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いしくらじょう
石倉城
所在地 群馬県利根郡みなかみ町石倉
石倉城の周辺地図。
緑が城の大まかな範囲で、赤線は城を訪ねる際のルートを示す。
石倉城は関越自動車道の水上ICからすぐ近くで、車でのアクセスは非常に便利な場所にある。
ICを出たら国道291号を沼田方面に走らすと、写真の左中央奥から走ってくる事になる。
すると向かって左側に写真の案内板が表示されているので、訪れやすいと言える。
ただ、この先の駐車場は無いので、旧道の名残である空き地に止めると良さそうだ。
先ほどの道をまっすぐ行くと民家に突き当たるので、右に曲がるとほぼ城跡に到着する。
しかし、畑のはずだがえらい藪だらけである。真夏ではとても訪れる事はできなそうな雰囲気が漂う。
今回行ったのは10月であるから、降雪前の12月までに行くと良さそうだ。
標柱と解説板。
解説板の方はゴージャスにも鳥瞰図が描かれており、儀一の脳裏に描け鳥瞰図という刺激が与えられた。
・・・のは良かったが、あまりにも殺風景なので、地形だけちゃんと書いておく。
実を言えば堀があるらしいのだが、藪があったので見つけてない。
しかも雨後なので破は歩きたくないという個人的都合により回避。
南側の谷。とは言え藪ちゃんがすごくって全然わからん。
地形図を見ると沢になっており、その図の通り谷になって分断されている。
そんなこんなでもう調査終了、そして作った絵がこれ。
地形だけ見ればいい地形なんだが、藪がすごくて遺構が分からないのと、畑になった部分がどうだったのかという事でうやむやな内に終了という印象で終わったのであった。
  
石倉城 年表
文明十年
(1479)
関東管領上杉顕定により築城。
顕定が本拠である平井城(群馬県藤岡市)と、出身地である越後国(新潟県)を結ぶ街道筋に設けた中継地点であった。
同年、太田道灌により長尾景春の乱が鎮圧されている。
永正四年
(1507)
顕定の弟である越後守護上杉房能と守護代長尾為景の間で紛争が起き、房能は討たれる。
永正六年
(1509)
顕定が越後に攻め入り、弟を討った長尾為景と上杉定実を越中国(富山県)へ追放する。
永正七年
(1510)
顕定の越後統治は国人の反発にあって失敗し、これに乗じて越後国を追われていた長尾為景が反撃に出る。
六月二十日、長森原(新潟県六日町)の合戦において関東管領上杉顕定が討たれた(享年五十七歳)これにより顕定方は総崩れとなり敗走。
その頃、当石倉城も廃城になったとされる。

文献
現地解説板
日本城郭大系4(1979)


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