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鴻巣市(こうのすし)
 埼玉県東部に位置する都市で、荒川・元荒川で築かれた大宮台地の北部に位置する場所で、近世から鴻巣宿が出来て以来交通の盛んな地域になっており、現在も東京のベッドタウンとして発展を遂げている。近年隣接する吹上町・川里町を合併した。

 中世以前は武蔵国府が一時的に置かれたり、清和源氏の祖ともいうべき源基経が居館としたと伝える遺構がある。また、源頼朝の腹心である安達盛長の居館と伝わる場所がある。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:笠原氏館
 2:小池氏屋敷
 3:河野氏屋敷
 4:立川氏屋敷
 5:中三谷遺跡
 6:奴加田氏館
 7:箕田館
 8:(伝)源基経館
 9:矢部氏屋敷
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。


城名 笠原氏館 読み かさはらしやかた 道路脇に残る屋敷堀
所在地 埼玉県鴻巣市笠原
字上手
所在地地図
別名   コード 11_01_013_00100
築城年 平安末期 主な城主 笠原四郎季頼
廃城年 不詳 形態
   
歴史
野与党笠原氏の館跡と言われる
 笠原氏は野与党の出身という説があり、道智頼意の孫にあたる季頼が北埼玉郡笠原村に居住し笠原四郎と名乗ったのが始まりとも言われる。しかし、『武蔵七党系図』などの資料にこの季頼に「笠原」という傍注が見当たらない事から、野与党に笠原氏は居なかったのではないかという説もある。
 季頼の子笠原平五頼直は当初平家方に付き、木曾義仲を攻めていたが、その後源頼朝に従ったという。
遺構  笠原地区に上手という地名が残されている。この上手という地名はこの周辺において武士の館跡を示す事が多く、ここもまた武士の居館に名づけられた可能性は極めて高い。そのためか笠原氏に関わるとも考えられる屋敷堀が集落内に今も残っている。

城名 小池氏屋敷 読み こいけしやしき 屋敷跡の大部分は駐車場か宅地に
所在地 埼玉県鴻巣市鴻巣 所在地地図
別名 鴻巣砦
鴻巣御殿
コード 11_01_013_00200
築城年 不詳 主な城主 小池長門守久宗
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
鴻巣七騎の一人、小池氏
 以前は鴻巣砦と呼ばれていた時期もあったようだが、その頃の伝承などについては特に伝えていない。伝えるのは小池氏がこの地に住むようになった後の事が主流になる。
 中世の鴻巣市鴻巣は岩付太田氏の配下である「鴻巣七騎」の一人である小池氏の居宅とされる。同氏は『新編武蔵風土記稿』によれば紀州日高郡小池(現在の和歌山県日高郡日高町小池)の出身であるという。そのきっかけは分からないが、小池主計助なる者が関東にやってきて、小田原北条氏に仕える事となったという。
 主計助の子である小池長門守久宗が、天文二十年(1551)に北条氏康の命により岩付城下市宿よりこの地に住んだとされており、開発に勤しみ「市宿新田(後の鴻巣宿)」を拓いている。当地はこの小池長門守に関わる館である可能性も考えられる。この小池長門守の次男に修理亮宗安がおり、北本市中丸に移り住み加藤氏を名乗っている。これが後世に幸左衛門屋敷と呼ばれるようになった。
 天正二十年(1591)九月に徳川家康が忍城を訪れた際、長門守の孫になる小池隼人助はその案内役を務め、自らの居宅を旅館としてもてなしたとも記されている事から、鴻巣御殿とも呼ばれるようである。
遺構  その所在地は現在のJR鴻巣駅近くであるため、近年の都市開発などによって遺構は建築物や駐車場などができ、遺構を発見する事は難しくなっている。

城名 河野氏屋敷 読み こうのしやしき 河野氏屋敷であったと思われる果樹園
所在地 埼玉県鴻巣市常光
字本村
所在地地図
別名   コード 11_01_013_00300
築城年 不詳 主な城主 河野氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
鴻巣七騎の一人、河野氏
 河野氏は中世期における岩付太田氏の配下である「鴻巣七騎」の一人に挙げられるが、その出自は伝わっていない。江戸期には代々常光地区の名主を務めたという。
遺構  字本村付近に末裔の方が開いておられる果樹園がある。屋敷の遺構などは特に残していないが、周辺に比べ微高地になっており低地特有の集落の有様を残している。

城名 立川氏屋敷 読み たちかわしやしき 龍退治の伝承の残る小字龍燈の光景
所在地 埼玉県鴻巣市上谷 所在地地図
別名   コード 11_01_013_00400
築城年 不詳 主な城主 立川石見守
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
西党立川氏の支族、当地にて鴻巣七騎に
 立川氏は武蔵七党西党出身の武士で、その末裔である立川宮内少輔照重は小田原北条氏に仕え、多摩郡柴崎村(現在の東京都立川市柴崎町)に塁を築き住んでいたという。当地に住んだとされる立川石見守はこの照重の一族で、中世期における岩付太田氏の配下である「鴻巣七騎」の一人に挙げられる。天正十八年(1590)に岩付太田氏が没落した時、立川氏は当地に住み着いたという。
 年代は特に書かれていなかったが『新編武蔵風土記稿』によれば小字龍燈の古い池には竜が住み、田畑を荒らしていた所を立川石見守が退治したという逸話が残っている。
遺構  現在残されている小字に屋敷を思わせる地名は無い。また、立川石見守が開基となったとされる恵光院に、立川氏の墓所を見つける事はできなかった。
 竜退治の話の残る小字竜登は現在水田地帯となっており、なんとなく当時の趣を感じさせてくれる程度である。

城名 中三谷遺跡 読み なかさんやいせき   
所在地 埼玉県鴻巣市鴻巣
字中三谷
所在地地図
別名   コード 11_01_013_00500
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
居住者不明の館跡
 埼玉県自動車免許センター建設時に発見された遺構で、歴史経緯および居住者などを伝えていない。
遺構  現在、免許センターが建っており、遺構はほぼ地上から消滅している。発掘調査時、短辺107mの台形状の堀が見つかっており、標準的な武士の方形館であったという。遺構より中国産の陶磁器が発見されており、『鴻巣市史 通史編T』では館跡の使用期間は、一二世紀末〜一四世紀までと推定している。

城名 奴加田氏館 読み ぬかたしやかた 奴加田氏館の現状、荒川の堤内になっている。
所在地 埼玉県鴻巣市糠田
殿の内手
所在地地図
別名 安達盛長館 コード 11_01_013_00600
築城年 鎌倉期 主な城主 奴加田太郎
安達藤九郎盛長?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
安達盛長の館跡説
 当地の所有者には二説あり、一つは源頼朝の腹臣である安達盛長の館説、もうひとつは奴加田なる在地武士の居館という説である。
 安達藤九郎盛長は藤原北家魚名流の出自であり、小野田三郎兼盛の子として生まれた。安達と名乗ったのは盛長からで、平家が隆盛極まった時から頼朝に仕え、各地の御家人達に頼朝に仕えるよう奔走した。その為頼朝の信頼を得て、鎌倉幕府の基礎を築く事になった。正治元年(1199)に頼朝が死去すると出家し蓮西と名乗り、翌年頼朝の後を追うように六十六歳にて死去した。
 盛長の子景盛は秋田城介となった事から城氏と称し、執権北条氏と血縁関係を深め幕府内でも多大なる地位を確立させた。しかし鎌倉時代も中期になり、景盛の孫にあたる泰盛の時に平頼綱の陰謀によって当時の執権である北条貞時(泰盛の娘の子)に攻めれ、一族は滅亡したという。
奴加田氏とは
 奴加田氏については詳しい伝承等は特にない。建久六年(1195)三月に源頼朝の東大寺供養に、隋兵として「奴加田太郎」なる名が見られるという。安達盛長と同時期にその存在が確認できるので、予想ではあるが有名である安達盛長の館跡という伝承の方が伝わり易かったのかも知れない。
遺構  現在館跡とされる殿の内出は、荒川の河川改修によって堤防内になっており、その遺構は見る事ができない。

城名 箕田館 読み みだやかた 箕田氏館の伝承を残す古墳
所在地 埼玉県鴻巣市箕田
字九右衛門
所在地地図
別名 九右衛門遺跡 コード 11_01_013_00700
築城年 平安末期? 主な城主 源仕
廃城年 不詳 形態
   
歴史
嵯峨源氏の一族
 箕田郷に居住した嵯峨源氏は嵯峨天皇より出た一族で、その一族の多くが武蔵守を務めていた為に、この武蔵国において影響は大きかったものと思われる。
 源仕(みなもとのつこう)は嵯峨源氏の系譜によれば嵯峨天皇三代孫にあたり、本来であれば都で高位の官職に就ける身分ではあったが、藤原氏による摂関政治の影響から地方の中級官人にされていたようである。この為都に戻ってもその地位は期待できない為、任期終了後も帰京せず、箕田郷を私営田領主として私領化させて国主に対抗するようになっていった。
 『扶桑略記』には延喜十九年(919)に武蔵で前権介であった源任(仕?)が官の財物を奪い、国府に襲来して国守高向利春を攻めたとある。この高向利春は秩父牧の経営によって財を成し、その私財をもって宇多院の寵愛を得て武蔵守になった人物で、かっての上司か同僚であった源仕に対して恨みをかったので攻められたとも言われる。
 こういった行為からも前任の地位をもって私兵を募って、箕田源氏としての地位を確立させていった。
遺構  当所は城館遺構というより古墳遺跡の色合いが強く、周辺が宅地化されているにも関わらず古墳の辺りだけは緑に囲まれひっそりとしている。城館跡に直結するような遺構は見られなかった。

城名 (伝)源経基館 読み みなもとのつねもとやかた 基経館遠景とその周辺
所在地 埼玉県鴻巣市大間
字原
所在地地図
別名   コード 11_01_013_00800
築城年 平安末期 主な城主 箕田氏
源経基?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
清和源氏の始祖基経
 清和源氏の祖となった源経基が居住したと伝承が伝わる館であるが、それを証拠付けする根拠の無い遺構でもある。館跡内には「六孫王源基経公居館」の碑もその伝わった伝承のみで建てられている可能性が高い。因みにこの「六孫王」という称号は清和天皇の第六皇子貞純親王の子である事から呼ばれるという。
 源基経は延喜十七年(917)に清和天皇の孫として産まれ、弓馬の術に優れていた為源姓を賜り「源朝臣」を称した。そして「武蔵介」という階級を授かり武蔵国に下向してきた。
武蔵の争乱
 天慶二年(939)に基経は上司にあたる武蔵国権守興世王と多くの兵と共に足立郡の巡検に入ろうとした所、足立郡の郡司武蔵武芝がこれを拒んだ事により事件が起こった。武芝は「正任国司の着任前の事で前例無し」としてこれを拒んだのだが、その行為に怒った興世王は武芝やその周辺の財産などを没収してしまったのである。
 武蔵国権守興世王と足立郡司武蔵武芝の対立の話を聞き、その間に入ってきたのが平将門で、郡司武芝が正論として擁護するべくこの紛争に介入してきた。将門の武力に警戒した基経は比企郡狭服山(所在地不明)に立て篭もった。残った興世王は将門の調停に応じる事となった。
 ところがこの時郡司武芝の兵が密かに基経の営所を囲み、基経に圧力をかけてしまったのである。これを見た基経は武芝が将門と手を組んで襲ってきたと思い、命からがら包囲を突破し京へと帰還して「武芝と将門に反意あり」と朝廷に訴えた。こういったいきさつもあって、やがて平将門は朝敵として征伐される道を辿り、やがて滅亡していくのであった。
 天慶三年(940)に藤原秀郷と平貞盛らにより平将門が討たれると、基経は武蔵守に就任し、子である満仲も武蔵権守に就任して清和源氏の基礎を固めていったのである。
遺構  鴻巣高校の南端の森の中に館跡は全体がほぼ残された形でひっそりと現存している。遺構の構造は折などをつけた堀を考慮すれば室町期以降の館跡になるであろうが、鎌倉幕府を築いた清和源氏の祖である基経の館となったからこそ、これだけの保存状態であった事も事実だと思われる。ここまでの交通ルートが複雑だが、場所がわかってしまえば駐車場も付き、かつ内部も案内板が設置されていたりと中世期の城館跡探訪初心者にも優しい場所である。

城名 矢部氏屋敷 読み やべしやしき 矢部氏屋敷のあったと思われる下谷の光景
所在地 埼玉県鴻巣市下谷
字風張?
所在地地図
別名   コード 11_01_013_00900
築城年 不詳 主な城主 矢部氏
廃城年 不詳 形態 屋敷
   
歴史
鴻巣七騎の一つ、矢部氏
 矢部氏は中世期における岩付太田氏の配下である「鴻巣七騎」に挙げられる矢部某の屋敷である。矢部氏は古くからこの地に住んでいた一族で、この地の開発領主であったようである。
遺構  現在も矢部氏の子孫の方々が大勢お住まいで、矢部さんの総本家が帰農した矢部氏の居館だと思い聞き込みを試みたが、肝心の矢部さんが本家がどこか分からずという結果に終わった。帰農後の屋敷なので、さほど立派な土塁や構え堀は無いとは思われる。

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<<主要参考文献>>
鴻巣市史 通史編T
    原始・古代・中世
鴻巣市 (2000)
埼玉の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)
中世武蔵人物列伝 埼玉県立歴史資料館 (2006)
北本市史 第一巻 通史編
 自然・原始・古代・中世・近世編
北本市 (1994)
浦和市史 通史編 T 浦和市 (1987)