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志木市(しきし)
 埼玉県南部に位置する都市である。東京からも比較的近く、早い時期から通勤圏内であったこともあり、開発が急速に行われた。それは同時に中世城館遺構にとっては厳しい環境であるといえる。
 中世期には新座郡に属して鎌倉街道羽根倉道が北側を通り、早くから開けた土地であった。室町期には本山派修験道の中心地であった「十玉坊」が一時、志木市内にあった。
 当市の詳しい領主等は明らかではないが、室町期になると武蔵守護代となった大石氏が柏の城城主となり、市内への影響力を強めていった。また、戦国末期になると多くの落武者たちが住み着き、一帯を開発するに至っている。
 近世には江戸と河越を結ぶ新河岸川の沿岸という事もあって、市ができて賑わいを見せた。
当ページ収録城館跡一覧 早見表
 1:柏の城
 2:志木陣場
 3:関根氏館
 4:細田氏館
 
-- まがい地 --
 A:舘新屋敷
 B:下宗岡屋敷 
※地図は平成大合併前の物で、河川の形状については明治時代の迅速測図を元に想像で描いたものです。
←各項目にあるこちらのアイコンはゼンリン社の現地地図にリンクしております。参考のまでにご覧下さい。

城名 柏の城 読み かしわのじょう 本曲輪のあった志木第三小学校校門、近くに柏の城の解説板もある。
所在地 埼玉県志木市柏町三丁目
(字城山)
別名   コード 11_01_010_00100
築城年 不詳 主な城主 大石信濃守政吉
廃城年 不詳 形態 館?
    
歴史
築城時期不明の柏の城
 柏の城の事を伝える文献が少なく謎の残る館である。
 『舘村風土記』という郷土史には田面郡司長勝が柏の城に住んでいたとし、その後平氏が権力を握っていた時代には武蔵三郎左衛門有国が、鎌倉幕府成立時には荏柄平太胤長、執権北条氏時代には二階堂土佐守が柏の城に住んでいたとしている。いずれも信頼できる文献の裏づけが無い等として『志木市史 通史編 上』では信用できない資料として紹介している。
 
大石領の北東端にある「境目の城」
 柏の城に住んだ武士として確かなのは武蔵国守護代であった大石氏である。室町期中期にあたる十五世紀末に、道興准后という高僧が関東を歩いた旅の記録や漢詩・和歌などを収めた『廻国雑記』という古書がある。これによれば大石信濃守(顕重)の館に高い楼閣(矢倉・櫓)があってそこに登って和歌を歌った事が書かれているが、それがこの柏の城であるという。大石信濃守顕重の根拠地は高月城(東京都八王子市高月町)であるが、東方の領地運営の拠点としてこの柏の城にも来ていた事も考えられている。
 この城に築かれていた大堀や土塁などの設備は大石氏の領土北東の要となり、新河岸川越しに足立郡方面、柳瀬川越しに入間郡東部方面からの侵略から備えていたと見られる。
 
大勢力に翻弄される
 関東管領上杉氏の権威を後ろ盾に勢力を保持していた大石氏にとって、戦国末期になって一大転機が訪れる事になった。相模より勢力を伸ばしてきた小田原北条氏の存在である。権力を背景に支配してきた大石氏にとって、管領上杉氏の衰退と小田原北条氏の北上は避けては通れぬ事態であり、改めて北条氏に屈してその跡を氏康の子氏照に譲った。
 以後北条氏の勢力が広がるにつれて戦争が無くなったが、ある時越後の上杉謙信が北条氏の領地を侵してきた。この時も当柏の城も攻撃を受けたようで、永禄四年(1561)に落城したという伝承がある。それ以外は戦火も防衛的役割が無く、平穏な時期であった。それゆえに城兵である大石越後守が天正九年(1581)に北条氏の命によって駿河国獅子浜城(静岡県沼津市)へ移動させられている。
 
廃城とその後
 廃城の時期については分からないが、実質上上杉謙信に落とされた永禄四年以降であったと思われ、それ以後は城が活躍したという記録がない。城兵であった宮原監物・岸茂左衛門・伊藤清左衛門・佐藤平蔵らが後年柏の城に戻り、その周辺に住み着いて開拓している。
 徳川氏が関東に入国すると、この舘村には元北条氏照家臣の大嶋大内蔵(中嶋大蔵盛直?)を配置して帰農武士の多い舘村の人心掌握に務めさせた。
 その後慶長年間(1596〜1614)に京都五山の僧侶だった福山月斎が柏の城の本曲輪に屋敷を構えた。この月斎は徳川家康によって還俗され、儒者としてその側に仕えていたといい、徳川氏の家系が正式な源氏の血筋であると威厳付けた功績によって他の旗本と同格の扱いを受けてこの地を賜った。ある時隣接していた宮ヶ原弥右衛門の屋敷が火災に遭い、南風が激しく吹いていた為に月斎の屋敷まで延焼してしまったという。
遺構 かっての堀跡であった場所 現在遺構は学校敷地及び宅地になっており、その当時の姿をみる事はできない。宮原家が所有する享保十二年(1727)に記録された『舘村旧記』には、当時残されていた城の遺構を図にした物が残っている。それよれば柳瀬川に突き出た台地を二つの堀で区切る構造になっていたようで、本曲輪は現在の志木第三小学校敷地になっている。
 

城名 志木陣場 読み しきじんば  
所在地 埼玉県志木市本町
(字陣場)
別名   コード 11_01_010_00200
築城年 天文年中? 主な城主 上杉謙信?
廃城年 不詳 形態 陣城
    
歴史
柏の城攻撃用の「対の城」
 『新編武蔵風土記稿』によれば字陣場と呼ばれる場所は、天文年中に関東に出陣した上杉謙信が柏の城に籠もる大石政吉を攻撃するために設けた陣であったという。しかし、天文年中(1532〜1555)というのは天文二十一年(1552)の関東出兵の事であると思われる。
 
遺構  現在陣場と呼ばれた場所は市街化されており、歴史を思わせるものは残されていない。

城名 関根氏館 読み せきねしやかた 堤防上より関根兵庫の館跡を望む。
所在地 埼玉県志木市宗岡
字野垂
所在地地図
別名 関根兵庫館 コード 11_01_010_00300
築城年 戦国末期? 主な城主 関根兵庫
廃城年 不詳 形態 館?
    
歴史
羽根倉の渡しの傍らに所在する館
 武蔵国岩附(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)に住んでいた関根氏の一族と思われる人物である関根兵庫が、戦国末期に当宗岡に移住した際ここに住んだとされている。この地は中世期において鎌倉街道羽根倉道が付近を通っており、そのまま奥州東北へと道が伸びていた。主要街道の一つであったようで、南北朝期の観応二年(1351)にこの付近で高麗経澄が難波田九郎三郎を打ち破った「羽根倉合戦」が起こっている。
 
岩附城の落武者関根氏とは
 関根氏について詳しい出自などについて分かっていない。『志木風土記 第六集』によれば土合(現在のさいたま市桜区と南区で宗岡から見て荒川向いの地区)の郷土史によれば、岩附城が落城した天正十八年(1590)に家持の者はそのまま土合に住み、独身者は志木方面に移住するという話があったそうである。それが事実であれば関根兵庫は当時独身で、宗岡地区に移住したと見れる。
 関根兵庫の生年は分からないが、十六代子孫の家に残された位牌によれば関根兵庫は寛永二十年(1643)に卒したとあるので、岩附城落城時の天正十八年(1590)より五十三年生きていた事になる。独身でこの地に来た事も踏まえて見ても若年であったと思われる。
 
遺構 街道沿いの今の風景、土塁らしきものがあるが真相はいかに? 現在、グランドになってしまっており、その名残を追う事はできない。グランド造成前には城に伴う溝や土盛りがあったという。現在残されている道などに当時の街道と渡しがあった事を思わせるものがある。

城名 細田氏館 読み ほそだしやかた 宿付近の風景、近年国道254バイバス開通によって光景が変わる。
所在地 埼玉県志木市上宗岡二丁目
(字宿)
所在地地図
別名 宿遺跡 コード 11_01_010_00400
築城年 不詳 主な城主 細田九郎左衛門義久?
廃城年 不詳 形態
   
歴史
近年発掘された謎の館跡
 近年の発掘調査によって明らかになった館跡で、そこについての伝承などは残されていない。上宗岡は宗岡地区の中においても古代より開発が進んだ所であり、そこを治める在地土豪が居住していた場所ではないかと思われる。
 当地宗岡郷は室町期には仙波対馬守が領していたようで、堀越公方足利政知の命により宗岡郷に入部した長田弥九郎清仲の代理人が現地で妨害にあった事が、寛正四年(1463)に書かれた京都鹿王院の『堀越公方家奉行人連署奉書』という文書に残されている。これから推測するとこの遺構も当時は仙波対馬守によって運営されていた可能性も考えられる。
 
滝の城家老職細田氏
 当地にお住まいの細田氏の祖先は、かって北条氏照に仕えた細田九郎左衛門義久であったという。官途名を隼人正といい、滝の城の家老職を務めていた。また、滝山城主大石某の家老細田河内守という者がいたが、この河内守と当地に住んだ細田氏は同じ一族である可能性は高い。
 天正十八年(1590)に滝の城が落城した際にこの地に落ち延び、以後この地に住んでいるという。細田氏の家にはかっての主君であった氏照・氏政の戒名のある位牌が今もあるという。
遺構  
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<<参考文献>>
志木市史 通史編 上 志木市 (1990)
志木市史 中世資料編 志木市 (1986)
志木市史調査報告書
  「志木風土記 第五集」
志木市 (1984)
志木市史調査報告書
  「志木風土記 第六集」
志木市 (1985)
「郷土 志木」  各号 志木郷土史研究会
埼玉の館城跡 埼玉県教育委員会 (1969)
日本城郭大系5 新人物往来社 (1980)
日本城郭大集4 人物往来社 (1967)

城名 舘新屋敷 読み たちあらやしき 字新屋敷付近の様子
所在地 埼玉県志木市柏町五丁目
(字新屋敷)
所在地地図
別名   コード 11_01_010_10100
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態 屋敷?
   
歴史
柏の城の旧臣たちの屋敷?
 『舘村旧記』によれば永禄四年(1561)に柏の城が没落した後、大石信濃守の家中の者らが四散したが、後に宮ヶ原・伊藤・佐藤・岸らの諸氏が立ち戻り、柏の城の三の曲輪の北側に屋敷を構えたという。その後多くの人々がこの地に住み着き、この地の基礎を作ったという。
 この「新屋敷」も柏の城に対する名称か、あるいは上記の旧臣たちの住まいに対する名称かは分からないが、それに対比して何者かが新しく造り住んだ屋敷なのでこの名称を使われたのであると思われる。
遺構  「字新屋敷」のすぐ側は東武東上線が走っており、この地は柳瀬川が作り出した河段丘陵上にあり、列車がしきりに走り去る以外はいたって静かな場所である。
 詳しくは調べてないがこの周辺には旧家も多く、屋敷の名残を残す家があるかも知れない。

城名 下宗岡屋敷 読み しもむねおかやしき 下宗岡の字前内手の様子
所在地 埼玉県志木市下宗岡二丁目
(字樋ノ詰)
所在地地図
別名   コード 11_01_010_10200
築城年 不詳 主な城主 不詳
廃城年 不詳 形態
   
歴史
城館地名を残す謎の地
 下宗岡は宗岡地区でももっとも新しく開発された所である。この付近には「前内手」や「馬場」の地名が残っているものの、その詳しい事は伝わっていない。新河岸川(内川)と荒川(中世期には入間川)に挟まれた自然堤防上に位置しており、いずこかの武士が住んでいた可能性がある。
 宗岡地区には甲斐武田氏の遺臣が多く住み付いたといい、内田(菅原)氏や市ノ瀬氏などその数は三六人とも二三人とも言われている。その内の誰かがここに住んで居たことも考えられる。
遺構  周辺は市街化が進んでいるものの、一部は水田がありかっての面影を残している。