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おがわじょう
小川城
所在地 群馬県利根郡みなかみ町橋下
小川城の周辺地図。
緑が城の大まかな範囲。
国道291号線が小川城のニノ丸を通過している。赤い幟が建てられており、よく目立つ。
専用駐車場は無いので、今回は公衆トイレの前に車を停めて訪れた。
真っ先に主郭部分を守る空堀の歓迎を受ける。
単に直線に切るのではなく、しっかり折をいれているのが堅固でグッド!
空堀の反対側。その先が竹やぶになっているので確認はしてないが、地図上では急落している。
主郭は公園になっており、何かが植えてある関係で通路しか歩けない。
北と南には僅かに土塁が認められる。
小川城についての解説板も備えられている。
主郭の先は一段下がって笹曲輪が作られている。
なお、その先は急崖になっているので、末端まで行かないように気をつけておきたい。
この地に十八年間住んだ真田伊賀守信澄の陣屋跡が、三の曲輪付近にある。
後に沼田藩を継いだが改易処分にあった人物である。
(詳細は年表参照)
小川城推定復元お絵描き。
明確に残るのは主郭の周辺のみで、二の丸の堀が僅かに痕跡を残す程度である。
比較的アクセスも容易にできるので、足を運んでご覧頂きたい城である。
  
小川城 年表
明応元年
(1492)
三浦系沼田氏六代景久によって築城され、その次男景秋が城主となる。
文亀二年
(1502)
正月二六日、二代目小川三郎景祐は素行に優れぬ城主で、城主の座を赦免される。その後、沼田本城に攻め入り成敗された。
後継に景祐の弟河内守秀泰が三代城主となる。秀泰は沼田七騎に名を連ねる勇将であったという。
大永二年
(1522)
三代秀泰死去、彦四郎景奥が継ぐ。
大永四年
(1524)
小川城が攻められた時、城内は放火される。城将景奥はその時不慮の事故死を遂げ、小川氏の直系は途絶える。
後継者問題で、北能登守と南将監が争う。その時上方の浪人で、赤松則村の末裔を称する赤松捨五郎祐正が、人々の支持を得て城主となり、小川可遊斎と名乗る。
永禄三年
(1560)
関東管領上杉憲政より管領職と上杉姓を譲られた越後国(新潟県)の長尾景虎は、関東平定の兵を進めるべく名を上杉輝虎と改め、八年間の準備を経て出陣した。
九月には上野国へ至り沼田城を攻略しているので、小川城もこの頃上杉勢に組み込まれたと思われる。
永禄六年
(1563)
沼田顕泰が上杉方として、甲斐武田配下の真田幸隆が立てこもる岩櫃城(群馬県東吾妻町)を攻めた時、小川可遊斎も名を連ねる。
天正六年
(1578)
三月十三日、上杉謙信が急逝し、これにより後継者争い(御館の乱)が発生。沼田城代上野家成や河田重親は、後北条氏出身の上杉景虎方であったので、沼田城は北条方の手になる。小川城もこの時北条方になったものと思われる。
天正七年
(1579)
武田氏家臣真田昌幸が小川城・名胡桃城を攻略。
十一月に小川城を取り返すべく後北条氏家臣猪俣能登守・藤田能登守率いる五千の兵が攻め入るが大雪の為撤退。
天正八年
(1580)
正月十一日、昌幸が岩櫃城より名胡桃城へ移り、沼田城攻略の評定を開く。その中に小川可遊斎忠信も同席している。
三月、小田原北条氏との合戦において小川可遊斎の戦略によって大勝利を収める。
五月、沼田城将藤田能登守信吉が真田昌幸へ城を明け渡し降伏。
十月、北条氏邦が先の戦の数倍の兵力を持って小川城に攻め込む。あまりの多勢に多くの戦死者が出た可遊斎は、小川城を捨てて詰城である味城山へ籠城する。
味城山は高山で水や食料に不足していた為に長期の籠城はできず、須摩野口より越後国(新潟県)に落ち延びていった。
その後小川城城主として一族である北能登守が城主になる。
天正二〇年
(1592)
この頃には真田昌幸の支配下にあり、北能登守はこの頃まで城主を務めていた。以後数年間の小川城主不明で、戦国期の小川城は廃城になったと思われる。
元和元年
(1616)
真田昌幸の長子信之が信州松代に移り、沼田城主として庶長子信吉が入る。
寛永十一年
(1635)
沼田城主信吉が江戸屋敷において四十歳で死去。長男の熊之助が四歳で後を継ぐ。信吉の弟信政が後見人となった。
寛永十五年
(1638)
真田熊之助が七歳で夭折し、後を叔父で後見人であった信政が沼田城主となった。
熊之助の弟である真田伊賀守信澄が小川村に五千石を与えられ、三の丸に陣屋を設けて一八年間居住する。当時の信澄は四歳。
明暦二年
(1656)
信政が松代藩主を継ぐに伴い、信純は信利と名を改め沼田城主となり、小川城(当時は陣屋)は廃城になった。
正式に松代藩からの独立もし、沼田藩三万石を立てる。
天和元年
(1581)
松代藩十万石に対抗意識をもっていた信利は、自藩の三万石を十四万四千石と幕府に報告した上で領民に重税を科した。のちに領民から幕府へその悪政を直訴されている。
更に工事の納期が遅れた責任もあり、沼田藩は改易となった。翌年天和二年正月には沼田城は堀を埋められ廃城となった。

文献
現地解説板
沼田市史 通史編T
日本城郭大系4(1979)


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