築城時期不明の柏の城 |
柏の城の事を伝える文献が少なく謎の残る館である。
『舘村風土記』という郷土史には田面郡司長勝が柏の城に住んでいたとし、その後平氏が権力を握っていた時代には武蔵三郎左衛門有国が、鎌倉幕府成立時には荏柄平太胤長、執権北条氏時代には二階堂土佐守が柏の城に住んでいたとしている。いずれも信頼できる文献の裏づけが無い等として『志木市史 通史編 上』では信用できない資料として紹介している。
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大石領の北東端にある「境目の城」 |
柏の城に住んだ武士として確かなのは武蔵国守護代であった大石氏である。室町期中期にあたる十五世紀末に、道興准后という高僧が関東を歩いた旅の記録や漢詩・和歌などを収めた『廻国雑記』という古書がある。これによれば大石信濃守(顕重)の館に高い楼閣(矢倉・櫓)があってそこに登って和歌を歌った事が書かれているが、それがこの柏の城であるという。大石信濃守顕重の根拠地は高月城(東京都八王子市高月町)であるが、東方の領地運営の拠点としてこの柏の城にも来ていた事も考えられている。
この城に築かれていた大堀や土塁などの設備は大石氏の領土北東の要となり、新河岸川越しに足立郡方面、柳瀬川越しに入間郡東部方面からの侵略から備えていたと見られる。
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大勢力に翻弄される |
関東管領上杉氏の権威を後ろ盾に勢力を保持していた大石氏にとって、戦国末期になって一大転機が訪れる事になった。相模より勢力を伸ばしてきた小田原北条氏の存在である。権力を背景に支配してきた大石氏にとって、管領上杉氏の衰退と小田原北条氏の北上は避けては通れぬ事態であり、改めて北条氏に屈してその跡を氏康の子氏照に譲った。
以後北条氏の勢力が広がるにつれて戦争が無くなったが、ある時越後の上杉謙信が北条氏の領地を侵してきた。この時も当柏の城も攻撃を受けたようで、永禄四年(1561)に落城したという伝承がある。それ以外は戦火も防衛的役割が無く、平穏な時期であった。それゆえに城兵である大石越後守が天正九年(1581)に北条氏の命によって駿河国獅子浜城(静岡県沼津市)へ移動させられている。
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廃城とその後 |
廃城の時期については分からないが、実質上上杉謙信に落とされた永禄四年以降であったと思われ、それ以後は城が活躍したという記録がない。城兵であった宮原監物・岸茂左衛門・伊藤清左衛門・佐藤平蔵らが後年柏の城に戻り、その周辺に住み着いて開拓している。
徳川氏が関東に入国すると、この舘村には元北条氏照家臣の大嶋大内蔵(中嶋大蔵盛直?)を配置して帰農武士の多い舘村の人心掌握に務めさせた。
その後慶長年間(1596〜1614)に京都五山の僧侶だった福山月斎が柏の城の本曲輪に屋敷を構えた。この月斎は徳川家康によって還俗され、儒者としてその側に仕えていたといい、徳川氏の家系が正式な源氏の血筋であると威厳付けた功績によって他の旗本と同格の扱いを受けてこの地を賜った。ある時隣接していた宮ヶ原弥右衛門の屋敷が火災に遭い、南風が激しく吹いていた為に月斎の屋敷まで延焼してしまったという。 |