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新座市(にいざし)
 埼玉県最南端に位置する都市である。市名の新座はかって存在していた新座郡から由来する。目黒川・白子川の流れる流域以外は台地上にあり、農耕には適さない地形であッたが、江戸時代になり有名な野火止用水を玉川上水より摂水し流す事によって市域の農業は盛んになった。
 中世期には片山氏が居住していたとされるが、上記のように農耕に向かない土地であり、近年の都市化の影響も受けて、中世期の遺構は少ない。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:片山氏館
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。

城名 片山氏館 読み かたやましやかた
所在地 埼玉県新座市片山
別名   コード 11_01_011_00100
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
    
歴史
鎌倉の御家人片山氏
 片山氏は系図によれば平姓を名乗っているが、他の系図に見られないという。『片山氏系図』には康忠・忠孝・弘光・正光ら四代の名が書かれており、このいずれかが当新座郡片山郷に居を構えて片山氏を名乗っている。
 後に鎌倉期に入って伊勢国阿下喜御厨(現在の三重県いなべ市北勢町阿下喜)と丹波国和智庄(現在の京都府船井郡京丹波町和知地区)に地頭職を得て、鎌倉中期にはこの地を離れ各地で土着していった。
 片山氏はしばらくは片山郷に居住していたと見られるが、当地は台地上にあった為、耕作に不向きであったので、いつしかこの地より姿を消していった。
丹波の地頭職へ
 承久の乱のあった翌承久四年(1222)三月二四日に、承久の乱において幕府方で戦った片山右馬允広忠が、その恩賞として丹波国和智庄の地頭職を得た。更に一六年後の嘉禎四年(1238)には将軍藤原頼経の上洛に供奉し、その恩賞として丹波守護北条時房より同庄知行を受け領地は拡大した。
 以前から和智庄の荘園領主であった仁和寺と紛争を繰り広げる中も、片山氏は確実に丹波に根付きつつあった。そんな中時代は鎌倉幕府の倒幕へと向かい、執権北条氏に反旗を翻す決意をした足利高氏は、元弘三年(1333)四月二七日に丹波の篠村に倒幕の兵を挙げ、高氏からの軍勢催促に片山忠親(広忠より四代末)らの丹波武士も多く加わった。その後も片山忠親の子高親は高氏の先陣にて戦い、南朝方の和久城・安良賀城・雀部城などの攻略に従軍している。
明徳の乱
 足利氏が幕府を開いて三代目義満の代になった頃、丹波を含む十一ヵ国の守護職をしていた山名氏は強大な力を持っていた。権力集中を図ろうとした将軍義満にとって山名氏は目障りな存在になっていたので、山名一族間の不和を利用して離反策をめぐらした。
 これに気づいた山名氏清と満幸は明徳二年(1391:南朝歴の元中八年)十一月に南朝方へ寝返り、京へ攻め込んだが、氏清は赤松義則らと二条猪熊で戦い戦死した。この事件をのちに「明徳の乱」と呼んでおり、他の丹波国人同様片山氏も山名氏に従軍していたと見られる。
 この明徳の乱以降の丹波国は細川氏の属国となった。これを境に活躍の場を減らした片山氏は、後年何らかの理由で地頭職を奪われたりしており、しばらくの間その動きは見られなくなる。
その後の丹波片山氏
 一時衰退した片山氏であったが、永正二年(1505)頃の『片山家文書』に復権したと見られる文書があり、これより先は出野(いでの)地区に進出していた出野片山氏が中心となって活躍するようになってくる。
 戦国期になっても丹波国には強力な戦国大名はおらず、天正六年(1578)に織田信長の家臣明智光秀が丹波平定をするまで各国人が自立割拠していた時代が続いた。丹波が光秀の手によって平定されると、片山氏の子孫である片山兵内・出野甚九郎・粟野久次は「和知三人衆」として光秀の配下になり、亀山城築城の夫役を負っている。
 和知地区は亀山城の支配下となり、天正十年(1582)の山崎の合戦で明智光秀が破れると、丹波国は勝者である羽柴(後の豊臣)秀吉の直轄領となった。
 そして秀吉が天下を平定して太閤検地や刀狩りを実行すると、土豪片山一族の力は急速に弱体化していった。
 豊臣秀吉が没し、慶長五年(1600)九月に関ヶ原の合戦が起きた。この頃の和知の土豪達はひとまずどちらに付くか旗色を明らかにしない方針で様子を見て、後の勝者に付くつもりであったようである。ところが関ヶ原と時ほぼ同じ頃に西軍に属していた福知山城の小野木重勝に攻められ、出野甚九郎が守備していた出野城を落城させられている。
 『和知町誌』には田辺城主細川幽斎藤孝が東軍に付き、田辺城とよしみを通じていた和智三人衆は、西軍の小野木勝重に攻められたのだろうと推測している。結果東軍の徳川氏が勝利したのだが、皮肉にも合戦の決する数日前に、出野城は西軍によって落城してしまったのであった。
 その後、東軍に領地安堵を願い出るもその返事は無く、片山一族はそのまま帰農した。後の大坂の陣において豊臣秀頼方より参陣の誘いがあったものの、既に帰農していた片山兵内康元は、最早戦う力も無いので行けば犬死するという文書を一族の者に差し出している。
遺構  「堀の内」などの地名は残るものの、遺構どころかその所在地すらも明確ではない。

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<<主要参考文献>>
新座市史 第五巻 通史編 新座市 (1987)
和知町誌 第一巻 和知町 (1995)
埼玉県の中世城館跡 埼玉県教育委員会 (1989)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)