも古井戸が発見されたという。
 
遺構  周辺の開発が進む中も現地は雑木林が茂っており、その中に堀跡がかなり埋もれながらも姿を見せている。また「土の高まり」については道路脇に柵が設けられていた為に未確認である。

城名 秩父山遺跡 読み ちちぶやまいせき
所在地 埼玉県上尾市瓦葺
字秩父山
所在地地図
別名 メエヤシキ コード 11_01_014_01400
築城年 戦国末期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
居住者不明のメエヤシキ
 開発事業により三回の発掘によりその存在が確認された遺構で、居住者やその他の歴史などは特に伝えていない。国道16号線バイバスの南側付近を「メエヤシキ(前屋敷)」と呼ぶことから戦国末期から近世初頭付近の屋敷の構え方を考えられると上尾市史では書かれる。
 現在国道敷地になっている(写真交差点向こう付近)においては板石塔婆が14基発掘され、特に二次発掘(写真交差点右)において堀と溝に囲まれた屋敷の建物郡が七棟検出された事により屋敷の存在が確認された。
 
遺構  国道16号線の上尾市瓦葺(東)交差点付近が遺構の発掘地点となるが、現在は国道敷地および住宅地となり遺構があった事を伝える物はなにも残されていない。

城名 殿山城 読み とのやまじょう
所在地 埼玉県上尾市畔吉
字中
所在地地図
別名   コード 11_01_014_01500
築城年 平安期? 主な城主 安須吉肥後守遠景
塩田帯刀左衛門尉?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
河段堤防上に所在していた安須吉氏の城
 上尾市畦吉は古くは畦牛、安須吉などと呼ばれ、足立郡地頭職である足立右馬允遠元の子である遠景が安須吉を号していた事により、鎌倉期においては遠景が一族がこの辺りを支配していたものと考えられる。しかし、この城がその安須吉氏による築城であるかは伝えていない。
 大宮台地の西端は和田吉野川(現荒川)が流れており、その沿岸には小谷城・伝源基経館・大宮館・石戸城・三ツ木城といった城々が連ねている事からも、舟運の監視や河川の掌握には適切な地形であった事は言える。
 
遺構  現在、遺構の南部は牧場で、北側は墓地になっている。「殿山古墳」の方が有名であるらしく、標識にも殿山古墳への案内が記されているが、古墳は牧場の建物が建ち喪失している可能性が高い。また、現在墓地になっているところからも発掘調査により堀が検出されており、丁度中央部の古墳を櫓台とした曲輪がそこに見えてくるようである。これらは全て埋没もしくは破壊されたようで発見することはできなかった。

城名 長浪館 読み ながなみやかた
所在地 埼玉県上尾市上
字長浪・堤上
所在地地図
別名   コード 11_01_014_01600
築城年 平安期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
失われゆく宅地の館跡
 歴史背景が不明な館跡で、「かまえぼり」と呼ぶ堀のみが残されている。『上尾市史 第九巻』が発行された平成十一年現在では竹林の保存状態が良いと明記されているが、現在(平成二十二年)現在においては宅地化され、かっての館の雰囲気が失われつつある。
 
遺構  「かまえぼり」と呼ばれる水路だけは健在で、現在も多くの排水を含みながら流れる。跡数年もすれば写真の水田も失われ、より館跡があったであろう事を伺わせる事も難しくなると思われる。

城名 西尾氏陣屋 読み にしおしじんや
所在地 埼玉県上尾市上尾下
字榎戸
所在地地図
別名 榎戸遺跡 コード 11_01_014_01700
築城年 江戸初期 主な城主 西尾小左衛門吉次
廃城年 不詳 形態 陣屋
   
歴史
旗本西尾氏の陣屋
 西尾隠岐守吉次は享禄三年(1530)尾張国(西尾氏の家譜には三河国東条)に生まれ、長じて織田信長に仕えて美濃国岐阜にて三千石を与えられたという。この織田信長が天正十年(1582)に本能寺の変にて横死し吉次は主を失った。
 翌年天正十一年には新たに徳川家康に仕える事となり、天正十八年(1590)に家康が関東に入国する頃には吉次は六十歳の高齢になっていた。この時吉次は五千石の知行を受ける旗本として、中仙道より東の原市村まで支配する事になり、当地に陣屋を設けたという。原市村は以前岩付太田氏の支配地で、岩付城と松山城を結ぶ宿場の機能を果たした交通上の要衝であった事から、西尾氏に管理が委ねられたのであろう。
 その後も吉次は家康の近侍として奏者を務めたりし、慶長四年(1599)十月には従五位下隠岐守に叙任され、慶長七年(1602)には美濃国にて七千石の加増を受けて、合計一万二千石の大名となった。
 そして慶長十一年(1606)八月に吉次は京都伏見にて七十七歳の生涯を終え、遺骸は吉次が菩提寺として復興させた原市村の妙厳寺へ葬られた。その跡を慶長四年に娘婿となった川越城主酒井重忠の三男忠永が遺領を受け継いだ。この忠永の時代の元和四年に常州土浦へ転封されたが、その後も西尾氏と妙厳寺との関係は続いており、後年遠州横須賀藩になっても西尾氏の江戸詰めの家臣島貫氏によって代拝されたという。
 西尾氏が去った後の原市周辺の領地は、一回天領となるものの代官中村弥右衛門やそれを引き継いだ熊沢三郎左衛門らによって支配されたようである。
 
遺構  妙厳寺の西より陣屋公民館付近が陣屋跡地とされるが、家屋が多く建ち並びかって陣屋があった様子がかなり消えてしまっている。また公民館北に堀跡と思われる排水路があるという話だが、現時点では未確認である。

城名 西通T遺跡 読み にしどおりいちいせき
所在地 埼玉県上尾市小敷谷
字西通
所在地地図
別名   コード 11_01_014_01800
築城年 室町期? 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
遺物が語るかっての栄華
 伝承などがない館跡で、上尾市立大石南中学校の校庭拡張工事の際に、発掘調査され発見された遺構である。現地は東から西に傾斜しており、学校の西には荒川へと注ぐ支流が流れている。土の質は大変良いが水はけが良いため、畑として利用していた。
 発掘された遺構は写真のフェンスに囲まれた部分とその周囲の道路で、南東隅(写真の道路の角)には建物の建造によるピット群が千ヶ所以上見つかっており、館跡による建造物が建っていた事を示している。また、堀跡も検出されており、かって中学校の北部においても窪地が確認できたのだという。そして遺物として上尾市指定文化財に指定されている「古瀬戸灰袖草葉文瓶」が出土し、向かいの台地からも室町〜戦国期の備蓄銭が出土している事から、かなり経済的に裕福な者が住んでいた事が伺える。
 
遺構  現在は発掘調査も終わり、現地は市道と中学校のテニスコートになっている。またこのテニスコート脇には遺構について書かれた解説板が設置されている。

城名 三輪氏館 読み みのわしやかた
所在地 埼玉県上尾市平方
字箕輪
所在地地図
別名 箕輪U遺跡 コード 11_01_014_01900
築城年 平安末期? 主な城主 三輪庄司好光?
廃城年 戦国期? 形態
   
歴史
吾妻左衛門の伯父三輪庄司の館
 『新編武蔵風土記稿』に吾妻左衛門の伯父である三輪庄司が住んでいたという伝承を残すのみで、その他の記録がない館跡である。同書の馬蹄寺の項には、三輪庄司が草庵を建て馬に化けて人語を話したという妄誕(根拠のない事)を伝えていたと記している。
 
遺構  埼玉県立上尾橘高等学校の建設に伴い堀の一部が発見された。吾妻氏館との関連は深くあると思われる。現在は宅地と農地になっており、遺構の判断は厳しい状況である。

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<<主要参考文献>>
上尾市史 第六巻通史編(上) 上尾市
上尾市史 第八巻別編
地誌
上尾市 (1997)
上尾市史 第九巻別編
金石・文化財
上尾市 (1999)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)